中島水緒


前回
は杉本真維子の第二詩集『袖口の動物』(思潮社、2007)より「他人の手鏡」を集中的に読んだ。阿部嘉昭の「味読」に倣い、一行一行に注意を払いながら過剰な作品分析を試みたつもりだ。しかし最終的に、状況説明のように文脈を補いながら詩作品を読む手法の限界に直面することになった。物的証拠もしくは状況証拠を揃えて類推を働かせ、暗喩の作用を探り、音韻を確認しながら詩作品の「謎」を探る。詩作品の背後に隠れた意味が存在することを前提として、深遠な何かを言い当てようとする。詩を読む動機としてはそれで十分だろうし、痕跡としての「書かれた言葉」から恣意的な解釈を繰り広げる以外に読解の初手はない。だが、まず肝に銘じておくべきは、詩作品の分析者は探偵や精神科医ではないし、「最適解」の解釈に近づくことを目的とすべきでもないということだ。「書かれてないものを書かれてないままに読む」。前回の記事の結論部で仮に提起した課題だが、これを具体的に実践するにはアクロバティックな困難を伴う。「解釈しない」という単なる思考放棄とは違う仕方で、「書かれてないもの」を「書かれてないままに」、いわば空隙を空隙として読む方法を組織することは本当に可能なのだろうか?

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杉本真維子の第二詩集『袖口の動物』(思潮社、2007)に「他人の手鏡」という詩が収録されている。さほど長くない詩だが、細部を読み込んでいくと、行から行の運びに理屈では辻褄の合わない「断層」が生じる。読後に消化できない不安を残すという意味では厄介な詩だが、「理解すること」を目的としなければ、詩の読み方を探るための素材として杉本作品ほどに手応えのある対象はないかもしれない。試みに「他人の手鏡」の分析・読解メモをここに残してみたい。

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無表情な曇空がどこまでもつづく日曜の午後。15時40分、二階建ての小さな建物を改装したそのギャラリーに辿り着くと、長方形をした小部屋の壁面に「ráɪt」の文字をかたどったネオン管とシンプルな白の掛け時計が設置されていた。
ネオン管はコードでつながれているが灯りが点っておらず、秒針をはずされた掛け時計は少し先の時刻である15時50分を指したまま時が止まっている。照明器具としての機能を停止させた空虚なネオン管と、長針も短針も微動だにせず無用のオブジェと化した時計。1階に設えてあるのはそれぞれ《ráɪt》《15:50》と題されたこれら二つの作品のみで、空間の白さと要素の少なさが静態的な場を演出している。
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いかにも柔らかく滑らかそうなフカフカのクッション。画面いっぱいに近接した距離で描かれたそれは、視覚の欲望を触覚のそれへと変えてしまう。植物モチーフやストライプの模様が覆う寝具、澄んだ光沢を湛える陶器、部分を拡大して描かれた果実。伊庭靖子はそうした日常の事物を撮影し、写真をもとに写実的な絵画を描くフォトリアリズムの画家だ。入念な手順を経て完成した作品は、事物と眼のあいだを満たす空間と光を精確に写し取り、見ることの官能的な歓びを観賞者にもたらす。

しかし、フォトリアリズムの作家という一面的な理解でのみ伊庭の作品を眺めるのであれば、この画家の視覚的探求の幅広さは見落とされてしまうだろう。注目すべきは技巧の高さ以上に、その視覚的探求の「際限のなさ」である。フォトリアリズムのアプローチは、あくまでこうした探求のための一手段に過ぎない。今年の秋、東京都美術館で開催された個展「伊庭靖子展 まなざしのあわい」は、ステロタイプな作品理解を良い意味で裏切ってくれる好展示だった。

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新宿のphotographers’ galleryで大友真志の写真展「Mourai」を見た。2013年から北海道を拠点に活動する写真家の、東京では8年ぶりとなる待望の個展である。

「Mourai」というタイトルは 大友の祖父の生地である石狩市の集落「望来(もうらい)」に由来し、大友は以前から同名シリーズの写真展を継続して行ってきた。被写体となるのは多くの場合、北海道各地の風景や家族である。今回展示されたのはこの「Mourai」シリーズの近作だが、撮影地は望来に限らず、札幌市の精進川、北広島市の音江別川、北海道南部の鵡川と広範に渡っているようだった。
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箕輪亜希子『Picking stones』
撮影:東間 嶺 @Hainu_Vele(以下すべて同じ)


能動的active/受動的passiveな「私」

作家がある対象を作品の素材として選ぶとき、そこではどのようなメカニズムが働いているのだろうか。素材にまつわる情報を熟知して制作主体の「私」の管理下に置きたいという欲望か。それとも作家は何かの声に導かれて素材に「出会わされている」に過ぎないのだろうか。

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小崎哲太郎作品2018_2
(fig.1)《東原云》42×29.7cm

声高な自己主張をせず、流行に目配せするわけでもないが、記憶のなかで長く輝きを放つ作品というのは確かに存在する。そのような作品に出会うと、寡黙さの背後にある輝きの秘密を探りたくなる。作品に潜在する、いまだ顕在していない造形の可能性を、過去から未来に到るまで汲み尽くしたくなる。
発表の機会を逃したくない。できるならば作品の展開を一連の系のなかで捉え、どんな些細な変化も余さず観測しておきたい。たとえそれが、作品間の連なりに亀裂をもたらす異質なものであったとしても。

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(fig.1)福田尚代個展「山のあなたの雲と幽霊」DM


羽をひろげる鳥のように、扇状のかまえで台座の上に屹立する古い本。すべての頁は半分に折り込まれ、中身を読むことはできない。ただ、折り込まれた頁の隙間から一行だけが浮き上がっている。

「ごらんなさい。きっとまたお前の心には太陽がさしてくることと思います。」
「「そうさな。あんたは書きつづける方がいいと思うね」と彼ははげました」。

前後の文脈から切り離された一行は、ときに啓示のような厳かさをもって見る者に響くだろう。美術家・福田尚代による書物を素材とした作品《翼あるもの》は、この作家のシャーマニステッィクな資質を証言する代表作のひとつである。浮き上がる一行は作家が任意に選んでいるわけではなく、頁を折り込むとう反復行為の末に偶然見いだされるものらしい。にもかかわらず、私たちは偶然の一行があたかも必然の相貌をもってあらわれることに驚愕をおぼえる。
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闘争から逃走へ?「勝利-敗北」という構造へのオルタナティブ

今年4月にアート系タブロイド誌の『Va+』が刊行された。特集のテーマは「勝利と芸術生産」。勝利というある種の絶対性を帯びた価値概念と、価値観の多様性を謳うことの多い芸術のめずらしい取り合わせがまず興味を引く。特集の狙いに迫るため、少し長くなるが巻頭言を引用しよう。


「芸術生産を通して、私たちは「勝利」と、逆説としての「敗北」、そして「勝利-敗北」という構造そのものに対して、どのように向き合うことができるだろうか? 当然そこには、勝つか負けるかという二択ではなく、旧来の闘争や衝突から「逃げる」という選択肢もある。あるいは社会の中で身を翻し、現実に起こる日々の苦難に奔走されることなく、自分たちの生活における「よりよく生きる」ことを、「勝利-敗北」の構造そのものから遊離した姿として定義付けることができるかもしれない。では、その遊離した姿とは、一体何であろうか? ライフハック的な営為を経ることで、果たして「勝利-敗北」の構造から逃れることができるのだろうか? 既存の価値基準に自らを委ねることなく、オルタナティヴを探すことで、勝利の意味を実践として書き換えていく可能性はあるのだろうか?」

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『辰野登恵子アトリエ』三上豊編・著、桜井ただひさ撮影、せりか書房、2017年



アトリエ---「死者」の遺せしもの

2014年、画家・版画家の辰野登恵子が転移性肝癌のため64歳で逝去した。辰野は1980年代に抽象と具象のはざまにあるような油彩作品でスタイルを確立した画家だ。美術館での展示経験も多く、2003年からは多摩美術大学で教鞭を執り多くの後進を育てた。現代美術界ではその名を知らない人はほとんどいない巨匠のひとりである。
デビュー当時から高い評価を得て精力的な活動を展開してきた辰野だが、とくに大学勤めが始まってからは制作基盤の見直しを考え始めていたようだ。腰を据えて制作に臨める新しいアトリエを欲し、杉並・下井草の閑静な住宅街に念願となる半地下構造の住居兼アトリエを新築したのは、辰野が逝去する8年前、2006年のことだ。
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