さて、コラージュに感激てしまったのはいいとして。だからといってそれを続けるために本当に山女、いや山爺に転職するのはちょっとちがう、というか本末転倒。ここはあくまで「通過点」。次にすすまなきゃ。と、一応ちゃんと考えていた。
ここで、「読むこと」について書こうと思う。
大学に入ってから、だんだん文が読めなくなっていた。別段無学の人になったわけではない。たとえばひとつの単語があればそれを別の言葉でいいかえたり、知っている外国語であればそれに相当する日本語をあてたりするという、ポイント作業はできるのだが、分からくなっていったのはもっと大きな括りでの部分だ。仮に大意を理解できたとしても、それを記憶にとどめたり、考えたり、現実と関連付けたりすることができなくなっていた。そこでつまずいているうちに単語レベルでの理解も落ちてくる。とはいっても学生のときはそういう訳にはゆかず、どちらかというと入学してから学業が大変になるというタイプの学校だったので、参考文献や課題図書を読む機会は少ないほうではなかったと思う。けれど、何度も読みなおさなければ理解できなかった。
文字を見つめていると、いつのまにか文は単語に、単語は文字に解体され、言葉は文字の恣意的な羅列にしか見えなくなり、「字に似た何かの形」或いは黒いインクの不気味な小動物として現れてくる。意味的理解の領域から完全に逸脱していたということだ。。そんなときは頭がしびれて、眠気もおそっているので半分意識がない。学術系の文献だと知識不足のせいもあるので、理解できないのはある程度仕方がないとしても、比較的話のシンプルな小説でさえ、読み進めるのに四苦八苦だった。電車などで読めば音声アナウンスや広告宣伝で気が散る。また渡仏を意識するようになってからは、いつも「こんなことしていていいのだろうか」という強迫観念が頭にこびりついていたので、家や店などでも到底読書に集中できない。厚みが極限まで無くなった生き物が、後頭部にコンクリートを打ち付けられて、わずかに呼吸をしながら紙面の上を這っているようなイメージを自分と重ね合わせて
いた。
山小屋にはあまり重くない文庫を何冊か持ってきていた。そこでは初めて、きちんと呼吸をし、良く噛んで食べるように本というものを読むことができたように思う。一番よく覚えているのがヘッセの「知と愛」。修道院に入った2人の少年が主な登場人物で、1人は高僧をめざし、もう1人は放浪の生活に入るという設定の物語だ。しんとした部屋でそれを読んでいると、作家の細部にいたるまでの自然の描写、放浪生活に入った主人公ゴルトムントの見たことや感じたことが、すっと入ってくる。騒音、電子音、人工的な色や大量の情報がから切り離され、自然にかこまれた生活をしていたからかもしれない。余計な情報が遮断されるほうが1つのことに集中しやすいとよく言われるが、どちらかというと私はそういう体質なのだろう。消灯後はアルコールランプとヘッドライトだけが光源になるので、そのわずかな光の中で読書をした。暗闇に灯りを照らすと、明るいときよりも紙の繊維の質感やインク字の形がよく見える。そういった要素は読書への集中を全く邪魔しない。それどころか、物語のディティールを忘れてしまった今でも、黄ばんで少し毛羽立った紙面や、質感、匂いは覚えていて、物語全体の仄かな記憶と一体となっている。
一番印象に残ったのは、もちろん小説の内容だ。主人公は修道院を出奔、「愛と放浪」の旅に出る。ドイツ国内でさまざまな事件や人(特に女)との出会いを経験した後、彫刻家になり、少年のころ別れた親友と再会する。これ読んで思った。「私も旅にでなきゃな。」念のため断っておきますが、別にゴルトムントになろうとしたわけじゃありません。だが、悩んだ挙句辿りついた山小屋、その生活のなかで「知と愛」を読んだのには縁のようなものがあったと思う。自分なりの方法で、読書体験を現実の未来に繋げなければと、強く思い込んだ。いや、どちらかかというと、そう思い込むことで、それをしないという逃げ道を絶とうとしたと言った方がいいかもしれない。
「下山したら次の住み込みの仕事をさがそう。留学するまで、国内のいろんな場所へ行って働こう。」
(to be continued)
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留学を目指した元ニート(4)山・後編
- 2012年05月08日 15:11
- フランス留学目指した元ニート