凡例


 一、この翻訳はジルベール・シモンドンGilbert Simondonの『心的と集団的個体化』の新版(L'individuation psychique et collective (Paris, Aubier, 2007))に寄せられたベルナール・スティグレールBernard Stieglerの序文「思考の不安な異邦性とぺネロペーの形而上学」(L'INQUIETANTE ETRANGETE DE LA PENSEE ET LA METAPHYSIQUE DE PENELOPE)の部分訳である。訳題改変と小題は訳者によるものである。

 二、シモンドンの『心的と集団的個体化』は今日多く「心的かつ集団的個体化」や「心的・集団的個体化」と訳されるが、今回のスティグレールの文章では「と」(et)が重要な鍵語であり、その意味合いを損なわないよう、この翻訳では例外的に上記のように訳す。
 三、本文中の註はすべて割愛した。重要なものは《解説》で触れている。

 四、引用文を示すイタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』。強調や引用を示す《》はそのまま用いた。
 五、訳の方針は出来る限り読みやすくなるよう心がけた。そのため、一文一文が短くなり、「.」と「。」が正確に対応していない。注意されたし。
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私にジルベール・シモンドンの著作を教えてくれた、フランソワ・ラルエルへ




 ジャン=ジャック・ルソー以降、政治的な論争の中でもっともポピュラーな問いのうちの一つ(それによって伝統的に右派と左派が分かれていた)は、果たして人間というものは生得的にはnaturellement善なのか悪なのか、というものだ。ところで、この問いは哲学的には何の意味ももたない――人間は本質的に善であるとする言葉を社会契約の思想家に割り当てたときにあって、「哲学的であるところのもの」の思想は改悪されてしまう。


 ルソーにあって、もし自然状態の人間が存在していたとしたら、彼が善人であることは間違いない。しかし「そんな人間は存在していない」。その代わりとして、私たちは「人間」を「思考する」ための「フィクション」を必要とする。その上、ルソーは「人間とはプロセスである」ことを暴露した。人は「生成」途中にある。そしてこの生成のさなかにあって、生成を駆動させるものはルソーの仮定したあるモチーフ、即ち「法律droitの均衡維持は諸事実faitsの不均衡を通過する」ということだ。まとまりある法律の維持は諸差異を通過する。彼が主張しているのは相関関係に向う平等な善性をそなえている万人の平等性である。

 それ故に問題となっているのは、有名な『人間不平等起源論』のなかにある、法律における人間、即ち来るべき人間homme à venirなのだ。人間は生成する。そしてこの生成は完璧なメカニズムではない。ここに自由の行使がある――人間が善であったりなかったりするような自由だ。別の言い方をすれば、人間とは善でもなければ悪でもない。何故なら法律にあって人間は善であり、事実にあって人間は悪だからだ。人間は二つの「傾向」の「間」にいる。一方はアクチュアルで現実的なもので、他方は絶対的な過去のフィクションに基礎付けられた来るべき想像的なものだ。これが《自然状態の人間》というものだ。この自然状態にある人間というフィクションは、限度をもたないという本質上、「個体化プロセス」の無限に続く未来に映し出される。無限に、それは自然状態にある人間を定義する平等性や善性のその状態は《きっといままで存在しなかったし、[そしてet]、きっとこれからも存在することがないだろう》ということも意味している。ルソーは地上の楽園が現実化するとも、或いはこれから一度として生じないとも一切主張しなかった。その平等さにあって、《善良な未開人》さえ事実としては悪だった――たとえほんのすこしであれ。


 要するに、果たして人間は善「かou」悪かという問いの提起は、哲学的な問いというものを理解していない。というのも、事実に属するものと法律に属するものを区別する必要性を理解していないからだ。そしてその差異を適切に支える自由というものは、哲学が支えているという限定がついている。哲学の起源そのものにあって、哲学者が提起するのは、人間は善で「もou」なければ悪で「もou」ないという、あらゆる哲学の「基底的なfondatrice」問いのようなものだ。だからこそ、たとえば哲学がその区別を作り出し、そしてそこで形成される関係を「対立なし」で済ませられるかもしれない。善悪の二つは不可約的irréductiblementだ。つまり善「とet」悪なのだ。
 

《解説①》

 ジルベール・シモンドンは1924年に生まれ、1989年に没したフランスの哲学者である。ジョルジュ・カンギレムやモーリス・メルロ=ポンティに学び、独自の「個体化」哲学を構築したが、長い間本国フランスでも忘却された思想家の一人だった。しかし、ジル・ドゥルーズからの高い評価を筆頭に、ブルーノ・ラトゥールやレジス・ドゥヴレなどの思想家によって今日その思想の重要性が見直されている。その研究はまだ端緒についたばかりだ。

 ベルナール・スティグレールもまたシモンドンの影響を多大に受けているフランス思想家の一人だ。1952年生れの彼はジャック・デリダに師事しながら、ハイデガー読解などを通じて独自の技術哲学を構築し、その成果は主著『技術と時間』にまとめている最中の、今最も注目すべきフランスの哲学者だ。そして、彼の著作にシモンドンの名前が記載されていないことは殆どない程に、シモンドンから多くのものを継承している。

 スティグレールはシモンドンの解説のために、先ず人間の善悪の問題について考える。果たして、人間は善なのか悪なのか。性善説か性悪説か。しかしスティグレールがいうにはこの二者択一は哲学の問いとして不適切であり、哲学においては別の形での考察が要求される。


 ここで例に出されるのはジャン=ジャック・ルソーだ。周知のようにルソーとホッブズは「自然状態」(社会や国家の成立以前の人間状態)の捉え方において対照的だ。ホッブズにとって「自然状態」とは戦争状態のことであり、これが前提となって相互の殺戮を抑止する国家(リヴァイアサン)が登場してくる。ホッブズは自然にある人間は互いに殺し合いをするという性悪説をとっている。これとは逆に、ルソーの「自然状態」は不平等なく各人の自由が保持された戦いのない一種の孤独なユートピアとして紹介される。ホッブズに比べて、ルソーは性善説をとっているようにみえる。

 しかし、スティグレールは哲学者ルソーのディテールを考察しようとする。要約すれば、ルソーが発見したのは、法律=権利(であるべし)と事実(である)とに引き裂かれた人間像だ。彼は理想と現実の「間」にある「諸差異を通過」する生成プロセスのなかにある。人間は完全な善人でもなければ完全な悪人でもない。人間は善人になったり悪人になったりする生成の途上に常にある。人間は変化するのだ。善か悪か、ではなく、善と悪へ。そして、「か」(ouor)ではないこの「と」(et=and)の次元がシモンドン哲学の、いやそれ以上に哲学そのものの根幹をなしている。このようにして、スティグレールはシモンドンの魅力を語っていく。

 シモンドンに連続していくようなスティグレールのルソー分析は主著『技術と時間』の第一巻『エピメテウスの過失』でも詳しく論じられている。

↓原書はこちらから。
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