凡例
一、この翻訳はジルベール・シモンドンGilbert Simondonの『心的と集団的個体化』の新版(L'individuation psychique et collective (Paris, Aubier, 2007))に寄せられたベルナール・スティグレールBernard Stieglerの序文「思考の不安な異邦性とぺネロペーの形而上学」(L'INQUIETANTE ETRANGETE DE LA PENSEE ET LA METAPHYSIQUE DE PENELOPE)の部分訳である。訳題改変と小題は訳者によるものである。
二、シモンドンの『心的と集団的個体化』は今日多く「心的かつ集団的個体化」や「心的・集団的個体化」と訳されるが、今回のスティグレールの文章では「と」(et)が重要な鍵語であり、その意味合いを損なわないよう、この翻訳では例外的に上記のように訳す。
三、本文中の註はすべて割愛した。重要なものは《解説》で触れている。
四、引用文を示すイタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』。強調や引用を示す《》はそのまま用いた。
五、訳の方針は出来る限り読みやすくなるよう心がけた。そのため、一文一文が短くなり、「.」と「。」が正確に対応していない。注意されたし。
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この「と」はゲシュタルト理論la Théorie de la Formeの用語を再使用つつ、それ自体に「場champ」と呼ばれる電磁気物理学の知見を付け加えたシモンドンが切り拓いたものだ。《善と悪》という表現にある、「と」調整の連接conjonction、これは明らかに離接disjonctionでもあり、そして力学の原理にあって取り結ばれる構成的な矛盾の結節点でもある。この離接的な連接は転導的=形質導入的transductive関係を形成する諸項の間にとどまっている――諸項を構成するものこそその関係なのだ。そして、そこにあって一つの項、例えば善は、他の項、例えば悪なしには「存在しない」。
ところで、善のものであり悪のものでもあるような関係(一つの場)はそれ自体、特殊なタイプの転導的な関係に書き込まれている(そしてそれが別の場を切り拓く)。シモンドンはプラトンからとってきた用語でこれを二者関係dyadeと呼んでいる。二者関係は単純な形質導入的関係ではなく、構成するその《諸項》自体が不確定indéfinisな状態におかれ、果てしないinterminables(そして決定不能indéterminablesだ)。諸項は無限infiniをかかえるのだ。
シモンドンは「と」に等しい場が分節化し、そこで善と悪とが区別されつつ構成され、アクチュアライズしないで「と」のなかでしか具体化されない傾向が浸透していくことを提示した。この場こそが、個体を自己形成させse forme、変形させるtransforme。その個体は完全に区別されながらも集団的個体化と連接する心的個体化のプロセスとしてある。そこでは法律におけるのと事実におけるのが重なるようなかたちで心的に自己個体化がなされる。こうして「中央centre」へと生成し、この意味で関係の「中心=環境=中間的な場所milieu」と成る。これは、より正確にいえば離接的な連接としてあるということだ。ジル・ドゥルーズはシモンドンから拝借してきた。シモンドン固有の仕事の最も回帰的な描線の一つがそうであるように、離接的な連接から出発するこのような思考法には、関係の中心=環境における個体化の問題系がいまなお書き込まれ続けている。ここにあっては関係を思考可能にする、末端extrémitésというよりかはむしろ中心からから出発せねばならないのだ。
このような力動的な関係は一つの緊張tensionである。関係は一個体を超え、二者関係の不確定な諸項のように横断していく個体化のプロセスの内部においてでしか緊張しない。そこにあって個体とは個体化の劇場だ。個体がそのような劇場だとすると、実演される戯曲としての個体化は常に既に心的である「と」同時に集団的であるだろう。この個体化というものは、別の言い方をすれば、内部と外部の対立oppositionを止揚する。そしてこの止揚dépassementのなかで、判断の道徳的表現にみられる《善なるもの》や《悪なるもの》(や《悪意のあるもの》)と呼んでいるものに対応する傾向が、その劇場の上で演じられ表現される。心的な個体化による、このような自己個体化する個体の舞台で実演されるものは、集団的個体化に好都合に働くこともあるだろうし、逆に同じ心的な個体化が不都合に働くこともあるだろう。しかし不都合であったような場合は、それは心的な「脱個体化」の状態となる。即ち心的個体化の「喪失」だ。
このようにしてシモンドンは誘惑tentationの問いへの簡潔でありがらも強烈な分析に着手する。すべてが根底から一新されつつも、道徳や形而上学に関する古代の知見庫で眠っていた善と悪の問いに答えようと努めるのだ。これはどうしてその点がソクラテスに任せられたのかという問いでもある。というのも、集団的個体化に不都合だということは、要するに、常に固有の心的個体化に不都合だということだからだ。最終的には、必ず自己そのものの脱個体化に帰結する。
以上のことが、連接的でありがなら同時に離接的な「と」の意味でもあるのだ。善「と」悪の関係だけではない。心的個体化「と」集団的個体化のプロセスにおいてもそうだ。シモンドンはそこで、集団的個体化の最中でなければ心的に自己個体化することができない、ということを提示している――集団的個体化のあらゆる進化が自分の心的個体化の諸条件にはね返って触発する限りにおいて。
このことは既にソクラテスが言っていたことだ。集団的個体化に不都合であるということは、ソクラテスが呼ぶところの不正であるということで、避けられない害悪を自らに招くということだ。これは『ゴルギアス』の主要争点のうちの一つだ。
《解説②》
シモンドン哲学を特徴づける「と」。これをスティグレールは離接的連接だといっている。離接disjonction(選言とも訳される)とは論理学の言葉で、命題を結びつける形式、日常語では「か」や「あるいは」に相当する。これに対して連接conjonction(連言とも訳される)とは「と」や「そして」に相当する。以前みたように、シモンドン哲学の重要性は「かou」ではなく「とet」にあった。しかしシモンドン=スティグレール(以下、SS)にとって〈「か」か「と」〉の選択が重要なのではない。「と」が重要視されるのは、それが「か」の機能を含みもつことができるからであり、即ち〈「か」と「と」〉にこそ「と」特有の力があるのだ。だからそれは、分断しつつ紐帯する「結節点」になる。
「と」は項(例えば善)と項(例えば悪)を関係づける(善と悪)。だから「と」は「場」に等しく、また「環境」に等しい。「環境」を表すフランス語milieuはmi(中間・間)+lieu(場所)に分解でき、間の場所、即ち「中心」とも訳せる言葉であるのに注意していいだろう。
諸項と関係性。しかしながら、こう書いたとき、一見項が既存のものであり、それが関係した後、関係性が生まれてくるように思われるかもしれない。だがSSにとって項は決して既定的なものではない。「と」で形成された関係は別の関係と関係しており、そのバランスの只中に項もまたある。関係同士の相互関係性(「二者関係」)によって、項は極めて不確定で決定不能な存在だ。だから項=終わりtermeは果てがなくinterminable、無限を抱えるのだ。
そこに宿る緊張が「転導的transductive」という耳慣れない関係性を生む。Transductionは主に分子生物学において「形質導入」と訳されて使用され、ある細菌の遺伝形質がウィルスを媒介して別の細菌に移る現象を意味する。SSの使うtransductionはより一般化・比喩化され、「項そのものを構成変異させる関係性」といった意味合いで用いられている。そのため、翻訳ではtrans(横断的)+duction(導く)の意味で転導性・転導的と訳している(ちなみに、既刊のスティグレールの『エピメテウスの過失』(西兼志訳、法政大学出版局、2009)の翻訳では「横断伝導」と訳されている)。
こうして、個体を、所与の既定的な一個体ではなく、個体化(のプロセス)の一フェイズとしてみなすような視点を手に入れられる。転導性は全てを生成の渦のなかに巻き込む。絶対的な外部はない。そこに極めて個人的な心的個体化と国や民族に関わる集団個体化とを同時に論じていくためのヒントが隠されているのだ。
善悪の問題においても、項(善悪)が関係に先行するという視点をシモンドンはとらない。註で触れられていることだが、シモンドンは「誘惑」という現象を、容易に発生する「二重人格」だといっている。例えば、勉強がしたいのにテンションが落ちて気が向かないのでテレビが見たくなる。そこでその人のなかでは頂点の水準と底辺の水準が生まれ、後者に落ちてしまいたくなっている。シモンドンのいう「誘惑」は善と悪が生起してくる関係性なのだ。
この点はスティグレールが子供を相手にした講演の記録『向上心について』(新評論、2009)などが読みやすく参考になるかもしれない。
↓原書はこちらから。
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