つい今しがた目が覚めたが、昨日からほぼ、ぶっ通しで20時間以上は眠り続けていた。むろん20時間以上も眠り続ける身体上の必要があったわけではない。あえていえば、眠り続けたいという心理的な理由によるのだろうか。だから人間が必要とする睡眠時間を除けば、残りは単に惰性で眠り続けた惰眠ということになるかもしれない。
私は子供の頃から趣味は睡眠と思うくらい眠ることが好きだった。理由は、この現実は偽りであり、いずれ、そのことは明らかとなるだろうという漠然とした思いだった。この思いは、後に読むことになった埴谷雄高の『死霊』の言葉を借りていえば、私なりの「自動律の不快」によるものだった。つまり、子供の私は、私が私であることが不思議であり、理由が分からず、それは何なのかといつも思っていた。そのため、しばしば、意識が脳裏の中で遠くに退き、言葉を紡ぐ感覚が崩壊したようになり、自分がいる今の現実がガラガラと崩れ、ほんの一瞬だが記憶喪失のような状態になることがあった。そしていずれ私は、あるいは私という意識は、この私ではなく、現時点では誰かとしか言い得ない誰かと一体になるだろうと朧気に考えていた。
睡眠は、そうした真の現実に至るまで、この偽りの現実を過ごすための時間稼ぎのようなものと考えられていた。つまり、現実の私は、それ自体が現世の仮の姿だったというわけだ。
むろん何時間眠り続けようと、何日が経過しようと、眠りから目が覚めた私は、いつもの私であり、鏡に写るのは見慣れた私の表情なるものでしかなかった。中学生になると眠りそのものへの嗜好は薄れ、代わりに、私が私である現実とは、そもそも何であり、どういうものかと考えるようになった。おそらく私が、小説に、それも少年向きのものではなく、大人が読む一般の小説を、小学生の高学年の頃よりも熱心に読み始めたのもそのためだろう。また、仏教の「空」とか「無」という言葉に惹かれ、たまたま中学の図書室にあった龍樹や世親の伝記を読み耽り、帰宅するのも忘れかけたことがあった。
現実など、どうでもいいことだった。というよりも現実など、それ自体が仮のものであり、見せかけにすぎないのだから、学業などはほとんどそっちのけであり、成績などは端から問題外だった。むろん他方ではそれでも現実の中学生という私が厳然としており、彼はその限りでは屈託なく生きており、早熟だったせいもあるのか、学校のクラスや他のクラス、また親から言われて通っていた塾でも仲の良い女の子がいた。
再び、睡眠への趣向が目覚めるのは、20代半ばくらいの頃だった。10代後半に政治活動に目覚め、アナルコ・ブランキストとでもいうような組織的運動志向のバクーニン主義的なアナキストとして活動していたが、それはある意味では夢の暴力的な蜂起であり、現実破壊の実行だったのかもしれない。そのような現場の活動から身を引き、その総括に取り掛かっていた頃だった。その前の年には『情況』誌に約500枚ほどのバクーニン論を3回に渡って分載し、次いで思想的にはバクーニンが影響を受けたドイツ・ロマン派や神秘主義、ドイツ観念論、ヘーゲル左派や初期社会主義、スラヴ主義から唯物論、さらに晩年に愛読したショーペンハウアーまでを、バクーニン抜きで直接に取り組みはじめていた。また並行して、ワーグナーの造形したジークフリートやドストエフスキーの『悪霊』のスタヴローギンにはバクーニン・モデル説があることから、ワーグナーの音楽やドストエフスキーの文学にもかなり熱心であり、その頃に書いたシェーンベルク論は、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』に続いてシェーンベルクの『浄夜』を聴いた産物だった。
政治活動の総括は、単なる思想的なものだけでは済まなかった。例えばゲバルトと呼ばれた現実の暴力行為の行使については、思想的な動機や理由の説明や意味づけだけでは解決しないものがあった。エルンスト・ユンガーの『鋼鉄の嵐の中で』を、初級ドイツ語程度の文法で無謀にも読み始めたのも、そうしたことからだった。若きドイツの軍神的な英雄にまでなった特攻隊長としてのユンガーは、なぜ、言語表現が可能になったのか、暴力から言葉の可能性は、あり得るのかということだった。その帰結として、1978年頃にユンガー論を、正確にはユンガーの『鋼鉄の嵐』論を書いたが、当時は東大の独文の教授でもユンガーの名前だけでも知る人がいれば貴重だった頃であり、私のユンガー論などはほとんど見向きもされなかった。ユンガーを読むようになったのは、バクーニン晩年のショーペンハウアーに続いてニーチェを読み、ハイデガーの弟子でもあったカール・レーヴィットの「ニーチェの最も過激な弟子であるユンガー」という言葉に接したからだった。
話を再び眠りに戻せば、この1970年代の半ばから後半にかけて、私は再び、睡眠への趣向に浸るようになっていた。1970年代の前半は、私には政治闘争のゲバルト体験の、いわば戦後的内戦の時期であり、内戦以降としての"戦後"は、1975年以降だった。その頃、一人で暮らしたいと思った私は、それまで東武練馬で幸運にも当った当時では貴重な団地生活をしていた妻と、私の身勝手な理由で離婚し、中央線の国立駅の北口のアパートに移っていた。当時の私はバークリー流の主観的観念者よろしく現実喪失のような状態にあった。そのため、暇があれば(実際は常に暇だったのだが)、やることも無く、ベッドに横になり眠り続けていた。アンドレ・ブルトンは私の好みではなく、ブルトンよりもバタイユの方を相対的に好んでいたが、それでも『ナジャ』や『通底器』その他のブルトンの作品も読み、眠りや夢についての私自身の嗜好について再び目覚めさせられたのだった。何時間も眠り続けると、数多くの夢を見ることになる。夢は目覚めると意識的に思い返してみても大抵はそのうちに忘れてしまうことが多い。だから、さしてやる事もなかった私は、目が覚めると、夢の内容を何度も反芻し、脳裏に記憶の印画紙を作るようにしていた。
そうすると、再び、現実よりも夢の方がより身近で親しく思えてくる。現実は虚ろであり、夢の方が濃密になる。意識の関心の強度は、ますます現実から夢へと移っていく。だから国立(正確には国立駅北口の国分寺市だが)の頃の私は、半分は寝ており、夢のなかにあったことになるかもしれない。私を目覚めさせてくれたのは三島由紀夫の感情教育の師と評される蓮田善明の『有心』だった。それは中国戦線で負傷した蓮田少尉が休暇で郷里の熊本に帰郷し、迎えに出た妻の表情に戦場の記憶を持った意識が追いつかず、阿蘇の温泉に治療と称して出かける話だった。しかし蓮田善明による覚醒は、現実への導きではなく、その鴨長明論によって述べられているような隠遁への、いわば目覚めながら眠ってでもいるかのような状態への導きだった。おかげでその後の私は、20年以上にも及ぶ長い隠遁生活の日々を送ることになる。20代の頃からの知り合いの右翼の新民族派だった友人は、「隠遁」というから変な格好がつくが、要するに「引きこもり」だろうと私を揶揄したが、当たらずとも遠からずかもしれない。
いつものように取り留めのない話だが、眠り続け、夢を見た後に眼が覚めると、プルーストの「失われた時を求めて」ではないが、ある種の喪失感とそれに伴う悲哀の感情に包まれていることに気づく。三島風にいえば、決断的にベッドから身を起こし風呂にでも入れば、そんな世界は一掃出来るのかもしれないが、では当の三島は一掃出来たのだろうか。逆にいえば三島由紀夫は眠ることを知らなかったのではなかろうか。
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夢と現実しくは喪失と悲哀
- 2012年06月10日 12:59
- エッセイ