凡例


 一、この翻訳はジルベール・シモンドンGilbert Simondonの『心的と集団的個体化』の新版(L'individuation psychique et collective (Paris, Aubier, 2007))に寄せられたベルナール・スティグレールBernard Stieglerの序文「思考の不安な異邦性とぺネロペーの形而上学」(L'INQUIETANTE ETRANGETE DE LA PENSEE ET LA METAPHYSIQUE DE PENELOPE)の部分訳である。訳題改変と小題は訳者によるものである。

 二、シモンドンの『心的と集団的個体化』は今日多く「心的かつ集団的個体化」や「心的・集団的個体化」と訳されるが、今回のスティグレールの文章では「と」(et)が重要な鍵語であり、その意味合いを損なわないよう、この翻訳では例外的に上記のように訳す。
 三、本文中の註はすべて割愛した。重要なものは《解説》で触れている。

 四、引用文を示すイタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』。強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に代えた。
 五、訳の方針は出来る限り読みやすくなるよう心がけた。そのため、一文一文が短くなり、「.」と「。」が正確に対応していない。注意されたし。


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 善性と悪性の間はかつてないほど緊張し、人間性の未来への問いの課題で目がくらむようだ――そして第一に道徳的なその問いは(ルソーにも課されたように)政治そのものとなる。すなわち「愛知philia」の政治だ。

 ところが、シモンドンは政治となったそれらの問いを新しい用語を使って検討することをわれわれに許す――その用語は完全に独創的でコンセプチュアルな装置を通じて哲学的思考の基礎的な問いの集合を再解釈し再活性化させる。

 こうして人間科学の成果にするのと同じように、同時代物理学の知見に依拠しながら生命的、物理的、社会心理的な個体化プロセスが描かれる。その明確な目的は、再統一された人間科学を基礎付けることにある――正確にいえば、その科学において心的なものと社会的なものとの対立を止揚することにある。その二つは、心理学と社会学を樹立させることとなった分割という頭脳労働によって人工的に産み出されたもので、その時哲学は、統合の力として、実証科学へ自身の分析能力を部分的に譲ったのだった。

 もろもろの知の分析的な生成は、(手から頭脳へ移っていった)労働の産業的分割la division industrielle と同じく、思考の規律=分野disciplinesとなる知性対象の方法論的分離から生じた。

 心理学と道徳、最終的に両者の分割を導いた頭脳労働による区別とカテゴリー化が整理されてから、哲学のなかで二つは分離される(ギリシャ時代にはどんな意味もたなかった)。一方は形而上学(或いは形而上学批判)と認識論へ、他方は人間科学へ――この科学が、新しい頭脳労働の領野を明示する数量化と観察の方法に従って、人間の対象と社会の対象の分析的分割を帰結させた。

 諸々の知の分裂を招いた(同期するように、哲学は自然科学をも手離した)、タスクのこのような分担は、(文法化grammatisationのプロセスを通した)人間の労働作業の離散化discrétisationと産業的資本主義による機械のなかの外化現象extériorisationと同時代的であった。

 認識の異常な進歩をもたらした、実際のこの状態は、しかしながら一種の思考摘出を導くものをももたらした。その上に、脱個体化だ。こうして、多分野の凝集の、様々な小さな願いの超克が試みられることになる――例えば《認知》と名のつく諸科学だ。ところが、それらの夢にあって、個々の方法で構成された分析的な諸々の知を総合的に結び直す能力=学部facultéには欠落がある――それに対してシモンドンの著作はその能力の必要としている思考であり、連接的でなく構造的でもない仕方でそこに障害を産み出す思考なのだ。そしてまるでその理性そのものに向うかのように、その思考は、考えさせるdonne  à penserものだ。より厳密にいえば、個体化した理性としての思考の新しい批判を考えさせるのだ。

《解説③》

 シモンドンの哲学の大目的は、再統一された人間科学の基礎付けにある、とスティグレールは指摘する。翻訳で「人間科学」と訳した言葉はscience humaineであるが、scienceの意味を広くとれば、「人文知」とも訳せるだろう。人間科学=人文知の再統一とは果たして如何なる意味なのだろうか。

 知は、今日、大きく文系と理系に分けられている。前者は文学、哲学思想、歴史云々、後者は数学、生物学、化学、物理学云々という具合だ。哲学は前者に組み込まれている。しかし、もともと哲学はそのような分類に収まっていた訳ではない。寧ろ、様々な学問が歴史的に派生していくにあたって、哲学はそれぞれの母胎でありつつ、それぞれに力を貸していた(歴史が進むにつれて哲学は「自然科学をも手離した」)。本来の哲学は文系理系に分けられないようなものだった

 このような知の分裂は、社会学と心理学の分割、シモンドンの文脈で言い換えれば集団的なものと心的なものとの対立を生み出す。しかし心的「と」集団的な個体化を考えるシモンドン=スティグレールにとって、その対立は知の分裂が生み出した枠組みでしか有効ではない偽の問題だ。その分割は自明のものではないのだ。

 知の分裂は、興味深い同時代的現象と共振している。例えば、「人間の労働作業の離散化discrétisationと産業的資本主義による機械のなかの外化現象extériorisation」だ(ちなみに、extériorisationはスティグレールがシモンドンと同等に評価する社会文化人類学者ルロワ=グーランの鍵語だが、ここでは無視する)。要するに、マルクスが問題にしたような疎外現象のことであるが、スティグレールはシモンドンの一書『技術体の存在様態について』を引きながら、別の処で次のように述べている。

「機械が登場する前は人間は道具をもつ者で、人間自身が技術的な個でした。しかしインダストリアル化した近代には、機械が道具を持つようになり、そうなると人間はもはや技術的な個ではなくなり、人間は機械に仕える者servant(労働者)か、まとめ役ensembliste(エンジニアか管理職)になったのです」(『象徴の貧困』第三章、新評論、2006)

 機械の登場以後、人間は職人(「技術的な個」)になれず、いつでも交換可能な機械のパーツ=パート労働者となって製品全体を手にできない細部労働に従事していく(「離散化」)。これが「プロレタリア」の意味だ。これと同じく、知の「タスク」は細分化していき、狭い専門領域が横断性なく細かく差異化されていく。個体の貧困と知の貧困だ。この原因に、近代(モダン)が更に浸透激化したハイパーモダンとそれが産み出すハイパーインダストリアル時代の影響をみるのが、シモンドンというよりかはスティグレールの思想の一つの特徴である。

 勿論、細分化した知の分野には総合への期待がかけられる。スティグレールが例に挙げているのは、「認知」と名のつく科学であり、或いは日本の例でいえば、「総合~学部」や「領域横断~専攻」のような大学の新学部新学科のようなものを思い浮かべていいだろう。しかし、シモンドンの試みに比べて、それら新領域の乱立は大したものではない。「同時代物理学の知見に依拠」しつつ、「哲学」を志向することは決して軽薄なポストモダン的試みではなく、寧ろ産業的分割を受ける以前の哲学の本義に忠実でさえいる。ダイオードの働きが理解できなければ、ヘーゲルなど分かるわけがないと述べていたスティグレール(『遇有からの哲学』)は間違いなくそう考えているだろう。

 最後に、訳文の「(手から頭脳へ移っていった)労働の産業的分割」の処で付された註を紹介しておく。詳しくは解説しないが、知の分裂と産業的分割が同期しつつそれが宗教にまで影響してくるという点とカントの名が登場していることは見逃せない。

「思考の対象の分析的分離は同時に前提条件と「その思考の労働の産業的分割」の余波を伴うこととなるだろう。分離は信仰対象の単位であった〈社会心理の大統合〉への清算を導くはずだ――心的と集団的個体化のそのプロセスの成果と条件として、対象/主体(神)が一神教によって産み出したのは、〈西洋〉と呼ばれる。ところが、この〈社会心理の大統合〉は理論的理性としての認識と、他方で主観的な原理としての実践理性を手にしている。その原理は良いと悪い、善と悪、より良いとより悪い、上位と下位を差異化する。神の死は、ギリシャとヘブライとを引き継ぐ心的と集団的個体化を隠匿する矛盾のメタ安定化としての〈社会心理の大統合〉台頭を伴うのだ。つまり、ギリシャとヘブライの頭脳労働の分割が――産業的分割の文脈のなかで――生じるのだ。ここにあって、シモンドンは限界で行為する。つまり、最も哲学的であろう意味における、批判=臨界critiqueを提示する。カントの航跡のなかで、同時に彼と絶縁しながら」

↓原書はこちらから。
http://www.amazon.fr/Lindividuation-psychique-collective-Information-M%C3%A9tastabilit%C3%A9/dp/2700718909