凡例


 一、この翻訳はジルベール・シモンドンGilbert Simondonの『心的と集団的個体化』の新版(L'individuation psychique et collective (Paris, Aubier, 2007))に寄せられたベルナール・スティグレールBernard Stieglerの序文「思考の不安な異邦性とぺネロペーの形而上学」(L'INQUIETANTE ETRANGETE DE LA PENSEE ET LA METAPHYSIQUE DE PENELOPE)の部分訳である。訳題改変と小題は訳者によるものである。

 二、シモンドンの『心的と集団的個体化』は今日多く「心的かつ集団的個体化」や「心的・集団的個体化」と訳されるが、今回のスティグレールの文章では「と」(et)が重要な鍵語であり、その意味合いを損なわないよう、この翻訳では例外的に上記のように訳す。
 三、本文中の註はすべて割愛した。重要なものは《解説》で触れている。

 四、引用文を示すイタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』。強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に代えた。
 五、訳の方針は出来る限り読みやすくなるよう心がけた。そのため、一文一文が短くなり、「.」と「。」が正確に対応していない。注意されたし。


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 シモンドンの心理学は、常に既に社会的な個体化であり、だから社会学でもあり、十字状に交わっている。その心理学は、一方ではほとんど水平的に知覚perceptionと情動affectionの関係によって構造化され、他方では上位と下位、つまり垂直の関係によって構造化されている。『心的と集団的個体化』は垂直を探究しつつ、起伏する水平性のなかで永続的に前進する実験だ。こうして「時間が経過した関係のひとつから出発する」誘惑の問いが再定義される。そしてそこではもはや善と悪、良いと悪い、高次と低次は「対立opposiotion」せず、「共立composition」するプロセスの流れを産む。

 従って、シモンドンの作品のなかの、二つの基礎的なコンセプトは互いに互いを分節化し合っている。しかしそれは見えやすくはないし、そのように指し示されることもない。例えば、一方の「回路circuit」と他方の高まりの「水準niveaux」のようなコンセプトだ。それらコンセプトのコンビネーションによって、シモンドンは転導的関係によって構成された個体化プロセスのような人間科学の総合的思考を展開させるのだ。

 この転導的関係は成長する。つまり、《徐徐に》形態発生を展開していく。その転導的関係の力動的原理、関係を創る緊張、これが行動actionに応答する知覚perceptionという、或いは感情émotionに応答する情動affectionという回路だ。この回路のなかでこそ、転導的な関係が具体化する。そしてこの成長と構造化によって情報informationと意味作用が産出される。この二つは心的個体と集団的個体を結び直しつつ、そこにある差異を止揚する――その回路に「痕が残った」意味作用は心的個体の、社会的個体の、内部であると同時に外部である。つまりは、無制限と化して、二者関係の際限なさのなかで循環する。あたかも自由を切り拓く不確定性そのものであるかのようだ。

 一般的にいって、シモンドンの述べることはすべて、極性polaritésによって構成されている。関係は極性の間で現われてくる。この極性は極性の間で己を分節化し、一方から他方へと作用して、こうして横断個体的なものを産む横断的個体化としての個体化プロセスを構成する。この極性の間で劇(実演action)が演じられる。例えば、誘惑の試練にあっては、良いと悪い、高次と低次が同じ平面に存在することはできない。だから心的と集団的個体化の哲学は複数の平面の思考であり、水平的であると同時に垂直的でもあるそのプロセスの流れの中で構成される内在性の思考なのだ。この内在性は平面的ではないが、だからこそ逆に、十分なヴォリュームがある。これだけが新しく新鮮に、《この世界を信じること》の問題と《新しい信仰》についての問いを提起することを許すのだ。

 内在性は二重人格についてシモンドンが言っていたこととともに分節化されねばならない。「心psyché」は、想像力を経るように記憶を経て、永続的に二重化し、それ自体で、時間化するse temporalise。自己の象徴化を生じさせるこの裏地のなかでこそ、水準変化の可能性が構成される。このようにシモンドンは誘惑の経験をもとに時間を思考するのである。

 通常人は極性的に、つまり水平的かそれとも垂直的な、二極の「間」で思考する。一極は他の極なしに機能せず、他の極と対立するわけでもない。これというのは、シモンドンが言うには、極の中心=環境によって物事が思考されねばならないからだ。ドゥルーズはここに、恐らくあまりに有名なリゾームの問題系の基礎をおくことになった――その問題系は、余りの負荷を、つまり例えばもし東西南北のような基本cardinalとなるその極性に垂直の極性をも付け加えたならばなどという負荷を負いすぎてはいるが。というのも、水平線なき基本性cardinalitéはないし、上位なき水平線も下位なき水平線もない。そこでは星々の運行と共に時間が過ぎ行き「その水平線を貫いていく」。まるで、そうして社会的に生成していく心的個体を触発する宇宙のプロセスのようだ――これをカントは道徳法則と呼んだ。

 高位や、サミットや例外的な時であるキーポイントのこの問題系なしに、シモンドンがどうして二重化の問いを強く主張したかのを理解することは全くできない。恐らくそこにあるのは彼の弱さのうちの一つで、精神分析の問い、即ちジャネが考えていた、無意識の思考に引き寄せることができる。

《解説⑦》

 今回は部分訳の大半は『心的と集団的個体化』とは別の一書『技術的諸対象の存在様態について』の内容に踏み込んだもので、訳者も同書を未読なため理解できない処が多い(例えば、「回路」と「水準」の問題や、例外的な時と場所、ジャネの無意識論との連関等)。

 しかし、一つのキーワードは「極性polarité」であることは確かだ。極性というとルートヴィッヒ・クラーゲスの「対極」概念が想起される。クラーゲスはリズムのことを「対極的持続性polarisierte Stetigkeit」だと呼んでいた(『リズムの本質』)。クラーゲスにとって常時の運動している、そして有機生命体の現象である(「拍子」=タクトと区別された)「リズム」は、極の間を上下に行き来する。この極が失われてしまえば、運動は停止し、当然「リズム」も消えてしまう。バハオーフェン以降のロマン主義は昼と夜、光と闇、夏と冬といった極性の思考で万物の事象を見出そうとした。それをクラーゲスも評価する。

 シモンドンにも、(勿論クラーゲスの影響の有無は別にして)このような傾向があるとスティグレールは指摘する。その為、極性の思考はよくよくみてみれば、「と」の力でもあると言い換えてもよいだろう。「と」は、「善と悪」のように、離接しつつ連接していた。そして哲学の仕事は、どちらか一方を選択することではなく、その曖昧な「と」に留まることにあった。だとすれば、哲学的にみれば、例えば「善と悪」は既定の項の対立というよりも、二つの極の組み合いだと解釈すべきだろう。人間は善でもなければ悪でもなかった。善も悪も存在の為には相互が相互を必要とする一つの極であり、人の振る舞いはその間で生み出されていく。

 そして、これは「心」の「二重化」の問題でもあり、相克を抱え続ける個体のモチーフと連続している。

 やはり同じく「と」を語ったドゥルーズはそれを有名な「リゾーム」概念として提示した。ちなみに、《この世界を信じること》はドゥルーズ『時間-イメージ』(Minuit, 1985)からの引用であり、《新しい信仰》はニーチェの表現で、マルク・クレポンの『ニーチェ――未来の芸術と政治』(PUF, 2003)を参照するよう指示している。


↓原書はこちらから。
http://www.amazon.fr/Lindividuation-psychique-collective-Information-M%C3%A9tastabilit%C3%A9/dp/2700718909