ART&レビュー

無表情な曇空がどこまでもつづく日曜の午後。15時40分、二階建ての小さな建物を改装したそのギャラリーに辿り着くと、長方形をした小部屋の壁面に「ráɪt」の文字をかたどったネオン管とシンプルな白の掛け時計が設置されていた。
ネオン管はコードでつながれているが灯りが点っておらず、秒針をはずされた掛け時計は少し先の時刻である15時50分を指したまま時が止まっている。照明器具としての機能を停止させた空虚なネオン管と、長針も短針も微動だにせず無用のオブジェと化した時計。1階に設えてあるのはそれぞれ《ráɪt》《15:50》と題されたこれら二つの作品のみで、空間の白さと要素の少なさが静態的な場を演出している。
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東間嶺『行為と場所の記憶/記憶---〈引込線/放射線〉』展示風景(撮影:東間嶺)
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東間嶺×吉川陽一郎(&開)オープン・スタジオ・イベント『TORIGOYA』フライヤー表面
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いかにも柔らかく滑らかそうなフカフカのクッション。画面いっぱいに近接した距離で描かれたそれは、視覚の欲望を触覚のそれへと変えてしまう。植物モチーフやストライプの模様が覆う寝具、澄んだ光沢を湛える陶器、部分を拡大して描かれた果実。伊庭靖子はそうした日常の事物を撮影し、写真をもとに写実的な絵画を描くフォトリアリズムの画家だ。入念な手順を経て完成した作品は、事物と眼のあいだを満たす空間と光を精確に写し取り、見ることの官能的な歓びを観賞者にもたらす。

しかし、フォトリアリズムの作家という一面的な理解でのみ伊庭の作品を眺めるのであれば、この画家の視覚的探求の幅広さは見落とされてしまうだろう。注目すべきは技巧の高さ以上に、その視覚的探求の「際限のなさ」である。フォトリアリズムのアプローチは、あくまでこうした探求のための一手段に過ぎない。今年の秋、東京都美術館で開催された個展「伊庭靖子展 まなざしのあわい」は、ステロタイプな作品理解を良い意味で裏切ってくれる好展示だった。

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sept. 07. 2019  "記憶の幽霊 / Ghost of Memory"  Tokorozawa, Saitama

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吉川陽一郎+東間嶺+藤村克裕『路地ト人/路地ニ人々』フライヤー表面

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新宿のphotographers’ galleryで大友真志の写真展「Mourai」を見た。2013年から北海道を拠点に活動する写真家の、東京では8年ぶりとなる待望の個展である。

「Mourai」というタイトルは 大友の祖父の生地である石狩市の集落「望来(もうらい)」に由来し、大友は以前から同名シリーズの写真展を継続して行ってきた。被写体となるのは多くの場合、北海道各地の風景や家族である。今回展示されたのはこの「Mourai」シリーズの近作だが、撮影地は望来に限らず、札幌市の精進川、北広島市の音江別川、北海道南部の鵡川と広範に渡っているようだった。
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箕輪亜希子『Picking stones』
撮影:東間 嶺 @Hainu_Vele(以下すべて同じ)


能動的active/受動的passiveな「私」

作家がある対象を作品の素材として選ぶとき、そこではどのようなメカニズムが働いているのだろうか。素材にまつわる情報を熟知して制作主体の「私」の管理下に置きたいという欲望か。それとも作家は何かの声に導かれて素材に「出会わされている」に過ぎないのだろうか。

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小崎哲太郎作品2018_2
(fig.1)《東原云》42×29.7cm

声高な自己主張をせず、流行に目配せするわけでもないが、記憶のなかで長く輝きを放つ作品というのは確かに存在する。そのような作品に出会うと、寡黙さの背後にある輝きの秘密を探りたくなる。作品に潜在する、いまだ顕在していない造形の可能性を、過去から未来に到るまで汲み尽くしたくなる。
発表の機会を逃したくない。できるならば作品の展開を一連の系のなかで捉え、どんな些細な変化も余さず観測しておきたい。たとえそれが、作品間の連なりに亀裂をもたらす異質なものであったとしても。

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(fig.1)福田尚代個展「山のあなたの雲と幽霊」DM


羽をひろげる鳥のように、扇状のかまえで台座の上に屹立する古い本。すべての頁は半分に折り込まれ、中身を読むことはできない。ただ、折り込まれた頁の隙間から一行だけが浮き上がっている。

「ごらんなさい。きっとまたお前の心には太陽がさしてくることと思います。」
「「そうさな。あんたは書きつづける方がいいと思うね」と彼ははげました」。

前後の文脈から切り離された一行は、ときに啓示のような厳かさをもって見る者に響くだろう。美術家・福田尚代による書物を素材とした作品《翼あるもの》は、この作家のシャーマニステッィクな資質を証言する代表作のひとつである。浮き上がる一行は作家が任意に選んでいるわけではなく、頁を折り込むとう反復行為の末に偶然見いだされるものらしい。にもかかわらず、私たちは偶然の一行があたかも必然の相貌をもってあらわれることに驚愕をおぼえる。
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