ここ最近、日がな寝てばかりいるので、毎日があっという間に過ぎてゆく。朝、妻に起こされ、母からもモーニングコールがケータイにかかってくる。時計を見ると7時を回ったばかりだ。まだ眠れる、どうせきょうも予定は何もない。ああでもとりあえず、朝ごはんは食べよう。モグモグ。
朝ごはんを食べると特にやることもない。腹がくちくなれば、自然と人間は床に寝転がるようにできている。したがって、わたしも自然の理にしたがって、横になる。たとえ、涼しかろうが、暑かろうが関係ない。食後の眠りは悪魔的な甘美さをもって、わたしを襲う。


Zzz...


気がつくと、時計は午後1時を回っている。お昼だ。お昼だから何か食べよう。そして、さらに、午睡。わたしの腹回りがゆっくりと、しかし確かな重みをもってふくらんでゆくひとときである。


Zzz...


午後3時ころ、ふと目が覚める。ああきょうもこうして午後3時にいたってしまった・・・。無闇に時間を浪費したことから、罪悪感に苛まれる。ああ、わたしも所詮はこの社会、この社会から抜け出せないみじめな人間なのだ。動物であったら、やることがなく、外敵に襲われる心配もなかったら、いくら寝ていてもとくに痛痒を感じないだろう。しかしわたしは違う。残念ながら(?)、言葉でもっていろいろと考えをこねくり回せるのである。だから、自分が社会から疎外されていると同時に、そんな疎外されている自分自身をさらに疎外するというようなしちめんどうくさい自己認識を一そろい抱えることを余儀なくされるわけだ。職場にはもう何ヶ月も足を踏み入れていないが、わたしはことばと時間とに縛られているのだ。などなどつらつら思いつつ、重いからだを立ち上げて、懸命に掃除機の電源プラグを引っ張り出す。せめて、せめて、掃除くらいしなければ、と。


掃除を終えた後、ベッドの上で放心したまま妻の帰りを待つ。妻が帰ってくるのは早くて7時過ぎ、遅いと9時を回ることもある。だから、わたしはひとりで夕食も済ませる。いずれにせよ、あらゆる生産性とは無縁の一日がこうやってゆっくりと過ぎてゆく。ただ例外的に生産されるのは、わたしの皮下脂肪、内臓脂肪の彼らあるのみである。ビールを飲みながら、トーストを咥える妻を横目にしながら、わたしは洗濯物を無心にたたむ。わたしは自宅での飲酒は禁じられているので、妻の飲むビールがすこしうらやましい。洗濯物をたたみながら、風呂に湯を張り、時計を眺めると22:22だったりする。ほんの少し前に見たときは、16:16だったような気がするのだけれど。風呂から出て、妻をマッサージし、零時前には一服して、ケータイを眺めながら眠る。眠る。そしてまた朝がやってくる。こんな具合の生活がもう2週間ほど続いている。