今回は【言葉の常備薬】呉智英/双葉文庫 からのお話。


ぼくは子供のころから、父親に「”食う”のは動物、”食べる”のは人間」だと教えられてきた。


それでぼく自身は周りがいくら「食う」と言っていても、意識して「食べる」と言うようにしてきたつもりである。でも、実際のところ、食うって表現をする人はあまりにも多い。最近の傾向なのかどうかわからないが、女の子でさえも「食ってみて」なんて言っていたりする。


食うという表現に接するたび、ぼくは、別にどうってことない反面、どこか気持ちのよくないしこりを感じ続けてきた。

そういうところに、この本の『「食う」と「食べる」』という章が、ひとつの答えを出してくれたようである。



まずは概要から始まっている。「食べる」は「食う」の丁寧語である。語源は「給ぶ(たぶ)」で、現代語なら「給わる」。食物を給わって食する、という意味である。「食う」という生理的・本能的な行動を表す言葉を避けて「給ぶ(たぶ)」とした。室町時代の宮中に使える女房(女官)たちが使い始めた言葉で、「女房詞(ことば)」と呼ばれる。



そして、そもそも丁寧語は、ひと・もの・ことに敬意を表す言葉であるからして、鳥や獣には使わない、と続く。たとえば、「野犬がうさぎを食べた」ではなく「野犬がうさぎを食い殺した」であり、「鳥がイネを食べ散らかす」ではなく「鳥がイネを食い散らかす」のである。「魚が共食いをした」とは言っても「魚が共食べをした」とは言わない。



と、こういうようなことが書いてあった。食うは動物、食べるは人間とは書いていないが、「動物には食べるは使わない」という消去法でとらえれば、確かに人間だけが食べるのであり、動物は食うばかりのようである。



というわけで、やはり父は正しかった、という結論に達する。これはもう本の内容ではなく私見だが、よく考えてみれば日常的に使うあらゆる表現が、実は「食う」と「食べる」をきちんと明確に使い分けられていることに気付く。



「食う」の使われ方を列挙すれば、「食ってかかる、割を食う、飲まず食わず、食うや食わず、食わず嫌い、食い殺す、共食い、食いしん坊」など、確かに「生理的・本能的な行動」が現れている表現が多い。他にも「女を食う」や「あいつに一杯食わせてやれ」「誰のおかげでメシが食えると思ってるんだ」など、やはり総じて汚い言葉にこそ”食う”がしっくりくる。



「食べる」の使われ方は、慣用句というよりは「食べるという表現をしないと不自然」というものが多い、気がする。()内に”食う”の場合を記述するので比較してほしい。「一緒に食べる(一緒に食う)、ごはんを食べる(ごはんを食う)、子供にごはんを食べさせる(子供にごはんを食わせる)、食べる前に飲む(食う前に飲む、って思わず頭の中でモノマネしちゃったけどこれは余計か)」って、あんまり論拠とできるような良い表現が出てこない。



がしかし、しかしですね、それを無理やりにこじつけで解釈すれば、人間にはまだまだ「本能的な動物」の側面が大きく、というか表に出やすく、理性は往々にして心もとなく保つのは難しい、ということなのかもしれないではないか、なっ? そう思うよなっ? なっ? なっ?



ここからはさらにぼくの独断と偏見によるが、実際のところ、女の子が「これ食っていーい?」なんて言っていると幻滅してしまう。いやいやそこは「食べる」でしょうと。また、男はよく「メシを食おう」と言うけれど、これもあまり好きではない。「メシ」と言うから「食う」がしっくりきてしまうのであって、ちゃんと「ご飯」と言えば「食べる」が自然についてくるのである。ほら、「ごはん食う?」なんて言わないでしょう。



しかしまあ、「メシを食う」という表現には表現なりの趣もあるにはある。野趣といおうか、たとえば初めてのデートで緊張しっぱなし男が「メ、メシ、なに食いたい?」なんて言うのは、強がりというか、男(少しばかり野性的な)であろうとするいじらしい感じがしなくもない。がしかし、やはり人間ならば、人間であろうとするならば「食べる」と言おう。言ってほしい。少なくともぼくは死ぬまで「食べる」ことにする。