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写真:《福島景》撮影、東間 嶺以下全て同じ


◆ 前回のエントリ末尾で書いた予告通り、5月3日から5日まで、福島に滞在していた。

◆ 連休を利用して両親が磐梯山へと登る予定を立てていたため、ぼくもそれに便乗することにしたのだ(結局、連日の雨天予報のため、登山の予定は行く前から中止になったのだが)。

◆ 東北自動車道で白河、郡山を経由して磐梯山に向かい、麓の「猪苗代観光ホテル」に泊って喜多方、会津若松の界隈を二日のあいだ気ままにぶらつき、最終日は磐越道でいわき市の小名浜に立ち寄ってから帰京した。

(エントリにも使用した観光写真は、Facebookページにまとめました)


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「 # 普 通 の 福 島 」…フ ツ ウ ノ フ ク シ マ
 

◆ 「福島」…いま日本で生活するわたしたちは、彼の固有名を口にしたり、話題にしたり、こうやって文章に書いたりするとき、それがどのような文脈に基づくものだろうと、ある独特の「空気」「こわばり」から自由になることが、できない。

◆ 「わたしたち」だなんて、思わずプロ市民みたいな主語を使ってしまったが、例えば「原発」「放射能」をめぐって争われる猛烈に面倒くさい政治的綱引きの場で多用される「フクシマ」というカナ表記の意図などはもう典型的で、実際それは酷く低劣で悪趣味なのだが、仮に「フクシマ」を禁じてみたところで、原発事故が「福島」にもたらしたシニフィエの変化は否定しようがない。

◆ 東日本大震災に関連したTwitterのハッシュタグに#普通の福島」「#福島はフクシマでねぇ福島だというアピールを見つけることができる。あえて「普通の」と強調し、ことさらに「ふくしま」「ふぐすま」などと主張しなくてはならない状態は、不幸にして現在の「福島」を取り巻いている環境が全く「普通」ではないことをあからさまに示している。

◆ 「引きこもり系コラムニスト」の小田嶋隆は、日経ビジネスの連載で、そうした「空気」の状態を的確に指摘している。



…悪気があるわけではない。差別しているのでもない。ただ、現状の日本では、会話の中に出てくる「フクシマ」という言葉を、自然に受け流しにくい空気が流れている。だからわれわれは、驚いてみせたり、混ぜっ返したり、冗談を言おうとすることで「フクシマ」という言葉を、なんとか消化しようとしている。そういうやっかいな状況なのだ。
 



◆ 現実には小田嶋がコラムでも批判している某フリージャーナリストのように「悪気」があったり「差別している」人は大量に存在していわけだし、各個々人や社会集団ごとの程度差がとても大きいのも間違いないが、「やっかいな状況」というのは、あらゆる意味で正しい。

◆ こうした「空気」の下では、単に「福島へ観光にゆく」というだけの行為も一種の政治的示威という文脈を帯びてしまう部分がある。実際、小田嶋のように明快な「意図」を持ってそこへ出かける人たちもいて、同じ被災地でも、宮城や岩手への「復興支援観光」であるとか、あるいはちょっとボランティアに参加するのとはまったく事情が違ってしまっている。

◆ 2月には、カンニングの竹山隆範が日帰りで福島へ温泉観光に行ったとツイートしただけで「安全デマを流すのか!」というヒステリックな反応の炎上騒ぎが起きた(カンニング竹山氏の福島旅行と炎上)。もはや「行かない人」「行く人」のあいだには、宗教対立にも近い根深い認識と価値観の相違が発生しているのだ。


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◆ 無論、ぼくもその「空気」「こわばり」「対立」と無縁でいることは不可能だ。

◆ 事故から1年以上が経ってもなおウェブ上で繰り返し垂れ流される誇大妄想や「扇動と娯楽としてのデマ」や、恐怖と呪詛の叫びに支配された支離滅裂な魔女狩り騒動に対する、密やかな、しかしきっぱりとした示威である要素を否定する気もない。

◆ それは単に道徳心とか倫理に抵触するものでもあるし、加えて、個人的に有している福島との地縁的、社会的な文脈にも関係している。今後、またこの連載で触れることになると思うのだが、ぼくの母と伯母の実家は、例の破壊された原子力発電所が立地する双葉町内にある。そんな人間がいたかどうかは知らないが、トレーニング好きの発電所員なら自転車でも通勤できる距離だ。

◆ 深刻な土壌や河川の汚染と高い放射線量に加え、今後何十年も安定化作業が続く原発からあまりにも近すぎるため、双葉町と周辺自治体は一部を除いて長いあいだ住人の帰還が困難になることが確実視されている。

◆ 二人は大学入学と共に生活基盤を首都圏へと移しているが、双葉に暮らしていた多くの親戚や知人は県内を含む東北関東のあちこちで避難生活を余儀なくされている。彼彼女たちはまごうかたなき被害者であるが、同時に「浜通りの百姓が原発を誘致するからこんなことになった!」という憎悪の視線を他の福島県民から受けていたりもする。

◆ 母も伯母も浜通りで成長し、福島第一原発建設と東京オリンピックが迫る時期に、出ていった。母は今回の旅行まで、会津にも喜多方にも行ったことがなかった。昭和三十年代前半に浜通りで暮らした少女の視野に入っていたのは寂れた「ふぐすま」ではなく、200㎞南の上野駅だった。そして残った人々は輝ける原子の、「神の火」に大地再生の希望を託し、結果、ああなっている、というわけだ。

◆ 急展開した故郷をめぐるストーリーに、母と伯母は「出ていった人」として書き込まれている。出ていった人として、暴走する神の火に、戸惑っている。二人に出来ることなど何もないし、たとえ火が消されても、物語は終わらない。端役の端役である無名のぼくは、じっとそれを観ているのだ。 

◆ 機会が許せば、警戒区域の再編が終わったあとには、一度、母と双葉へ訪れてみようかとも考えている。


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◆ さて、旅行雑記と題しているエントリなのに、ここに至るまで、「観光」の四方山が一切書かれていない。

◆ 真性の原発崇拝者で、反原発派から蛇蝎の如く嫌われている「金融日記」著者の福島観光録のように、最高級の福島県産黒毛和牛のステーキがうまいとか、大吟醸の地酒がどうのとか、朝日の眩しい露天風呂とか、ぜんぜん、まったく、触れてもいない。

◆ なにしろ、特筆するような素晴らしいものは何もなかったからだ。

◆ 鶴ケ城も、会津や喜多方市街も、猪苗代湖も野口英世記念館も、いわきの港やアクアマリンふくしまも、「普通」にたくさんの観光客がいて、「普通」に退屈な田舎の観光スポットだった。悪くはないが、訴えかけるものはない。あえて挙げるとしたら、その「普通」さかもしれない。退屈だと思えるほど、当たり前に観光地観光地している、ということ。

◆ いや、しかしお前はさっき「普通普通と強調するほど、福島を取り巻く環境は何ら普通ではないことがあからさまになる」とか言っていたではないか?それはその通りなのだが、ぼくがぶらついた「観光地」が完全に「普通の観光地」であるのもまた確かなのだ。

◆ 喜多方市役所の横に佇むモニタリングポスト、旅館に置いてあった福島民報の記事が示す、他県より高い空間線量や土壌のセシウム沈着への対策、 怪しげな放射能商売が花ざかりの広告…。

◆ それらはこの土地が一種SF的な状況下に置かれ、原発事故の最前線であることを裏付けるが、同時に二時間待ちのラーメン屋の行列や満室の旅館、水族館の大混雑という事象が示す、観光地としての「普通」さが並存している。統計数字ではなく印象のレベルだと断った上で、ふらふらと遊びに来た余所者が「観光地だなあ」と思うであろう程度には、「普通の福島」なのだ。それは間違いない。

◆ 九回も「普通」(これで十回だ)と言っていることで、それが伝わるだろうか?再び小田嶋を引けば、「大丈夫!安全厨のわたしが保証します」そんな感じだ。


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◆ 最後に、二日目に行った野口英世記念館の庭に置かれた石碑の写真を載せておこう。刻まれている文字は、「忍耐」

◆ 偶然にしか過ぎないが、この言葉ほど原発事故以後の福島、あるいは汚染被害を受けた土地の実相を表す言葉も他にないだろう。猪苗代という「辺境」からロックフェラー財団お抱えの人気者になった奇才は、いまの世に生きていたら、やはり実験の鬼になって被曝影響の研究をしていたんだろうか?(あの目立ちたがり精神では、絶対にやったと思うが)「年100ミリシーベルトまで安全!」と言ったか、あるいは「食品安全の基準はキロ5ベクレルだ!」と言ったか?

◆ ちょうど雨が止んだ庭で、そんな「普通じゃない」ことをふと思ったのだった。