何故このコントはおかしいのか。一つの説明として、語り下手という人物定型を設楽統という芸人が見事に表現しているからだといえるだろう。語り下手、つまりは、物語を時系列順に並べることができないということ、結末(オチ)を先取りしてその未来との連関で初めて意味をもつ布石(フリ)を置くことを忘れてしまうということ、話の筋が細かい枝葉に拡散し収拾がつかなくなること、話のテンポが単調で場面場面での転調の技術をもっていないということ。

 確かに、私たちの日常生活においてこのような性格を備えた人物に出会い、そしてそのコミュニケーションに齟齬を感じることはしばしばある。その戯画化として、一応「怖い話」を分析することはできる筈だ。

 
 実際、アンリ・ベルクソンは『笑い』の中で、スムーズでない、ぎこちない運動や行為、即ち「機械的なこわばり」のなかに「おかしみ」の源泉を認めている。例えば、人が石に躓き、第三者がそれを笑う。この場合、しなやかな行為によって石を避けるべきであったのに、それが筋肉の惰性(こわばり)でできず、愚かにも躓いてしまう。それがおかしいのだ。ここには、ベルクソン思想にとって基礎的な対立項、即ち「生命」と「機械」の対立がみてとれる。「生命」をもつ行為する身体は、ベルクソンにとって、不断に変化する現在と絶えず対応し、自身もそれに応答するように変化していく。しかし、「生命」なき「機械」は、一度設定されてしまえば、時間の経過に伴い、現在との細かな対応関係を維持することはできなくなり、現在との不一致が生じてしまう。それが「こわばり」として表現されるのだ。

 「生命」の弾力性や柔軟性と「機械」の非弾力性や無柔軟性。ベルクソンが前者に価値の重きを置いていることは既に明らかだろう。ベルクソンのいう「笑い」とは、しなやかな「生命」がガチガチの「機械」の不自由を嗤うことにほぼ等しい。そして、この理論に従えば、設楽統の語り下手はおかしみを誘う「機械」のこわばりそのものといえる。物語を構成する断片はツギハギ状に荒く縫い合わされ、たまに出る饒舌も本筋から大きく離れて、全体の編成をかき乱す役割しか果たしていない。「怖い話」がおかしいのは、ベルクソンのいうように、話が「機械」的であるからなのかもしれない。

 しかし、このコントの卓越した点はそこには認められない。というのも、このコントは前半のキャンプ場の話と後半とオバキューの話が対になっており、そのコントラストが確かにコント全体の完成度を高めているように見えるからだ。正に「コント」「ラスト」があるかどうかが重要なのだ。

 後半の話で日村勇紀のアドバイスを貰った設楽は、突如人が変わったように、雄弁に語りだす。その語り口は非の打ち所がない。しかし、ここでも又「おかしみ」が発生してしまう。今度は話下手の問題ではなく、話そのもの(つまり、オチがオバキューという可愛らしいキャラクターの登場であったということ)が奇天烈であり、怖い話の物語定型から大きく外れてしまっているのだ。話そのものが「怖い話」ではなく「笑い話」であるのだ。

 ここで、私たちは、ベルクソンに従いながら、二つの機械を区別しつつ見出すことができる。第一に、〈機械的物語り〉は物語を身体的に表現=再活性化する際に「こわばり」が混じってしまうことで「おかしみ」を生み出すことになる。しかし、「おかしみ」の原因は別の点にも求められる。つまり、第二に、〈機械的物語〉によって表現=再活性化の対象そのものに「こわばり」が混じっていた場合、どんなに〈機械的物語り〉の機械性を克服したとしてもおかしみは発生してしまう。前者は物語の動詞的側面、後者は名詞的側面を示している。そして、後者は語り下手という人物定型だけで理解することはできない。

 確かに、物語のこわばりと呼ぶべきものを考えることができる。そうなるべきであったのにそうならなかったいくつもの話を私たちは日々体験している筈だ。それは定型を逸脱するものとして存在する。ここまで何度か何の註もなく「定型」という言葉を使用してきたが、定型とは歴史の蓄積から導き出される一定のパターンや傾向性の意味である。物語定型とは、だから物語内容や物語構造がヴァリアントを含みながら何度も繰り返されるその傾向性を指す言葉として使用できる。例えば神話的原型(振り返る物語や行って帰る話)や「お約束」「王道」(美少女ゲームで「フラグ」と呼ばれているもの)等だ。物語のこわばりとは、それ故、定型の中心(典型)から一歩二歩外れてしまったヴァリアントの数々なのだと考えることができる。

 〈機械的物語り〉と〈機械的物語〉、恐らくは物語のパフォーマティヴなレヴェルとコンスタティヴなレヴェルと言い換えてもいいだろう、この二つの水準は、「怖い話」では同調することができないでいた。良い物語は語り下手語り口で台無しになり、良き語り口が確立されれば物語は杜撰なものとなっている。そして、非同調というそのこと自体が高次の「こわばり」と化して倍加した「おかしみ」を発生させている(さっきはちゃんとできてたのに今度は!)。

 機械が別の機械に連動し、こわばりが別のこわばりに転移し、おかしみが別のおかしみを喚起する。「怖い話」のこの一連の機械作動を通じて、私たちはおかしさについての本質的な考察に導かれる。即ち、①物語の中心からズレているということ。だがズレとは中心との相対的な距離によって決定するものであって、それ自体で存在している訳ではなく、ある意味で中心に依存している。だから、中心に寄生せねばならない。「怖い話」が正常な物語(り)とのギャップを設定している所以だ。加えて、②中心からのズレは、典型的物語の周辺に生まれる複数性(ヴァリアント)でもある。複数性は二次創作のように中心に依拠しながら相互に差異化する形で増殖する。

 おかしさとはズレを宿命づけられた複数性によって発生する。おかしさとは父の承認を得ないで増えていく私生児enfant naturelのようなものだ。それがどのようなものであれ、おかしくなることとは、須く反抗の行為だ。父親、法律、教師、共同体、たった一つの掟を教え諭そうとするあらゆる者たちへの唾棄。だから、おかしさには野性が込められている。別の処で、もっと沢山!

 ベルクソンを大きく裏切りながら、バナナマンが言いたいことは多分そういうことなのではないかと思った次第である。