太宰治の「女生徒」をたまたま読み返した。
 

 本当は「富獄百景」が読みたくて岩波文庫の『富獄百景/走れメロス』を風呂につかりながら読んでいたら、たまたまそれにぶつかったのである。

 「女生徒」の冒頭の文章はわりに有名だろう。普段文学作品を手に取らない人も知っていたりするのではないか。




 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、少しずつ上澄が出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。朝の私は一ばん醜い。両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。熟睡していないせいかしら。朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶しちゃう。/朝は、意地悪。
 



 「女生徒」はある少女の朝起きてから夜に就寝するまでの一日の生活についての独白、というか「おしゃべり」である。女生徒があれはいい、あれは好き、これはいや、あ、でもやっぱりちょっと好きかも、といった彼女なりの、いってしまえば「思春期特有」と形容されるような未整理の価値観をぺちゃくちゃしゃべっている。

 というわけで、その細部の面白さはさておき、内容は劇的なものではない。十代の悩みは本人にとっては世界を壊しかねないほどの深刻さがあるし聞いているとそれなりに面白いが、他人にしてみれば取るに足らない類いの物である。

 目立って評価されるのは、作家のもとに送られてきた女性読者の日記の文体を借用したと言われているその文体だろう。句読点、体言止め、語尾の工夫などの文章表現法を駆使し、そこには小気味いいリズムがある。自意識の不安定さに合わせて文章はクネクネと抑揚/迂回して、その文体に巻き込まれていくようなドライブ感があり、その心地よさだけで読まされる。この文体こそが作品の「女生徒」っぽさを生み出している(決して「女子高生」や「ギャル」ではなく「女生徒」)。

 やはり太宰治は文章の天才だ。私は風呂の中で思う。

 しかし、今回「女生徒」を改めて読んでいると、そこまで「女生徒」が「女生徒」的ではない気がしてきた。

 
 なんというか、昔、読んでいたときはそうでもなかったが、どうも生硬な感じがするというか、ああ、これは女生徒ではない、おじさんが書いているな。当たり前といえば当たり前なのだが、だんだん、そんな感じが抜けなくなって、仕方ない。
  

 例えば、九十年代の高橋源一郎の作品にしばしば登場したコギャル風文体や、最近の村上春樹の小説に出てくるチャラめの若者の語り口などに感じる生硬さといっていいようなものに似ている(ちなみにここでふたりを批判をしているわけではない。高橋源一郎はそれこそ太宰へのオマージュだし、村上春樹はドストエフスキー的なポリフォニー小説を目指した試みであり、むしろそのような作家の既存の特性を揺らがせる実験に私は好意的です)。


 井伏鱒二の解説をチラ見すると、「女生徒」は昭和15年に書かれている。太宰は昭和28年に38歳で死ぬ。ということは、ちょうど30歳のあたりに書いた作品か。

 おお。アラサーではないか。
 それからは、「女生徒」の影に、「アラサーの太宰」が見え隠れして仕方ない。

 

 現代では「女生徒」は「少女文学/少女小説」といわれるジャンルの代表的な作品だが、私にはその「少女小説」という看板のウラにある「アラサーの悪ふざけ小説=アラサー文学」という下書きがどうにもこうにも強調されてしまうようになった。

 
 そして、面白く、しらじらしく、やりきれず、怖くて、意地悪な朝が極めてアラサー的な朝であるような気がしてくるのだった。これは私の頭がアラサー脳化してどうもアラサーに敏感になっているからだろう。

 
 やはり考えすぎはよくない。

 私はぬるくなった風呂からでた。