「今年も掘ってきたんですが、あの…どうしましょうか?」
「え?どう……って仰いますと?」
「いやあ…ほら、なんか色々あるじゃないですか、最近…」
「色々…ええ、色々って、はあ…」
「いやほら、いるじゃないですか気にする人も、色々出てるんでしょ?最近」
「出てる…はあ、出てる…って、あ!あーーー!放射能!」
「特に検査とかしてないですから、一応、確認しておこうかなって」
「はいはい、なるほど…、あー、放射能かー!」
「セシウムとか言うんでしょ」
「セシウム!そうですね、セシウム、セシウムですね、はい」
◆ あちらもこちらもセシウム、セシウム、セシウム、というわけだ。
【木更津・市原産タケノコからセシウム 初の新基準超え…朝日新聞デジタル】
千葉県は4日、木更津市と市原市産のタケノコから国の新基準を超える放射性セシウムが検出されたと発表した。木更津市で1キロあたり120ベクレル、市原市は110ベクレルを検出した。県は両市を通じて生産者側に出荷自粛を要請した。厚生労働省によると、今月1日に新しい基準(1キロあたり100ベクレル)が適用されてから実際に基準値を超えたのは初めて。政府は出荷停止を検討している。
◆ 先月末のとある午後、自宅のデスクトップに向かってまさにこのエンソフ用のエントリを書いているとき、近所に住む地主のSさんが、「今年も掘ったんですが」と、ビニールに入ったタケノコを持って玄関先へ姿を現した。
◆ 祖父の代から多摩に住むSさんは、毎年4月になると、我が家を含めた隣人家庭に地所の竹藪へ生えるタケノコを配って回る。ジャンキーな外食産業に毒されたぼくには有機農法や自給生活への信仰はひとかけらもないのだが、Sさんの掘ってくるタケノコはとても美味しく、子供の頃からたきこみ御飯や土佐煮にして食べてきた。
◆ いつもなら、かれは特に許諾を確認することもなく、「じゃあ」と言ってタケノコを置いて去っていくのだが、その日、作業着姿のSさんは顔に逡巡するような表情を浮かべて、「……どうします?」と尋ねてきた。
◆ そこから、冒頭の会話につながる、というわけだ。タケノコと、放射能。
◆ 11日で震災から一年二ヶ月が経ったが、破壊された福島の発電所から環境中に放出された放射性物質は広く東日本全域に降り注ぎ、いま現在もあれこれの食品から検出され続けている。人々は、その現象を、「汚染」と呼んでいる。
◆ 「汚染」は、ときによって、「基準値」以内だったり、超えていたりしていて、そのたびネット上やネットの外で、大小の騒ぎを引き起こしている。
◆ 人によって、職種によって、住む地域によって、「汚染」への対応はさまざまだ。
◆ まず、福島県以外の地域に住む圧倒的大多数の日本国民は、「消費者として」は殆んど何も気にしていない、そう言い切ってかまわないだろう(生産や流通に関わる話は、また別項で取り上げたい)。
◆ 夕飯や弁当の献立を考えながらスーパーで買い物をするとき、ランチできのこのソテーを頼んだり、立ち食い蕎麦屋で山菜そばを食べたりするとき、それに上司や同僚や家族を罵りながら居酒屋で酒を飲んでいるとき、いずれにしても、彼彼女たちは「この野菜って関東東北産?あっ九州産…?偽装じゃない?」とか「海は全部汚染されてるから、刺身食うのはやめとこう」とか「この肉、不検出って書いてあるけど、実は何ベクレル?」とか考えたりはしない。購入や飲食をためらったりも、しない。
◆ テレビや週刊誌で「基準値超え」が報道されるのを耳目にすれば、なんとなく「放射能やべえな!」と一瞬思ったりもするが、そんな「不安」はまたたく間に膨大な日常の些事に押し流されてしまうし、目の前の買い物や飲食に対する判断が何か急変することはない。(主に子供の食事へ)ある程度は懸念を抱く人はいるが、これも「給食の検査をしっかりやって下さい」という要望などに留まることが多い。「汚染」への「不安」は、時間が経つにつれて、次第に明瞭な輪郭を失ってゆく。
◆ 一方で、日々朝から晩までウェブに張り付いて「汚染」の「情報」をチェックし、各種の発表に目を光らせてはそれを次から次へとSNSやTwitterで広めている人々が多数存在することも確かだ。
◆ 24時間、脳内で「内部被曝」と「四号機」という単語(最近、さすがに「再臨界」は流行らなくなったようだ)が無限ループしている彼彼女たちは、名古屋から東の日本全域がすべて「強烈核汚染」されていると固く信じていて、ストロンチウムやプルトニウム同位体が大量に検出されないのは「原子力マフィアの陰謀」だと力強く主張している(既に検出されていると言いたげなNPOもある)。公的機関の各種安全基準や検査結果はもちろん一切信じず、数年後には「内部被曝」で大惨事が起きると断言している。自分たちの「基準」を満たす検査結果が民間の機関による測定で発表されると、突然その機関なり学者なりが「原発ムラに買収された」ことになったりもする。
◆ そのような人々からすれば、関東東北で採れた「タケノコ」は無条件で「被曝野菜」であり、特に未検査の自生物などは「毒物」と指弾されるに違いない。
◆ もしお隣のMさんが「彼彼女」だった場合、Sさんのタケノコはこっそりと捨てられることになり、「みなさんも気をつけて下さい!食べて応援はウソ!」などとツイートされてしまうだろう。
◆ じゃあ、ぼくは?ぼくの「態度」は、写真の通りだ。今年もSさんの新タケノコはいつもと変わらぬ味で、とても美味しい。最近は毎日、食べている。果たしてセシウムが検出されるか、されないかは分からないが(なんとなく、検出されそうな気もする)、被曝に関する自分の判断基準には(単なる素人のくせに)大胆不敵なまでの自信を持っているから、気にならない。
◆ けれど、その根拠についてとうとうと書いて、「多摩のタケノコは安全!」などとドヤ顔しようとも思わない。セシウムの移行係数、キロ100ベクレルの預託実効線量、実効半減期、大気中核実験などなど、もはやそんなありきたりの説明で説得される、「気にする人」は、いない。誰もがそれで「納得」するなら日本から放射能に関する大騒ぎはとっくに消滅しているだろう。
◆ 「汚染」とはつまるところ「情報」でしかなく、同時に「呪い」とか「信仰」に関わる事柄なのだ。極論を言えば、上記のような説明で「納得」したら、ただちに「汚染」など、消えてなくなってしまう。実際にフォールアウトがあろうが無かろうが、急性反応が起きるレベルの短時間大量被曝でなければからだは何も感じず、「症状」という意味で起きる事象もないからだ。
◆ 因果の鎖を信じない旧ソ連の老婆は、数千ベクレルのキノコや川魚やベリーを食べ、十万ベクレル以上の体内放射能を持ちながら、いま現在も「ゾーン」に住んでいる。住み続けながら亡くなった人には「何か」が起きたかもしれないし、起きなかったのかもしれない。すべてが「解明」されるのは、もう少し先の話になる(はず)。何を信じるか、信じないか、すべてあなたの判断に委ねられている。
◆ とりあえず、ぼくの明日の朝食は、タケノコ御飯である。