鯵はアジである。
念のため。
ゴールデンウィークの谷間である今日(いまはもう、ゴールディンウィーク明けも明けだが)、それも真夜中、ぼくは350mlの発泡酒を飲み、鯵を三枚におろした。
というのも、訳あって、
と言ってもなんの訳もなく、
単なる思いつきで調理師専門学校に通っているぼくは、その料理技術向上の地味な自主練として、近所のスーパーで鯵を一尾、買って帰ってきたのである。
念のため。
ゴールデンウィークの谷間である今日(いまはもう、ゴールディンウィーク明けも明けだが)、それも真夜中、ぼくは350mlの発泡酒を飲み、鯵を三枚におろした。
というのも、訳あって、
と言ってもなんの訳もなく、
単なる思いつきで調理師専門学校に通っているぼくは、その料理技術向上の地味な自主練として、近所のスーパーで鯵を一尾、買って帰ってきたのである。
それでまあ、鯵を三枚におろした。
もちろん、ぼくの三枚おろしは初心者であるため、とてもつたない。
あっ、血が出た、
あっ、えらが取れた、
あっ、身が崩れた、
あっ、おれ新宅、
という具合である。
初投稿にあたって唐突に自己紹介をさせていただくと、わたくし、カタカナではシンタクトモニ、漢字では新宅睦仁と申します。
寺の人でも朝鮮の人とかでもなく、純日本人であるので、そして三十路の独身男性であるので、つい肩に力が入って今回の記事タイトルが仰々しくなってしまったけれど、そういうことなんで、そこんとこよろしく。
閑話休題。
丁寧に、慎重に、しかしおっかなびっくり初心者がおろした鯵の三枚おろし。
それで”鯵のたたき”を構成させることにした。
大根、みょうが、ねぎ、わさびを添えて、ちょっと小粋に、いただくのである。
盛り付けも終わり、さてと、ぼくがさばいた鯵を口に入れた瞬間、居酒屋ともスーパーのパックとも違う新しい感覚が、口腔に広がった。
それはいわゆる”人肌”と呼ばれるあたたかさであった。
その人肌とはもちろんぼくの手のひらのあたたかさであった。
つまり、わたくしは血の通う人間であった。
なんの世界でもそうかもしれない。素人というものは、やたらめったらとベタベタと過剰に触るもの。だから、ぼくの手のひらの温度、350mlの発泡酒が入ってなお上昇したぼくの手のひらの温度で、しっかりと鯵は”人肌”になっていた。
これがお店なら、クレームをつけるレベルであった。
それ以前に、学校で習った鯵の生食で起こりうる食中毒、腸炎ビブリオが心配であった。
どうにも生あたたかくて様子のおかしい鯵のたたき。
しかしそれは、ぼくがしっかり製造者の挙動を、というかぼく自身がぼく自身の一挙手一投足を見て、つまり監視して管理して製造された至極安全な食品のはずある。
これはつまり流行のトレーサビリティとでも呼べるもので、スーパーのキャベツやニンジンに、成城や白金のスーパーなどでさえ、いや、そういう土地柄でこそでかでかと、いかにも場違いな感じで貼り付けてある「この野菜、わたくし山田森男が作りました」とかいう製造者のすきっ歯もしくは銀歯もしくは生活臭ただようチャーミングな笑顔と牧歌的な風景がミニマルに広がっているシールと同等、もしくはそれ以上の高レベルの安心感がある、ということなのである。
しかし、ぼくは、それでも信じられなかった。
自分が監視、管理したこの食品が安全であるとは、どうにも信じることができなかった。
しかしその一方で、居酒屋でも、スーパーでも、ぼくは出てくる食品をほとんど盲目的に信じることができてしまうのであった。
食品の製造、運搬、調理、配膳の過程も知らぬ。もちろん調理場の様子も知らぬ。ゴキブリが何匹いるかも知らぬ。調理中にくしゃみをぶっかけられたかニキビをいじったか鼻をすすられたかも知らぬ。そこで働く人間の年齢はもちろん家族構成も知らぬ。なんにも知らぬ。
知るわけがない、つまり、わからない。
しかし、ぼくは”わからない”工程”を通ってきた食品のほうを、もっと言えばどこの馬の骨ともねずみの肉ともわからない食品のほうを、信じてしまうのである。
それはなぜか。冷たいからである。
機械で、または機械的に作られたものは、冷たいのである。
冷たさは、正確さ、清潔さをイメージさせる。
あいまいな、人間的なミスや感情の起伏といったものの入り込む余地のない、これはこういうものです、という説得力がある。
しかしぼくの手は、血が通っていて、あたたかい、生あたたかいのである。
生あたたかさは、不正確さ、不潔さをイメージさせる。
正確な、機械的な反復作業やスピードといったものの乏しい、気分次第で品質にばらつきがあって頼りない、うさんくささがある。
いまさらながら、かつての産業革命で声高に叫ばれた、いわゆる「機械によって人間は駆逐される」という危惧が現実のものとなってしまっていることを思い知る。
しかし、それがただただ人間の身体を流れる生あたたかい血によってだとは、誰も予想してはいなかったであろう。ただ、その血が冷たくさえあれば、鯵はきりりと冷たく、生あたたかくなどなく美味だったはずである。ただ、その血が冷たくさえあれば、その翌日、ぼくが早朝より強烈な吐き気下痢腹痛に悩まされることはなかったのである、キリッ!
…と自分の肉体でもって裏付けたいところだったのだが、いたって健康な資本主義のわたくしであった。