凡例


 一、この翻訳はジルベール・シモンドンGilbert Simondonの『心的と集団的個体化』の新版(L'individuation psychique et collective (Paris, Aubier, 2007))に寄せられたベルナール・スティグレールBernard Stieglerの序文「思考の不安な異邦性とぺネロペーの形而上学」(L'INQUIETANTE ETRANGETE DE LA PENSEE ET LA METAPHYSIQUE DE PENELOPE)の部分訳である。訳題改変と小題は訳者によるものである。

 二、シモンドンの『心的と集団的個体化』は今日多く「心的かつ集団的個体化」や「心的・集団的個体化」と訳されるが、今回のスティグレールの文章では「と」(et)が重要な鍵語であり、その意味合いを損なわないよう、この翻訳では例外的に上記のように訳す。
 三、本文中の註はすべて割愛した。重要なものは《解説》で触れている。

 四、引用文を示すイタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』。強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に代えた。
 五、訳の方針は出来る限り読みやすくなるよう心がけた。そのため、一文一文が短くなり、「.」と「。」が正確に対応していない。注意されたし。


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 『心的と集団的個体化』とは、シモンドンが可能性の条件と個体化認識の限界をあらゆる形で――物理的、生命的、社会心理的に――確立させた著作である。これはすなわちカント的な意味での認識の批判なのである。


 個体化認識の可能性の条件は、カントと「関係」している。というのも、それは不可能性の条件でもあり、或いはまた、限定されつつ常に再起している可能性の条件でもあるからだ。本質的には理解可能な認識の条件とは、だから従って、そのようなものとしての個体化と同じく、性格づけられる未完成のプロセスのようなものなのである。

 
 この新しい批判とはコンセプショナルな一個の新しい装置である。それがあらゆる哲学の根底にあり、個体を直観的に把握するの使っていた(コノ・モノτοδε τιとゼンタイσυνολονや、「基体subjectum」、そして最終的には主体sujetのような)カテゴリーが、思想の領域となる。ニュートンの原理やユークリッドの公理が同時代の物理学や幾何学の領域であったように。


 考えるべきは、環境のような前個体的なものについてだ。そこからは個体が結果であるようなプロセスが生じる。そしてプロセスにとって輪郭を定めようとするカテゴリーは無効となる。このようなプロセスの思考にあって、心的な個体に認められていた特権はもはやない。だから社会的諸個体は、法的人格
personnes physiquesとおなじく個体以上でも以下でもないのだ。


 個体化認識の可能性の相対的
relative条件とは不可能性の条件でもある。というのも、認識の個体化なしに、そして自己個体化なしに、個体化を認知することはできないからだ。自己個体化の欠如、つまり既知がそこで未知にまで再生成する個体化と「同時に」個体化することの欠如、これは、不適合inadequateだということだ。認知するということ、それは個体化すること、と個体化するということなのだ。つまり、認知しconnaître、再-認するre-connaîtreには、既知の対象が変-trans-formerし、それが未知のものにならなくてはいけない。だから、「認識論的gnosélogique」個体化とは横断的個体化transindividuationを導く「心的と社会的」個体化の一つのケースなのだ。心的な個体が解き難い社会的現実と心的現実である限りで、それは媒介を介さない知の個体化なのであり、知の主体の個体化に関する「優れた」ケースでさえある。


  
個体化というプロセスにおける、横断的個体化の「作用」について記述し、カテゴリー化一般を生じさせる著作『心的と集団的個体化』は上記のような一個の批判である。そして認知することの行為acteにおける心的なものと社会的なものの間の偶然の一致は、対象を知る際、認知することの行為とその認識の結果との間に不可約的な不適合さを逆説的に生じさせる。このような対象の認識とは、まるでカントがいっていたような対象の産出であるが、そこに浮かび上がってくるのは知のメタ安定化métastabilisation、つまりその知の――そしてそこで構成された対象の――潜在的不安定化に至る、個体化内の認識行為であるのだ。これは《量子跳躍saut quantique》にたとえられていい。


 これが意味するものとは、すなわち、認識とはより壮大な集団的個体化に終わりなく加担するプロセスであるということだ。そこには前個体的なもの、心的個体や社会的個体をアクチュアライズさせる潜在力の所持者があり、それが自己個体化をなす。そしてそれは不均衡の境界
limiteでうまれる常時のメタ安定的均衡が束縛している個体化プロセスの諸段階が必ず経られる。


 この「個体化理性批判」が取り掛かる問いは、熱力学と量子力学へと開かれる。この批判は個体化の環境がニュートン的な物理学であった『純粋理性批判』と繋がっている。(主に『個体とその心理
-生物学的な発生』で獲得した)質料matièreと形相formeの対立の止揚のように、その繋がりは、同時に「アプリオリ」と「アポステリオリ」の対立を宙づりにする。そして個体化理性はもはや、認識個体の対/既知の環境の外で思考されることはないのだ。


 以上のことから得られる結論は、認識とはそこにあって行為遂行的
performativeになっているということだ。認識する個体は、個体認識しながら、つまり個体を個体化させながら、環境を変化させる。そしてこのような状況は人間悟性の改革réforemeを要求する。質料と形相の対立のような、「アプリオリ」と「アポステリオリ」の対立のような、心理学と社会学の対立(そして人間の科学の集合のなかで結果的に起こるあらゆる対立)は止揚されねばならない。『心的と集団的個体化』の「個体化理性批判」の計画とは人間科学の再基礎付けにある。つまりは、それ自体一つのケースでしかない認識を社会心理的個体化のものであると認識しようということだ。


《解説⑤》


 スティグレールはシモンドンの個体化認識理論をカントの仕事になぞらえ、「批判」と呼ぶ。というのも、どちらにとっても、認識の力には限界があるが(例えば神が存在するかどうかは人間は知ることができないが)、しかし認識が可能なものと不可能なものとを吟味し選り分けることはできる。認識の条件を問うこと、「可能性の条件」=「不可能性の条件」を確定すること、これが「批判」の役割だ。


 しかし勿論、両者には差異がある。例えばカントにとって認識対象の条件には物理学的な前提がある。しかし、シモンドンは前提となる「環境」や「前個体的なもの」の語彙にそれ以上の意味を含みこませている。つまり、集団的個体かが心的な個体を、そして「認識」を産み出す条件となるのだ。だから、「認識とはより壮大な集団的個体化に終わりなく加担するプロセスである」。


 そもそも、シモンドンにとって個体化認識と個体化プロセスそのものは明確に切り分けることができない。これもカントとの差異を描き出している。例えば、ペットショップで何匹もいる子犬の中から適当な犬を選び、家で飼うことにしよう。名前をつけ、餌をやり、日々成長していく姿を見るにつれて愛着が湧いてくる。そして或る日、その犬が死んだとする。私たちはその時、その犬が交換不能な=掛け替えない「この犬」であることを痛感し、「またペットショップで別の犬を買ってくればいいじゃないか」という人の意見に耳を貸さないだろう(柄谷行人はこの単独的な個体性を『探究Ⅰ』のなかで「
this-ness」と呼んでいる。或いはエマニュエル・レヴィナスならば「顔」と呼ぶだろう)。


 これが個体化認識だ。しかし個体化認識そのものによって、そもそもその「このもの」が個体化され、そしてそれ以上にその「このもの」を認識した者として自己もまた個体化されている。犬を飼う前と犬の遺骸を前にした「自己」は明らかに異なっている(異なっていなければ、またペットショップで買ってくればいいだろう)。だから、個体化認識は自己(が)個体化することなしには成立しない。個体化は相互に組み合いながら、組み合うことでのみ存続していく。すなわち、横断的個体化である。


 だから、スティルグレールは認識が「行為
acte」、厳密に言えば「行為遂行的performative」な一回性であることを強調する。オースティンやサールなどが作り上げていった言語行為論speech-act theoryの領域に於いて、事実確認的constativeと行為遂行的performativeは区別される。事実確認的とは、事実を報告し、現実を写すタイプの言葉だ(例えば「雨が降っている」)。それに対し、行為遂行的とは言葉そのものが行為の一部をなしていて、現実そのものに働きかける(「汝は誓いますか?」「誓います」)。


 ジャック・デリダは、言葉はそれぞれの文脈に依存しており、事実確認的・行為遂行的の事前の区別は決定不能だと考えていた(「署名・出来事・コンテクスト」)。これを簡単に言い換えれば、どのような言葉にも行為遂行的な文脈が必ず伴っているということだ(「事実」を報告するテレビニュースが偏向している云々の批判はネットに溢れている。それは客観的な「事実確認」言明さえ現実的な行為のなかでなされるという素朴な理由から惹き起こされる)。シモンドン=スティグレールは更にこれを「認識」にまで拡張する。そして行為遂行的な認識は、必ず自己個体化に寄与するのだ。
 
 シモンドンの見ている世界に、物理的宇宙のような認識の不変の土台=前提は存在しない。あらゆる前提は前個体的なものとして個体化のプロセスに常に既に巻き込まれており、そこに自ら飛び込まなければ、個体化を認識することはできない。だから、経験に先立つもの(アプリオリ)と経験的なもの(アポステリオリ)の対立は宙づりにされる。これが「個体化理性批判」の教えだ。

 

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http://www.amazon.fr/Lindividuation-psychique-collective-Information-M%C3%A9tastabilit%C3%A9/dp/2700718909