試論


I-Ⅳより続く


I-V

 女性の身体性についてを考えている。女性の躯に触れるとき、その接触でセクシャルな感応を引き出してゆく際の………愛撫と呼ばれるその行為。肌理をなぞる、くちびるに触れる、舌を噛む、舐め、さする。その接触での感応の高まりに応じて行為が段階を踏むとき、そのどこまでがペッティングとしての愛撫で、またそのどこからが愛撫を越えたセックスそのものなのだろうか。

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I-Ⅲより続く


IーⅣ

《記憶 mnemosyne》についてたちかえりたい。まず、思考の内部での表象作用である《記憶》というものを眺めてみる時に、記憶を司っている傾向性である《想起 anamnèses》の在りようを初めに考えていきたい。…つまり、なぜ想起とは可能になりうるのだろうか。もっともシンプルな説明であると思えるのは、その時々の必要性に応じた意識下の、前ー言語的な記憶が、無意識と意識の連関によってひきあげられるためである。また、もうひとつすぐに思いうかぶのは、視るひとが視られる対象をまなざすときに、その対象へと関心が集まる現象学で呼称する《志向性》に、《想起》が表裏一体となり連動しているのではないかということである。ひとの認識はたとえば視覚においていうなれば、ゲシュタルトで説明されうるように、意味づけられること≒既知の事象のふちどりが浮き上がり輪郭をもって識別されうることに他ならない。
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IーⅡ
より続く


IーⅢ

 情景の断片に、奥行きの断片を得ることで、遠近法的視座が構成される。そこに時間感覚の断片が参入することで、その場所はリアリティをもったみずからの身体が位置する空間として展開する……。これらバートランド・ラッセルが《センス・データ》と呼んだ断片的な知覚情報とも言いうるものらを集積し、思考のうちでも記憶における想起(anamnèses)を経て再現前するさいには、《イマージュ》と《思考》のあいだに横たわる狭間ほどの非言語的ためらい、空隙を関知するだけの寸断を与えられることはない。このように、瞬時に単なる環境情報としてのセンス・データ集積を日々、とりわけて意識せずにも人間の知覚にもって行われる理由とは、断片的な情報――角度、色、明暗、長短を時間という連続性の導入によって――《空間》として僕らのまえに現前させるための、視覚野にかかわる事象であるからなのだろうか。また、《リズム》と《音楽》に関してならば――鑑賞者と演奏者(成作者)との相対性をすえおいて考えると――メロディとは、客観的な世界を流れる時間によって、聴き手に対し能動的に与えられるものである。ある人間の意識をつなげる主観的な時間でさえも……試しに心内で何かのメロディを思い浮かべるだけでもいい。みずからの内奥でくちずさまれるリトルネロとしての、そのはざまから音楽はいつかの聴覚を経て、植えこまれた楽曲の…精度の程度はあれど、内面化された時間感覚のなかを進んでゆく。音と音、リズムと拍が、時間に繋がれたものとしてメロディになる。
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IーI:声と言述、より続く

IーⅡ

 音響の断片的イマージュである《拍子 rhytomos》の集積を、想起(anamnèses)的傾向性によって記憶がつなぎあわせ、まとめあげて空間化したものを《音楽 musa》であると考えてきた。ここで、知覚によって拾いあつめられたもののコラージュ、それが立体感を得た再現前として表出するということを、ここからは《イマージュ》と《思考》の場合はいかように機能しうるかについてかえりみてゆきたいと思う。みずからの知覚へととりこまれたイマージュ、それは切れぎれの画像的認識、断片的な色彩や質感をもちあわせた外観のことであるように、単なるとりこまれかき集められたイマージュがフラットに再構成しえるものは、物理的な空間把握や建築空間の体感であるといえるだろう。そのとき、《イマージュ》という視覚的知覚に深く関わる表象作用が、《思考 pansée》へとずれこんで巻きかえる様相について、もっと踏みこんで論じる必要があるのかもしれない。

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IーI:声と言述

 どこから語りだそうか。とりとめもなく、記述言語と音声言語のはざまをなぞらえる、描くディスクールというものへの関心がいぜんよりもある。それは神経症を煩わせているとも勘違いされうるばかりの、過敏なほどの美意識をもってしながらも、同時にまがまがしさにうちひしがれる余韻を曳きづり、僕と僕の語りうるものへと大きく距離を空け、懸隔をもたらせざるをえないものである。
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