ボクシングジムについて③

 

前回ジム間の興業格差の問題について取り上げたが、その問題はそのまま後半部の「業界全体が競技人気の底上げを怠った」という批判、「ボクサーやトレーナーといった人材が生活環境を整えられるような制度設計をするべき」という提案に繋がっている。興業格差の問題と上記の批判・提案を繋ぐのは、ジム間の興業格差に起因する「選手を育てるには、儲からずとも興業を打たなければならない」という業界のパラドックスである。そこには、「ボクシング人気の底上げ」という問題が関わっている筈だし、ボクサーやトレーナーの収入にも繋がる筈だ。それらについて本論では、ジム側の自己責任として片付けるにはあまりにも酷な話しであり、業界の制度の問題として捉えられるべきと考える。今回は、問題の底にある思想にまで掘り下げて考えたい。
 

まず、日本ボクシング界の「儲からない」という現状を踏まえ、ボクシングジム会長となる人材の資質について述べておきたい。ジム会長の多くは元ボクサーである。彼等の殆どは経営を学んだ者でも興業について学んだ者でもなく、海外ならばボクシングトレーナーとして雇われる人材である。彼等のような人材をボクシングジムの会長にして、経営、興業、指導者(多くのジム会長は指導者でもある)の三足のわらじを履かせているのが現状だ。更に日本プロボクシング協会は、東京とその近郊でジムを開く際、加盟料(つまり、プロのジムを開く承認料)として1000万円もの大金を納めさせている。これは日本チャンピオン経験者ならば500万円、東洋チャンプならば400万円、世界チャンプ300万円と減額されているが、このような取り決めこそ、経営、興業に長けた新規参入の障壁となるものであり、元ボクサーを慣れない事業に就かせる原因であろう(そしてこれは一般法基準で言えば独占禁止法に抵触するのではないか)。また、ジムオーナーのライセンスを取得するにはJBC発行のボクサー、トレーナー、マネージャーなどのライセンスを合計で10年以上保持していなければならず、これも新規参入の障壁をより一層高くしている。本来ならば、興業はその道のプロが行うべきだし、マネージャーには契約に明るい者がなるべきだろう。

 

なぜ現在ボクシング界が儲からないのか。一時人気を博した「K-1」や「PRIDE」といった格闘技コンテンツの多様化によるファンの流出がその理由であるかのように言われた。しかしそれは本当だろうか?K-1PRIDEが廃れた現在、ボクシング人気は復興したのだろうか?関係無くはないだろうが、恐らくそれは一つのパイの配分を競い合う様な単純な相対関係には無い。ボクシングの没落は、ボクシング界固有の問題として捉えられるべき点が多々あるだろう。

ボクシング人気の没落の原因は、K-1PRIDEがその宣伝手法や観客を楽しませるコンテンツとして充実していたのに対し、ボクシングにはそれが欠けていた事が理由の一つではないか。K-1PRIDEは、それぞれプロの興行師達が運営してきた。しかし彼等は、盛時に人々の耳目を集める事に躍起になり、その一方で競技や運営の信用を失っていった。そしてボクシング界でも、某一家がテレビによるその宣伝手法で注目を集めた一方で、数々の騒動により信用を失っていった事は興味深い(某一家だけでなく、ボクシング界全体が信用を失ったのかもしれない)。プロスポーツであるから、利益を生み出す事は何よりも重要と言っていいだろう。しかし、それはスポーツとしての厳密なルールの行使や、コンプライアンス、モラルといったものを土台にした信用性の上に成立するものの筈だ。この点でも、宣伝手法やコンテンツの充実と、競技としての信用性(それはコミッションやメディアが中心となって維持されるものだろう)、この両輪が歯車として上手く機能しているアメリカボクシング界に学ぶ点は多いのではないか。

 

シーンをリードしてきたアメリカでも、ボクシング人気は長らく低迷している。しかしそれでも、米「フォーブス」誌のスポーツ選手の長者番付ランキングには毎年ボクサーがランクインするし、2012年(2011/5~2012/5まで)のランキングにはマニー・パッキャオがトップに、そしてフロイド・メイウェザーが10位にランキングされている。彼等の成功は、元を質せばモハメド・アリがボクシングビジネスを拡大したお陰と言えるのだろう。現在のアメリカボクシング界は、会場収入だけではなく、日本のようにテレビ地上波の放映権料に頼り切るわけでもなく、PPV(有料放送)や全世界への放映権の販売などといった複数のビジネスを獲得している。

アメリカで(前々回で紹介した)「モハメド・アリボクシング改革法」が法制化されたのは、プロモーターとマネージャーの兼業によりボクサーの収入が著しく搾取された例が複数あり、裁判が頻発した事が切欠となっている。しかしこのような発想は、本来プロモーターやマネージャー、トレーナーなどの職能が高度に独立したアメリカボクシング界の中で必然的に起こったものである。ジム経営を行いながら興業の主催者でもあり、選手のマネージメント、トレーナーといった各種の職能も未分離で混沌としており、それぞれの目的や専門性が半ば失われがちな日本のジム制度とは端から違う。アメリカのように各機能が独立した制度は、それぞれがそれぞれの目的を最大化しようと務める事で業界が拡大し、更にそれが言わば「神の見えざる手」によって均衡をなし得るという思想の上に組み上げられたものである。

プロモーターがファンの期待する試合を用意してその宣伝を行い、マネージャーはプロモーターからボクサーの取り分を確保し、ボクサーは懸命にトレーニングを行って強くなる事で自らの商品価値を上げ、トレーナーはその手助けをする。彼等が自らの利益を最大化し、それが均衡する状態こそがボクシング界に最大の利益をもたらすであろう。無論、「神の見えざる手」がそのままで完全に機能したならばモハメド・アリボクシング改革法は必要無かった筈だ。しかし、そういった不備を根本から変えていこうという発想には多いに学ばなければならないと思う。それに対し、ジム制度の取り決めの多くは、ボクシング業界という閉鎖的コミュニティーを守る為のものと言えるだろう。

 

前回、「業界全体が競技人気の底上げを怠った」、「ボクサーやトレーナーといった人材が生活環境を整えられるような制度設計をするべき」という批判・提案を行った。今回はそれを制度的な問題と捉えて明確にし、その底にある思想にまで掘り下げる事に努めた。そして、対照的に見える日本、アメリカの両制度を比較し、アメリカの制度を優越的な立場であるかのように書いた。しかし、だからといって「アメリカのボクシング界は完全なものである」とか、「全面的に優れている」などと主張したいわけではない。連載の初回で述べたように、日本では、アメリカなどのように元チャンピオンの不遇を聞く事は多く無い。勿論、チャンピオン達の母数とその情報の質と量の問題があるからそれについてはっきりとは言えないが、恐らくジム制度には、加盟料などで障壁を設ける事によって元ボクサー、特に元チャンピオンの生活を守る機能があるのではないだろうか(逆に言えば、搾取や参入障壁によってそれらが成立しているとも言えるだろう)。それに、いざ改革という時に、ボクシングにおける歴史が違う日本でアメリカと同じ事をしても上手く行くわけがない。日本には、日本の現状にあった制度改革があるべきだろう。
 

多様な視点でボクシングジムを覗き、様々な課題を設けた為、議論が錯綜して分かり難かったかも知れない。しかし、本連載における「ボクシングジムについて①~③」は、全てジム制度における各種機能の未分離とその弊害について議論してきたつもりだ。繰り返しになるが、とりあえずこの連載の目的はボクシング界の問題点を明確にする事である。制度設計における具体的な提案については、次回にボクサーの移籍問題について論じた後に、それまでの議論を総括しながら拙論を披露したいと思う。またボクシング界における「未分離」を問う時には、もう少し俯瞰的に大きな視点から捉える事も出来る。それについても、総括の中で纏めたいと思う。
 

以上、宜敷お願いします。