【旅の終わり】ブータンについて---38から続く
バンコクに一泊して翌日は台北行きのフライトに乗り、台北で乗り換えてロサンゼルスへ向かった。フライトは長く、体力の落ちた身体にはきつかった。火曜日の深夜、予定通り帰宅した。
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本当は、ピックアップを運転するギレが夜のうちにここガサへ到着する予定になっていた。ところが土砂崩れで道路が不通になってしまい、かわいそうに車中泊しなければならなかったようだ。翌朝になっても道路が開通したのかどうかわからなかったが、昨夜食事をしにきていた若者が運転する大きなトラックに乗せてもらい、出発することになった。
昨晩、マイラは馬を連れてパロに戻る、と聞いていたけれど、出発するトラックにはマイラと9頭の馬たちも乗っていた。ジャムソーによると、馬と一緒にパロまでトラックで帰れるようにしたのだという。詳しくは聞かなかったけれど、ジャムソーがネテンに、パロへのトラック輸送の費用を出すように交渉したのではないかと私は思う。オペレーターが個人的な知り合いだとそういうこともできるかもしれない。ガサからパロまで車でも丸一日かかる距離だ。トレッキングルートとは違う歩きやすい道があるのだろうけど、馬を連れて歩いて帰るんじゃ大変だ。ネテンの取り分は減ってしまうのかもしれないが、良かったなと思った。
朝。
雨は上がったけれど、霧が深い。
交易所の建物の外に大きな流しがあり、ホースからいつも水が出ていた。きっと山の水をそのまま引いているのだろう。そこで顔を洗った。深い森の中に送電線の鉄塔が立っているのが見えた。
きょうはトレッキングの最終日だった。朝食をすませて、9時過ぎにコイナを出発する。待っていた荷物が到着しなかったのか、昨日話をした男性がまだ滞在していて、私たちを見送ってくれた。
「Be stroing, be heatlhy」
と彼は言った。それは単なる挨拶などではなく、文字通りの意味だった。病気になってから、それをずっと実感させられている。ここでは、強く健康でなければ生きていけない。
でも、私は強くなければ健康でもなかった。思わず考え込んだ。
こんなことで、生きていけるのだろうか?
民家に戻ると、はしごのような階段で2階へ上った。敷居や扉がやたらに多い建物で、懐中電灯の光を頼りに壁につかまりながら歩くあいだ、あちこちでつまずいた。
通された部屋は、訪問客を泊めたり普段は使わないような家財をしまうのに使っているようで、私はこの部屋で寝ることになった。部屋の隅にはウレタンの入ったマットレスやブランケットが積まれている。そのマットレスを一枚借りて床に敷き、上に寝袋を広げた。チュンクーが湯ざましの入った魔法瓶を持ってきてくれた。チームのみんなはこの部屋の真下にある部屋を使うのだと教えてくれた。
テントの中が明るくなるころ目を覚まし、いつものように短い瞑想をした。そして出発の時に慌てないよう、洗面する前に寝袋や着替えをダッフルバッグにしまおうとしたが、全然はかどらない。だるいということはないけれど気力も集中力も続かない。
何かがおかしかった。
まだ暗いのに、誰かがお経を唱えながらプレイヤーホイールを回しているのが聞こえた。プレイヤーホイールが回るたびに、ベルがチーンと澄んだ音をたてる。しばらくすると鳥の鳴き声が聞こえてきた。そして、テントの中がほんわり明るくなってくる。トレッキングも6日目で、こんなふうに目を覚ますのが当たり前になってしまった。
朝7時、外に出してもらったテーブルで、いつものようにドルジが作ってくれた焼飯と玉子で朝食にした。山に囲まれたチェビサに朝日が射し込むのは遅く、その頃になってようやくキャンプ地も明るくなってきた。よく晴れた空で、好天の一日になりそうだった。
リンジのキャンプ地には、私たちを追い抜いていったトレッカーたちのグループがいると思ったのだが、着いてみると姿が見えなかった。リンジから南へ向かい首都ティンプーを目指す彼らは、別の地区でキャンプをするのだとジャムソーが教えてくれた。他方、私たちはこのままラヤまで東へ向かうことになる。