「で、アラサー入門が終わるとして」Sさんは言う。「その次は何かを考えてるんですか?」
「いいえ、特には何も」
「じゃあ、夢について書いてみたらどうですか?」
「夢ですか?」
「ええ。夢自体を描くでも、そのイメージを描くのでもいい。別に創作してもいいと思うけど」
「夢かぁ・・・それも悪くないですね。ただ夢は、あまりにも現代文学的で躊躇する部分があるんです。なんというか、あまりにも映像にしろ絵画にしろ文学にしろ二十世紀の芸術表現で多用されているからでしょうか」
「たしかにフロイト以降は精神分析批評を用いて芸術作品が解釈される可能性はあります。だから、当然、夢も精神分析に回収される傾向はある。精神分析というかフロイト的なテーマに沿ったフロイト的批評がなされるというか」
「はぁ」
「あの父親殺しのギリシャ悲劇だって今ではエディプス・コンプレックスと不可分には読みづらいですしね。まあ、でもそれは夢が出る出ないの問題以前に結局、作品というものは世間に出てしまったら精神分析批評などの俎上にあがってしまうものなんで関係ないですよ。そもそも、それは少し考えすぎだと思うな。我々に対して特別に批評家の目が向けられているわけではないのだし」
「・・・いや、まぁ、特に精神分析批評を恐れているとかいう問題ではないんですよ。僕だって現時点でそんなことを意識しているわけじゃないんです」
「あぁ、ちょっと気が急いてしまったみたいですね」
「どうしても夢を言語化したり人知が認識できるレベルに引き落としてしまうというのは夢のダイナミズムを損なう。それは結局、作品自体が陳腐になる気がするんですよね。必ずしもそうなるとは限らないけれど、手つきによってはそうなる可能性がある。例えばデヴィッド・リンチの映画なら映像の強さや官能性があるからいいけれど文章だとなかなか難しいような気がして」
「なるほどねぇ。でも、それは・・・小説の場合ですよね、フィクションの場合という気がします。夢日記みたいなものは現実とリンクしてくるとは限らないわけですよ。100%夢だと宣言しているのだからその心配はありませんよ」
「そうなのかな」
「夏目漱石の『夢十夜』や島尾敏雄の夢日記だと、書いた人が夏目漱石や島尾敏雄だからいろいろと作者の背景と作品に描かれた夢の描写が批評的に結びついてくる、それこそテキストよりも作者や制作過程にアプローチしていくようないかにもなフロイト的批評が行われる可能性もあるわけです。でも、中村さんは漱石でも島尾敏雄でもないから大丈夫ですよ。私が夢日記を書いたってそうです。だからもっと気楽に考えていいんじゃないですかね。そういうことを考えているとなかなか文章なんか書けなくなってしまうような気がしますよ」
たしかにSさんの言う通りのような気がしてきた。「確かにそうですね。ちょっと僕の考え過ぎかもしれない。書きたいことを書く方が大切ですね」
「私も次にEn-Sophに何かを書くなら夢日記がいいかなと考えているんですよ」
「そうなんですか」
「ええ、なんとなく。自由に物を書けるからいいかなぁと思って」
「でも、それだと僕が夢日記を書きはじめたらかぶってしまいますね」
「いいですよ、別に。なんか言われたらあんたバカぁ!?でいいんです」
やはりSさんはエヴァが好きなようだ。
(続く)