開始の合図として書かれるメモ:
「多くの写真は、最上のセザンヌよりも美しい」(『ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』 訳:清水 穣 淡交社)
◆ 「ATLAS」とは、ゼウスに敗れた後に天を支える罰を与えられたギリシア神話の巨人であり、16世紀にメルカトルが表紙として用いて以後は、「地図帳」の別名ともなった。高齢化の進む日本のゲームおたくならば「信じたものだけが世界の真実となっていく」仕組みの、大航海時代を扱ったシミュレーションゲームを思い起こすだろう。
そして、「現代美術」という、西欧世界の奇っ怪な知的営みの最果てに関心がある人たちには、「巨匠」リヒターの風変わりな「代表作」として、あまりに有名だ。
◆ かれ自ら過去数十年に渡って収集、分類した4500枚以上にも上る膨大な作品資料…即ち「写真」を一挙に集め、厳密な形式のもとで展示し作品集としても発売された(現在はウェブサイトでも公開されている)「リヒターのATLAS」は、冒頭に引いた台詞の意味を巨大なスケールで示している。
イメージ、切り取られた世界の断片、見ることのレディ・メイドとして「秩序」を与えられた写真の集積は、意図に満ちた認識の飛躍や主観に基づく解釈(セザンヌ!)より優れるということ。
◆ 2000年代の始め、マニアの為にマニアが作った極めつけにマニアックなアートマガジン「LR」へ掲載された「ATLAS」に関するテキストに、以下のような記述があった。次回以降の更新によって、長い時間をかけて、ここ、この場所、「エン-ソフ/En-Soph」で積み上げられ、不定期にあなたたちの前に公開されてゆくノート、メモ、批評、写真、さまざまな記事や引用のコラージュとスクラップによる錯綜したエントリも、脳みその世界地図、すなわち、「ぼくのATLAS」をゼロ地点から作り上げる試みである。
イメージ、切り取られた世界の断片、見ることのレディ・メイドとして「秩序」を与えられた写真の集積は、意図に満ちた認識の飛躍や主観に基づく解釈(セザンヌ!)より優れるということ。
◆ 2000年代の始め、マニアの為にマニアが作った極めつけにマニアックなアートマガジン「LR」へ掲載された「ATLAS」に関するテキストに、以下のような記述があった。次回以降の更新によって、長い時間をかけて、ここ、この場所、「エン-ソフ/En-Soph」で積み上げられ、不定期にあなたたちの前に公開されてゆくノート、メモ、批評、写真、さまざまな記事や引用のコラージュとスクラップによる錯綜したエントリも、脳みその世界地図、すなわち、「ぼくのATLAS」をゼロ地点から作り上げる試みである。
「…試行錯誤の痕跡と、繰り広げられるイメージの織物をめぐりながら、リヒターという1人の作家の頭の中の展開図を見ているかのような錯覚に陥るかもしれない。しかしだからといっ てこれが彼にしか読めない個人的な地図に終わることは決してなかった」
「彼の【世界地図】を眺めるとき、われわれはそこに自身の「世界地図」を読むことになるのだ」
「ニュークリア・ランドスケープ/日本の、新たな原子力の時代」
◆ 「ぼくの「ATLAS」でなにが対象とされるかは、タイトルの通り、そのまんまだ。
気分としては、いまや散々ネタにされている某サンデル先生の著作名を引っ張ってくるのが適当だと思っている。そう「これから…の話をしよう」という具合だ(あんなに雄弁にはなれないが)。
◆ いま現在の日本では、それらについて発言する場合、立場を選ぶ必要がある。
問答無用で「サイカドウハンターイ!」か「デンリョクブソクガー!」と叫ばなければいけない。あるいは「ゼロベクレル!」だの「100ミリシーベルト!」だの、マアなんだっていいのだけれど、いずれにせよ「どっち」なのか明確に信仰告白をしない限り、即座に足元の床が抜け、いつのまにか首にかかっていた輪っかがキュッと締まることになる。嫌なら、貝のように黙っている必要があるのだ。
◆ 昨年の3月11日を境にして、インターネットを含む日本の社会と生活空間においては 「げんぱ…」とか「ほうしゃ…」とか言った途端、そこがどんな場であろうと、何らかのコンフリクトが発生するような状態に陥っている。地雷があちこちに埋まっていて、踏んでしまうと、被災瓦礫の受け入れに関する住民集会やら、放射能に怯える母親の会合でもない限りは、わりと痛い人という扱いを受けることになる。
かくして各人の苛立ちや不安や興奮は抑圧される傾向になり、ネットに接続した途端、無表情で「安全厨は即死しろ!」とか「放射脳はどこかにまとめて閉じ込めたほうがいい」みたいに突っ走ったツィートをしたあげく、「あんパンから1000ベクレル!」などとRTしてしまうことになる。
◆ スーパーへ買い物に行けば、「安心の放射能不検出」というシールが肉や野菜に貼ってあるし、TSUTAYAではガイガーカウンターを貸し出している。被害の大きい被災地をのぞけば、表面上、震災による都市生活への影響はないのだが、けれども、明らかに何かが一変している。カタストロフィのあとに、新しいシチュエイションが到来しているのだ。
◆ カタストロフィをWikipediaで検索すると、「環境に多大な変化が訪れること。変化に追従できないものは絶滅への道をたどる」と書いてある。巨大な地震と津波、そして原発事故による大規模な核汚染という「多大な変化」が呼び込んだものを「放射能の時代」と表すことも可能だが、それは結局のところ地殻変動のリスクを抱えた状態で事故の収束、そして原子力発電とどう対峙するのかという問題に付随する事柄なのだから、よりふさわしいのは、「新たなる原子力の時代」だと感じられる。
◆ 仮に全ての発電所を閉鎖することが決まっても、これまでに数十兆円単位の投資をしてきた全国の原子炉とプラント設備、行き場を失った大量の核廃棄物と使用済燃料、数万人規模の関連産業従事者の存在は消え失せない。そもそも福島第一原発の廃炉作業は数十年以上に及び、再度の事故リスクは消えないまま、ずっと残り続ける。水素爆発のように天井を吹き飛ばす代替燃料費の高騰とエネルギー不足が解消する特効薬もない。
◆ それは、かつて思い描かれた「夢のエネルギー」とは全く違った意味で「原子力の時代」が到来することを意味する。皮肉なことに、事故によって、それまで斜陽産業として停滞していた原子力は、再び日本社会の中心へと帰還したのだ。
(続)
※ 次回は、現在公演中であるチェルフィッチュの新作【現在地】を取り上げる予定です