凡例
一、この翻訳はジルベール・シモンドンGilbert Simondonの『心的と集団的個体化』の新版(L'individuation psychique et collective (Paris, Aubier, 2007))に寄せられたベルナール・スティグレールBernard Stieglerの序文「思考の不安な異邦性とぺネロペーの形而上学」(L'INQUIETANTE ETRANGETE DE LA PENSEE ET LA METAPHYSIQUE DE PENELOPE)の部分訳である。訳題改変と小題は訳者によるものである。
二、シモンドンの『心的と集団的個体化』は今日多く「心的かつ集団的個体化」や「心的・集団的個体化」と訳されるが、今回のスティグレールの文章では「と」(et)が重要な鍵語であり、その意味合いを損なわないよう、この翻訳では例外的に上記のように訳す。
三、本文中の註はすべて割愛した。重要なものは《解説》で触れている。
四、引用文を示すイタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』。強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に代えた。
五、訳の方針は出来る限り読みやすくなるよう心がけた。そのため、一文一文が短くなり、「.」と「。」が正確に対応していない。注意されたし。
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ジャック・ガレリが強調したように、シモンドンはソクラテス以前の問いを再活性化させた。心的かつ集団的個体化とは〈一と多〉や「ヒゥポケイメノン・プロトンhypokeimenon proton=始源の基体」への問いを開始させるような偉大な発見だ――ギリシャ的思考の起源に生じるその問いは、まるで始まりかけていた「ポリス」と共に「ポリス」に向ってavec et pour表面化した問題であるかのようだ(そこにあって力動説dynamismeの原理も、〈一と多〉の緊張のように、ポリスを脅かす原理である――ギリシャ人がスタシスstasis=静的均衡状態=停滞と名づけたその脱個体化の危険のようなものだ)。
〈一と多〉の結節点を見直しながら、シモンドンは哲学における分析的思考の統治の数世紀以前にあった哲学総合の時代を再構成を望む――その数世紀とはデカルトと彼の方法に関する新しいコンセプト由来のものだ。それは『心的と集団的個体化』のなかに部分的にみられる。そこでは、始めの哲学の問いとして関係を問うものに関する極めて豊かで力強い展開がみられるのに加えて、この著作はあらゆる方向に深い掘り下げを行なう。関係の(そしてそこでの総合の)新しいコンセプトを基礎付けるという夢を明確に引き受け、「一つの」人間科学を基礎付けるだろう人間諸科学の別の公理がそこに見られるのだ。
この夢、この「総合化」の使命は、「一個の」人間科学の再統一として、哲学に再召喚されている。自然科学における物理学と化学の間の対立の止揚としてシモンドンが喩えていることは、しかしだからといって分析に別れを告げることではない――むしろ反対だ。あらゆる専門分野に精通し、一連のメニュー(物理化学、生命科学、技術論、社会学、心理学、社会諸科学、マネジメント学、しかもことあるごとに正確な哲学史を復習し続ける)によって最も分析的になりながらも、同時代の知に綿密なほど考慮された哲学的著作に出会ったならばと考えてみて欲しい。
いかなる場合であれ、思考の対象の分析的考察やそれを産むことを許す諸方法を放棄することが問題となっているのではない。つまり問題は諸科学の相互対立にあるのではないし、その科学の対象に異議を唱えることにあるのでもない。反対に隣接するその対象を考察することの方にあるのだ。だが総合的な歩みのなかにあるその分析的な結果を再登録すること、言い換えれば、スン-テシスsun-thèsis=共に-立つ=総合としての関係そのものである方法にも問題がある。
このような方法は、諸項を構成し、転導的といわれている関係が優位であるということに基いている――その優位は「アプリオリ」で演繹的déductiveな関係と「アポステリオリ」で帰納的inductiveな関係の連関によって与えられる。この新しい関連は、力動的システムのなかで不可約的にirréductiblement登録されているような思考の経験についてのものだ。哲学それ自体、そしてシモンドン自身が特異なしかたで提示したものは、そのような経験や登録の特殊なケースである。その新しさ(それは「アプリオリ」と「アポステリオリ」との対立に別れを告げる)とは、システムのなか――加えて、それら自体転導的な諸関係である、システムの集合のなか――にある力動的な関係としての転導性transductionにある。そこでは前個体性、より正確にいえば、前個体的な中心=環境というコンセプトを手にいれなければならない。
《解説④》
シモンドンの目的にはばらばらになってしまった哲学の統一や総合があった。しかし、それは新規の学問を立ち上げることによってなされるのではない。寧ろ、古代ギリシャ哲学のあった問いを再活性化させることでなされる。例えば世界は全体にして一なるものでできているのか(パルメニデスやゼノン)、それとも多なるものの集合なのか(デモクリトス)、といった〈一と多〉問題。或いは生成を可能的なもの(デュナミス)から現実的なもの(エネルゲイア)への発展だと説いたアリストテレスの力動説dynamisme。これらをシモンドンは再活性化させ、自身の個体化理論の文脈で、現代的に練り上げ提起するのだ。
哲学と関係性の問いのシモンドン的理解について、参考文献としてスティグレールは註で、ジャン=ユーグ・バルテレミーの二つのシモンドン論、『個体化を考える――シモンドンと自然哲学』と『シモンドン以後の認識と技術を考える』(L'Harmattan, 2005)を挙げている。
しかしその総合は、弁証法的なものではないと、スティグレールは更に註で次のように記している。
「このような総合は明らかに弁証法的ではない。それは統一化するもの、〈一〉を産むものをもはや単純にそこで指し示すことができない総合そのものの条件の新しいコンセプトと呼ばれる。だがしかし総合が個体化=不可-分化in-dividuantしていくなかで、それは多様性が再動するものでもある」
非弁証法的ジンテーゼは、後段で論じられる対立opposiotionから共立compositionへのモティーフと共鳴している。弁証法ではテーゼとアンチテーゼが対立し、その闘争から高次の総合、ジンテーゼが生まれる。しかしシモンドン=スティグレールは高次の次元設定そのものを否定し、総合syntèseを様々なものの共立=組み合いとして捉える。だから「多様化」と総合が対立しないし、アプリオリとアポステリオリも対立的に捉えない。
そしてもう一点重要なのが、個体化が不可分化in-dividuationでもあるということだ。フランス語でdiviserは分けるという動詞だが、個体individuとは、そもそも、これ以上切り分けることができないものの謂いだ。シモンドンにあって特異なのは、所与の個体は勿論のこと、より根底的に個体化プロセスからその不可分性生成を考えていこうとする点にある。そこでは一旦個体以前の前個体的なものや集団的な個体化を相手取らなくてはならない。スティグレールがギリシャ哲学の思考と「ポリス」の成立に注意を促しているのもそのためだ。個体化は個体だけでなされるものではない。共同体や都市といった、前個体的な環境が土台となっているのだ。
こうして個体化の謎を解くために、シモンドンにあって、それこそ「多様」に、あらゆる専門分野が総動員される。しかし、繰り返すが、その根底には、古代ギリシャ哲学の根本的な問いが基礎として存在しているのだ。
↓原書はこちらから。
http://www.amazon.fr/Lindividuation-psychique-collective-Information-M%C3%A9tastabilit%C3%A9/dp/2700718909