橋本浩

ぼくはオブジェになりたい

 物心ついた頃からだろうか、私は「この私」が「この私」であることが不思議で仕方なかった。言い換えれば、「この現実」が「この現実」でしかないこと、眼前に広がる光景がそれ自体でしかないことに、何とも言い難い違和を抱いていた。それでも、その違和感はいずれ成長して大人になれば変化するのだろうという漠然とした期待も持ち合わせていた。

 大人になった今、当時の淡い期待の感覚を思い出すと、思わず失笑してしまいそうになる。なぜなら、大人としての私は、いまだに当時の違和感に苛まれているからである。それどころか、薄っすらと予感していた「この私」が「この私」でしかありえないという事実が明確になった今、私はもはや帰る場所を持たない異邦人のような心持ちで「この現実」を生きる他ないことに、マゾヒズム的に耐えている次第だ。

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まずはじめに、無があった。と書くと語弊がある。無を存在させてしまうからだ。ビックバンは無から生じたのではない。無さえ存在しないところへ生じたのだ。それ以前に何があったのかは定かではない。ビックバン時のそのエネルギーは膨張し続け、現在に至る。一説によると、ビックバン時のエネルギーが枯渇したとき、ビッククランチと呼ばれる時空の逆回転が起きると言われている。

映画「アルマゲドン」において、ブルース・ウィリス演じるハリーが地球に衝突する小惑星を爆破させるため自らの命を犠牲にして小惑星に埋めた核爆弾のスイッチを押すシーンがある。この映画は、はっきり言えば、このシーンのためだけにあるようなものだが、ハリーがスイッチを押した瞬間、ハリーの脳内で過去の記憶が一斉にサブミリナルのようにフラッシュバックする。それはまるでビッククランチにおける時空の逆回転であるかのようだ。
 
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伊勢佐木町の隣の通りにある若葉町という町に住んでいた頃、友人の中国人女性である海晴がマッサージ店の呼び込みの仕事をしていたから、私は深夜によく長者町の通りのガードレールに座ってポーの詩集を読んでいた。詩集を読むのに飽きると、手持ち無沙汰にしている海晴に冗談を飛ばしたり、メモ帳に街のスケッチのようなものを書いたりして夜明けまでの時間を費やしていた。深夜の長者町の通りは、言うまでもなく繁華街であり、人通りも絶えることなく、夜の街で生きる様々な職種の、様々な人種の人間たちが、時にはうつむき、時には叫び、時には笑いながら、街路を行き交うのだった。終電を逃したサラリーマン、仕事を終えた風俗嬢、仕事中だと思われるキャバクラ嬢、「おっぱい、おっぱい」と連呼するおっぱいパブの店員、そしてもちろん、マッサージ店の呼び込みをする中国人女性たち。それらの夜の風景は私にとって刺激に満ち、決して飽きるということがなかった。
 
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伊勢佐木町でぶらぶらと遊んで暮らしていた頃、桜木町にあった飲み屋によく通った。伊勢佐木町から桜木町までは歩いて数分の距離であり、散歩にはうってつけなのだが、その頃の私は馬鹿みたいにタクシーを利用していて、また、タクシーに乗るのが好きだった。人々がタクシーに乗る理由は、当然ながら、その利便性だろうが、私自身はタクシードライバーとの一過性の会話もその醍醐味のひとつだった。もちろん、寡黙なタクシードライバーが圧倒的に多い。タクシードライバーという職業は、客が望む場所に客を連れて行くことが仕事であって、決して、客と楽しく会話をすることが仕事ではない。タクシードライバーが寡黙であるからといって、客はタクシードライバーを非難してはならないのである。
 
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ビルとビルとの間で切り取られたような 
一瞬を切り取った写真のような 

人間が識別できる範囲において青の入り混じった黒い空が告げるのは、
ほら、方々に散り始め各々の偽りの姿へと帰っていく街娼たちの 
あの夜の中においてのみ輝くことのできる不思議な秘密の蜜のような、
快楽と幻想と苦痛の交差した時間の終わりを示す 

帰宅の途につく彼女らの足は重く冷たく、
霧雨を頬に真に受けて、
まるで涙のような粒が黒い夜に碇を下ろす

人間の真の動機を知っている彼女らは、
この世界と人とに己を求めない 

原始から彼女らはそれを知っていた すべてを知っていた 

天上の女神とは悪魔であった 
地上の楽園とは地獄であった 

しかし、もしもおまえが太陽と海の重なりあった黄金色を、
あるいは、太陽と海との境界が鋭い刃のように青く煌めくのを、
その束の間の凪の瞬間を偶然に発見したならば、

おまえの想念が真っ逆さまにたちまち巨大な渦巻きとなり 
そのとき人間たちの真の動機が、世界の真の成り立ちが 
大風によってなぎ倒される大樹のように、
長い長い時間をかけて崩壊していくのを目撃するだろう 

おまえは街娼らの周知だった事実を、
その光景を、そのときこそ知るだろう 

それが陽光を自ら遮った、
己を闇夜へと解き放った 
あの隠された人間たちの生きている世界であることを 
それこそがこの世界の唯一の真実であったことを
 


転載元:亜猟社
2013-12-18【詩】カタストロフ
http://hsmt1975.hatenablog.com/entry/2013/12/18/215053
 


 トオマス・マンのそう長くはないこの小説の中には、一人の人間が如何に文学を志すようになり、文学を志す人間が如何にそうではない人間と相まみえないか、しかし、どれほど平凡に生きることに憧れそれらを愛しているか、つまり、如何に俗人であるかがすべて書かれている。一部の芸術家が自らを世俗と切り離された高貴な人間であると確信するところの欺瞞を、それがどのような種類の欺瞞であるかを密かに知りながら、つまり自身の中にその胚芽を認めながらも、小説家はそれを恥じなければならないだろう。

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あるひとつの場所に馴染むと、その途端、その場所が窮屈で嫌になってしまう。この傾向はもう中学生くらいの昔から自覚があり、これまでの人生において、私はさまざまな場所、あるいは、関係性から逃げてきた。それは、あるときには学校組織であったし、あるときには会社組織でもあった。また、男女間の恋愛においても、それがあるひとつの成就となった暁には、私は非常に息苦しい何かを感じ、その関係性から自覚的に身を引いてきた。このような意味において、私の人生はある意味、逃走の連続のようなものだったと思う。そして、これからもそのような逃走は続いていくのだろう。

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もう随分前の話になるが、その夜、十年来の友人である中国人女性が経営するパブに招かれて、長居し、ウィスキーのボトルを一本空けた。店は恐らく前身のキャバクラを改装したのであろう、煌びやか過ぎず、暗澹過ぎず、日本によくあるタイプの安価なパブといった程度の店だった。日本人経営のキャバクラと違うのは、コンパニオンが全員中国人女性ということだけだ。皆、セクシーなチャイナドレスを着ているが、どこか垢抜けない。そんな印象を受けた。色んな女の子と会話をしたが、ほとんどの女の子が福建省というあまりぱっとしない地域の出身であった。最後の一時間くらいだろうか、皆からママと呼ばれる私の友人と昔話など冗談を言い合って、明け方に店を後にしたのだった。

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三月も下旬を迎えていた日の夕刻、書類をプリントアウトするため立ち寄ったネットカフェを出ると、季節はずれの雪が舞っていた。思わぬハプニングに驚き、私は咄嗟に空を見上げた。横浜駅西口界隈の賑やかなネオンに映えた白い粉雪は、音を立てず、しかし確かに私の顔に降り注いだ。私はなんだか嬉しくなり、ポケットに両手を入れて、大きく息を吸い込みながら地下鉄の駅へとゆったりと歩いたのだった。

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