昨日より新しく始まった調理師専門学校での授業「食文化論」がめっぽうおもしろかった。ほんとう、つくづく「学費払った価値あったわ~」という内容で、ぼくの知識欲が大満足であった。


人類にしろ服飾にしろ建築にしろ、文化と名がつくものは総じて幅広いものなのだが、食文化も例にもれず、宗教のこと、古事記、日本書紀、犬の丸焼きの写真や豚の丸焼きの写真、世界各国での食べものの価値観の違い、それに人間の身体を基準とした長さの単位の尺や咫など、とにかくいろいろ教えていただいた。


というか、「咫」って読めますか。「あた」と読みます。これは長さの単位で手の親指と人差し指を広げた時の長さが「一咫」である。で、それはおおよそ身長の1/10だそうである。というか、この「咫」という字が出てきたとき、八咫烏の「咫」ではないかと思ったのだが、いま変換してみるとやっぱりそうだった。「八咫烏」は「やたがらす」である。


『八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話で、神武東征の際に、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏である。一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。』(ウィキペディアより引用)


村八分ですが、ご存じの通り仲間外れにされることですね。つまり集団排訴である。


いままで疑問にも思ってなかったんだけど、よくよく考えたら八分ということは必然的に残りの二分があるに決まってるわけで。で、残りの二分とは「火事」と「葬式」だそうである。


ああ、なるほどねと。いくら普段は知らんぷりで排訴していても、火事と葬式のときだけは助けてやるよと。こういうわけである。

なるほどねなるほどねと思って、はたと気が付く。現代は一億総村八分ではないのか。いや、特に東京、関東あたりと限定したほうがいいだろうか。

よく言われすぎるほどに言われることだが、ここでは、隣人の名前も知らない、そもそも誰が住んでいるのかも住んでいないのかも知らない。地域のつながりもくそもない。異臭がただよってきて初めて「死ひんでる!」などと住人の存在+性別+年齢+住人の家族構成などをようやくで知ることになる。火事の時も同じであろう。火事で外に飛び出して、そのとき初めて隣人の方とごあいさつ、なんてことも決して笑いごとでも冗談でもなさそうな気がする。

葬式と火事のときだけは助けてやる。


だから現代は、実のところ見事に一億総村八分だと思う。しかし現代ではそれを、「プライバシーを守る」などと表現する。


しかし、プライバシーを守って、隠して、警戒するようになって、失ったものを考えるべきである。


たとえば隣室で何か異変に気づいても、われわれはそこに呼びかけるべき名前を知らないのである。


こん睡状態の病人ではないが、「たかし!」「けいこ!」などと名前を呼びかけるのと、「すいません!」やドアのノック音、チャイムの音では、吹き返すかもしれなかった息も吹き返せやしないだろう。