さえきかずひこ



 1000冊への8年

読書メーターは2008年に赤星琢哉氏によってインターネット上に公開されたウェブサイトである。ぼくは読書メーターが公開されてすぐに利用を開始し、メモをつけ始めた。それから早8年の歳月が経ち、その間の2014年に読書メーターは開発者の手を離れ、株式会社ドワンゴに売却されたが、現在も変わらず、わが国のウェブにおける読書メモサイトの代表として繁栄している。

2016年5月、ぼくの読書メモはようやっと1000件を超えた。 読書メモというが、これは読書メーター上で登録している読了本の冊数と簡単な感想を合わせて、便宜的に読書メモと言っているだけで、読書メーターそのものに読書メモという呼び名の機能があるわけではない。何はともあれ、1000件である。めでたい。いや、めでたくない。いずれにせよ、この際、ぼくがこの8年ほどでいったいどんな本を読んできたかを振り返ってみるのもいい機会だと思い、筆を取った次第である。 » すべて読む

承前 :【瀬川さんの6月のリサイタル/1914年のミュンヘンをめぐる妄想

どうしてもパウル・クレーとフーゴ・バルの1914年の関係が気になって、自室の片隅からバル『時代からの逃走』(1975年、みすず書房)を掘り起こしてしまった。パラパラと必要に応じて飛ばし読むと、バルの主導した展覧会でクレーの絵を展示していたのは確実だ。おそらく、ふたりは面識もあったはずだ。

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目黒のBuncademyで開かれている近藤譲先生による原書講読講座が、去る5/1(日)に無事終了した。終了といっても、これは第3期の講座が終わったのであり、近いうちに第4期が開かれる予定となっている。ちなみにいま、近藤先生指導のもと、講座のみんなで読んでいる本は Mark Evan Bonds(ノースカロライナ大学チャペルヒル校音楽学部特別教授)の『Absolute Music』(2014年、Oxford University Press)である。決して易しくはないが、ワグナーが1846年以降世に広めた、"絶対音楽"(Absolute Musik)の起源を古代ギリシアから中世ヨーロッパ、そして20世紀に至る音楽史の中に辿っていくという、壮大な規模と深度を持ったストーリーを追っていける、実に読み応えのある一冊。
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5月1日(日曜日)の午後3時から、目黒区のBuncademyにて、近藤譲による 第3期現代音楽鑑賞講座の第7回(最終回)が開催された。今回は米国のアルヴィン・ルシエ(Alvin Lucier, 1931-)の『I am sitting in a room』(1969)という録音を主に聴き、またあわせて彼のドキュメンタリーDVD『No Ideas But In Things』に収録されている「Music On A Long Thin Wire」という映像を見聴きし、ひろく音楽における自然と藝術の関係について、考えるこころみである。
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午前11時からの原書講読講座が終わり、しむさんに声をかけられた時も、音楽鑑賞講座に出ようか出まいか、正直、まだ迷っていた。

きょう4月17日の午後の発表者の大久保さんは1978年生まれ、岡崎さんは1985年生まれ。共に若く、わたし(1980年生まれ)とほぼ同じ世代と言っていいだろう。自分と近い年の人が何をやっているかというのは、わりと気になるところである。が、同時に、自分に近い年の人に対してまだ未熟だったり、あるいは気張っていたりーこれは完全にわたし自身を他者に投影しているから、滑稽なのだがーして、あまり学ぶべきものはないのではないかと不遜なことを思ったりもするのである。

昼食の後、学芸大学駅前のドトールを出て駅に向かうと、改札の前に人が溢れていた。折からの強風で東横線はどうも運転休止しているようである。さて、またBuncademyに戻るか、と先ほど来た道を足早に戻った。電車が止まっているようだが、きょうの発表者は果たして間に合うのだろうか、とも思いながら。
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(撮影・編集/東間 嶺、以下すべて同じ)


ウツノウミカラ、キカンセヨ!censored 再開にあたって  
 
掲題の通り、中断していたうつ日記の 公開を2012年9月分より再開することにした。理由は二つあって、ひとつは志半ばで中断していたこの日記を読みものとして完結させたいという気持ちがあること、ふたつめはこれを再開することで、すこしでも精神疾患(うつ病など)をお持ちの読者の方々の慰安・勇気付けになればと願うからである。ちなみに筆者は2009年の夏に発病して以来、約5年にわたって現在もなおうつ病の治療中である。

以前、この日記が中断された理由をいま明らかにすると、筆者の家族から、無断で各人についての記述を公開することはプライバシーの侵害にあたると抗議されたことにあり、現在よりも格段に症状が重かったわたしは、その声にうまく応じてコンテンツの軌道修正を図る余裕がなかったことにある。

というわけで、今回タイトルに"censored" と加えて記しているのは、文字通り(自己)検閲済みという意味であり、検閲の方法は前述の該当部分を泣く泣く削除したり、伏せ字にしたことによる。筆者の 家族や親族、友人らについての生々しい描写が十全にできないことは残念だが、一億総インターネット接続時代の代償であることをご賢察頂ければ幸いである。

それでは、お楽しみください。

さえき 拝
 

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数日前から、なぜか突然夏が終わってしまったようだ。唖然としているうちに、ぼくの大好きな秋がやってきた。夏のことは別に愛してはいなかったけれど、こうも唐突に終わられてしまうと、しじゅう暑苦しい風体の、何につけても押しつけがましい、しかし、親友と思っていた人物と、突然音信不通になってしまったかのような、ある種の喪失感がわが心中をかけめぐってくることは否めないのだった。

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シリーズ【ジャズ批評家を読む】をはじめるにあたって

掲題のとおり、ジャズ批評家を読む、という評論のシリーズをはじめることにした。
はじめるにあたって、あいさつ代わりではないが、少しばかり申し述べたい。

2006年から2009年までの4年間、ぼくは東京・京橋にあった映画美学校という学び舎で、真に客観的な音楽批評は可能かという問いに心身を蝕まれていた。日々を倦ませる酷薄なサラリーマン生活の傍ら、さまざまな音楽を仲間たちと共に聴き、語り、学び、そして壮大にズレまくった問いに(個人的に)向き合うことでうつ傾向の激しい自分を支え、何とかいきのびていたのである。

その成果は、仲間たちと作り込んだ『TOHUBOHU』(2010年末発表)という音楽同人誌に結晶したのだった。そして、自分の命の糧である書物と、その書物への思いを共有する場所として2010年秋には新宿文藝シンジケートというなまえのよろず読書会を立ち上げて、5年間活動してきた。何もかも、自分と共鳴しあってくれた友人たちのおかげである。いまでも心から感謝しているし、その気持ちが絶えることはない。

それは、それとして。

いまぼくは20世紀のジャズ批評家が書いたものに虚心に向き合い、それを仔細に読み、思ったり感じたりしたことを書きつけていきたいという気持ちに強く襲われるようになった。前世紀に書かれ、発表され、読まれてきた無数のジャズの批評は21世紀のこんにち、果たしてどのくらい読まれているのであろうか?そしてまたいま読むに耐える優れた作品はどのくらいあるのだろうか?そういった点を勘案しつつ、みなさまに楽しく読んで頂けるよう、精進していきたい。

この構想は2015年の正月に産声を上げた。全6回の予定で書き進める予定である。この6回はさしあたって著名なジャズ批評家の作品を取り上げていく。すこし名前を挙げてみると、今回第1回目のナット・ヘンホフ、その後に控えるはレナード・フェザー、アイラ・ギトラー、コンラッド・シルバートといった凄腕の面々。日本語によるレビューシリーズなので、邦人のジャズ批評家もとりあげられればと思っている。ジャズが好きでも、そうでなくても、お気が向いたときに、ぜひご高覧頂けると幸いです。

それでは、どうぞよろしくお願いいたします!!

さえき 拝

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大友
(撮影:さえきかずひこ、デジタル編集:東間 嶺)

 2014年11月22日から2015年2月22日まで初台インター・コミュニケーション・センター[ICC]で開催された【大友良英 音楽と美術のあいだ】展に、会期後半である1月23日に足を運んだ。ぼくの個人的な記録によればその前にICCを訪れたのは、2005年3月21日(【アート・ミーツ・メディア:知覚の冒険】展)であり、約10年ぶりの訪問だった。 » すべて読む

ウツ-10
さえき近影【Portrait:Depressed patients(Saeki Utubo Kazuhiko)
(撮影・編集/東間 嶺、以下すべて同じ)


ウツノウミカラ、キカンセヨ!censored 再開にあたって  

掲題の通り、中断していたうつ日記の 公開を2012年9月分より再開することにした。理由は二つあって、ひとつは志半ばで中断していたこの日記を読みものとして完結させたいという気持ちがあること、ふたつめはこれを再開することで、すこしでも精神疾患(うつ病など)をお持ちの読者の方々の慰安・勇気付けになればと願うからである。ちなみに筆者は2009年の夏に発病して以来、約5年にわたって現在もなおうつ病の治療中である。

以前、この日記が中断された理由をいま明らかにすると、筆者の家族から、無断で各人についての記述を公開することはプライバシーの侵害にあたると抗議されたことにあり、現在よりも格段に症状が重かったわたしは、その声にうまく応じてコンテンツの軌道修正を図る余裕がなかったことにある。

というわけで、今回タイトルに"censored" と加えて記しているのは、文字通り(自己)検閲済みという意味であり、検閲の方法は前述の該当部分を泣く泣く削除したり、伏せ字にしたことによる。筆者の 家族や親族、友人らについての生々しい描写が十全にできないことは残念だが、一億総インターネット接続時代の代償であることをご賢察頂ければ幸いである。

それでは、お楽しみください。

さえき 拝



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