「まあ、ぼくは放射能が怖くて逃げたわけですけど、それをまったく気にしない人もいるんですよね。見ているものが全然ちがう。日本人は“バラバラ”になっちゃったわけです」



◆ 4月24日の終演後、トークイベントも終わってロビーの壁に貼られていた岡田利規のインタビューをいくつか読んでいると、しばらくして当人が楽屋から現れ、知人らしき人たちと立ち話を始めるのが目に入った。つい先程まで快活にトークをこなし、いまも視線の先でしごく元気そうに喋っているチェルフィッチュの主宰者は、昨年の夏、家族と共に故郷の横浜から熊本へと住居を移したという。「疎開」/「避難」したのだ。

◆ とある記事で、かれは冒頭のような言葉(途中を省略したが大意は同じ)を述べたあと、さらには「正直、東京に来るのも怖い」とまで答えている。

◆ 昨年の春に起きた巨大なカタストロフィによって環境中へ大量に漏れだした核分裂生成物および核分裂性物質…要するに、「放射能」「影響」を恐れて「現在地」から違う「現在地」へと 「避難」する行為には、いくつかの段階がある。国家によって避難を指示された土地を抱える福島県からである場合と、福島以外の東北地方、北海道、首都圏、西日本、九州、そして日本である場合と。

◆ それぞれに、「避難する人」への「しない人」側の視線は変わる。同情や共感、羨望から、嘲笑、憤り、困惑、最後は狂人を見るそれへと、変わる。

◆ 逆に、絶対数の上では圧倒的なマイノリティである、「避難した人々」にとっては、むしろ「しない/できない人々」の方こそが、現実をまるで理解しない呑気な愚か者であり「日常」に囚われて判断を誤っている、あるいは知りつつも決断できない同情すべき存在である。自分たちは洪水に気づいていち早くノアの方舟に乗ったが、信じないもの/逃げ遅れたものは洪水に飲まれて滅びる、そう思っているわけだ。「放射能」という洪水に

◆ 「洪水が来る!」と言って「現在地」を去る層は少ないが、残ってはいても「洪水」の影響を多少なりと信じる人は数多く存在し、「洪水」に無関心だったり、逆に積極的に否定する人たちとのあいだに意識や行動のズレが生じている。特に、「洪水」の影響を否定する人々との対立は、震災から日を追うごとに決定的なものと化しつつある。相互理解は、現在でさえ限りなく不可能な状態だ。

◆ 「放射脳」「ワーワー教」あるいは「エア御用」「安全厨」など、核反応の如くウェブ上を激しく飛び交う言葉が、その有り様を端的に示している。

◆ だが実の所、両者は震災によってすっかり「変化」してしまったという意味においては同一の状態に属していて、両者よりずっとずっと多い「変化しない(無関心)人たち」とは異なっている。

◆ 「変化した」岡田によって書かれたチェルフィッチュの新作である「現在地」は、以上のような、きわめて特殊なカタストロフィが日本にもたらした「変化」「分断」の状況を主題にしている。

◆ 曰く、「『現在地』は変化をめぐる架空の物語です。SFみたいな」


この現実をもっと脅かさないといけないんじゃないか


◆ 「現在地」の物語は、ある架空の村で、「どうやら、なにか巨大な災厄」が起きつつある(らしい)」とされる状況下で展開してゆく。「災厄」「噂」がひそやかに村を駆け巡り、すべて女性で占められた登場人物たちはそれぞれ「噂」に怯えたり、強く否定したり、気にもとめなかったりする、あるいは、「逃げ出そうと」したり、しなかったりして、対立する。何が起きているのか、決定的なことは語られない。村の状況は常に異なる台詞によって相対化され続け、最後まで観者は宙吊りのままだ。

◆ その中で彼女たちの発する台詞は、「放射能」を巡ってウェブに溢れかえる対立状況のディティールを巧みに描出したメタファーと捉えることができる。メタファーではあるが、非常にストレートで、なまなましい。というか、かなり、イタい。この種の「争い」に加担したことがある人ならきっと微妙な顔をするだろう(実のところ、ぼくも微妙な顔で公演を眺めていた)。


「魚が池に浮かんだり、小鳥がさえずらなくなったりしたと言う人がいるし、それを否定する人もいる」

「その噂は根拠のないデタラメだって、大勢の科学者の人が言ってるわ。惑わされてはだめだって」

「そうやって躍起になって否定するのは何故?自分でもどこか信じ切れないものを認めるのが怖いんじゃないの?」

「これから村に悲惨なことが起きると言っている人もいるし、悲惨なことは日曜に起きてもう取り返しがつかないと言っている人もいるし、それが起こったのは日曜でなく土曜だと言っている人もいるし、何一つ起きていないし、これからも起きないと言っている人もいる…」

「村で起きたことをきっかけに、世界が崩壊するかもしれない」

「わたし故郷って聞くと、ナメクジが這ったような気分になる」

「わたし、自分が思ったことを好き勝手言っていいとは、必ずしも思わない」

「村から逃げ出す人は、結局まえからこの村が不満だったのよ」

「日本という国の話をするわ。すごく栄えていたけど、あることをきっかけに内戦みたいになってしまって、滅んだの」

「結局、村は滅んだという人もいるし、何も起きなかったという人もいる」


※ 以上の書き起こしはぼくの記憶によるもので、脚本に書かれた台詞とは異なるものです
 
 

◆ 公演パンフレットの冒頭には、 以下の様な記述がある。 あの日、「現在地」を、そこで物語られる「お話」を、「鏡」だと感じた観客はどれだけいたのだろう? 



「演劇とは鏡です…(略)…自分の姿を見ることに意味があるならば、鏡には意味があります。演劇にも同様に意味があります」
 


◆ そして、岡田はこれまでチェルフィッチュで用いてきた前衛的な手法ではなく、架空の村を舞台にしたSFという「普通のお芝居」を選択した理由として、以下のように答えている。「鏡」 の記述といい、これを読めば、「現在地」にどのような批評性が埋め込まれているかは明白すぎるほど明白だろう。


「フィクションの力を用いてみたい、と考えるようになった」


「フィクションが観客に働きかける効果の度合いが、虚構性が強いほうがより高まるんじゃないか」

「虚構とは、日常や現実を相手取ってそれと緊張関係を作るものです。日常を挑発する感じ。ややもするとけんかを売ってくるような感じ。この現実をもっと脅かさないといけないんじゃないか、と思ったんです。それで今回、フィクションを作ってるんです」
 


「バラバラ」で、「解り合えない」




(放射能へのスタンスが)「同じ木を見て絵を描いたとして、木の描き方がそれぞれ違うというようなレベルじゃなく、まったく違うものを見ているような感じ」


「バラバラなんだけど、それで別に支障はない。バラバラを受け入れて生活していく」

「別の国では当たり前のことだが、言語や人種や宗教の違いを尊重してコミュニケーションするように、これからの日本は放射能への態度が違うことを前提にしたコミュニケーションに変わるのではないか。他人を尊重するようになるのではないか」

「絆という言葉が個人の思考や行動を縛るような意味で使われるのだったら、ぼくはやめた方がいいと思います」 
 

◆ またしてもうろ覚えの記憶で出典元が示せない不誠実さだが、上記の引用は冒頭のものと同じく、会場に貼ってあった雑誌での発言だ。

◆ 震災の後、日本に住む人々が直面した「変化」「分断」の有様を、岡田は複数のインタビューで「バラバラ」と表現している。「放射能」への態度によって、人々が否応なく「バラバラになった」ということ。

◆ かれは「現在地」を制作する以前にも、昨秋に池袋で公演を行った『家電のように解り合えない』のパンフレットに寄せたテキストで、「解り合えない」例として、「いまなら、放射能への態度も人によって違う」という言及をしているが、特定の事象を巡って対立する人々が、その事象に関して「まったく違うものを見ている」ならば、「解り合えない」という「分断/バラバラ」の状況が発生するのは当然のことだ。

◆ とりわけ、「放射能」に関しては(ここまで書いてきた通りに) それがとても極端な形で現れる。低線量の被曝がもたらす影響を巡っての争いも、政治的な理由が大きく関係するとはいえ、似たような統計資料や似たような科学的知見を基にしている学者同士であっても、大幅に異なるリスク評価がなされてしまうことだってある。世間で流通する記号としての「放射能」に至っては、殆んど「言霊(ことだま)」だとか「憑き物落とし」の世界に近い受け止められ方さえ、している。

 「放射能によって日本人のコミュニケーションが変わる」という岡田の発言は、ネガティブな意味で実現する/既に、しているのだ。「バラバラなんだけど、バラバラで支障はない」状態などではない。「バラバラだからこそ、いがみあい、敵対しあい、積極的に排除しあう」そんな、言ってみれば「当たり前」の刺々しい空気が醸成されつつある。「絆」という言葉一つでさえ、まるで「絆」として作用していない。むしろ「バラバラ」を促す地雷になってさえ、いる。当然、「現在地」の存在にだって、同じことが指摘できるだろう。

◆ そんなわけで、ぼくにはフィクションによって「この現実をもっと脅かす」ことの必要性がわからないし、そもそも昨春のカタストロフィ後、ことさら「フィクション」が有効になったという実感もない(むしろ、逆だとさえ感じている)

◆ けれども震災のずっと前から注目していた作家があの体験を経てどのように「変化」したのか、その「現在地」と、いまの自分の「現在地」「解り合えなさ」を強く実感したという意味で、とても印象深い作品だった。


※ 本日から三日ほど福島へ旅行に行くため、次はその更新になる、かもしれません