前回
は杉本真維子の第二詩集『袖口の動物』(思潮社、2007)より「他人の手鏡」を集中的に読んだ。阿部嘉昭の「味読」に倣い、一行一行に注意を払いながら過剰な作品分析を試みたつもりだ。しかし最終的に、状況説明のように文脈を補いながら詩作品を読む手法の限界に直面することになった。物的証拠もしくは状況証拠を揃えて類推を働かせ、暗喩の作用を探り、音韻を確認しながら詩作品の「謎」を探る。詩作品の背後に隠れた意味が存在することを前提として、深遠な何かを言い当てようとする。詩を読む動機としてはそれで十分だろうし、痕跡としての「書かれた言葉」から恣意的な解釈を繰り広げる以外に読解の初手はない。だが、まず肝に銘じておくべきは、詩作品の分析者は探偵や精神科医ではないし、「最適解」の解釈に近づくことを目的とすべきでもないということだ。「書かれてないものを書かれてないままに読む」。前回の記事の結論部で仮に提起した課題だが、これを具体的に実践するにはアクロバティックな困難を伴う。「解釈しない」という単なる思考放棄とは違う仕方で、「書かれてないもの」を「書かれてないままに」、いわば空隙を空隙として読む方法を組織することは本当に可能なのだろうか?


詩作品の細部に分け入れば分け入るほど、詩にとって本来もっとも貴重であるはずの非在の領域が退き、行間を埋めようとする饒舌から「詩的なもの」がたちまちすり抜けてゆく。詩を読む上で避けがたいこうした事態への対処法として、一度読んだ(読めたと思い込んでいた)詩のふたたびの読みなおしをしつこく試みたい。空隙を空隙のままに読む具体的な方策にはまだ至らないが、再読によって、詩の解釈を遷移する画像――たとえば雨雲の移動を漸次的に示す天気図のようなもの――として構想できるかもしれないからだ。

前回の分析の反省点のひとつに、一方向的に物事が進行する時計的な時間軸と、詩作品の連から連への移行・展開を素朴に重ね合わせ過ぎたというのがある。そこで「他人の手鏡」が描いている事象上の展開をいま一度確認したい。「その女」が電話をとってかがむ、私の赤鉛筆が落ちる、机の下で「その女」と「わたし」の存在が一瞬だけ擦れ違う。まず疑ってみたいのは、このように一連の事象を散文的に読解することが「正鵠を得ている」と言えるかどうかだ(そもそも「正鵠を得た解釈」などというものをこの詩は要求するのだろうか)。

晦渋な比喩、アレゴリーや普段使わない語彙を駆使し、技巧の限りを尽くした複雑な構造をもつ「難解」な現代詩の数々が他にいくらでもあることを思えば、確かに「他人の手鏡」は比較的読みやすさを確保しており、いくらかの散文的読解をゆるすタイプの詩であるように思える。とはいえ、既に見てきた通り、「その女」が「あなた」へと結実するまでの行の運びにはいくつもの断層がある。「その女」と「あなた」は本当に同定できる対象なのか(「その女」の首から上は途中で別の人間にすげ替えられてはいないか)、「わたし」と「その女」が「机の下」で擦れ違うまでにどれくらいの時間が経過しているのか(現実的にはごく短いかもしれない時間が詩の上ではどのように変位されているのか)、「電話」「手鏡」といった意匠は一方向的に進行する時間軸よりも合わせ鏡のような無間地獄の時空を呼び寄せてはいないか、多孔質的な詩空間には虚空へと通じるいくつもの開口部が穿たれているのではないか――。「書かれた」状況を整序して解釈にカタをつけたつもりでも、二度、三度と繰り返し読めば詩の内部に生じた断層をパテで埋める作業が無駄であると気づく。杉本真維子の詩には(一読してさほど迷いなく「読めた」ように思えるものでさえ)圧倒的な非合理性がある。だからこそ阿部嘉昭は杉本真維子小論「断裂の再編」(*1)で「確定できないものは確定してはならないだろう」と自身を戒めるように留保を置き、瀬尾育生は杉本の第三詩集『裾花』(思潮社、2014)における作品間の構造的連関を、隠喩とも換喩ともつかない「電車的」なる奇妙な比喩でなかば強引に貫通させたのではなかったか(*2)。

散文的読解がもっとも通用しない難所として、前回の分析で言及できなかった一字下げの連を見ていきたい。


 あ、その白い手袋――

 イナイイナイバアと顔を隠した

 両手のすきまから

 夥しい他人がこぼれ落ちていく

(杉本真維子「他人の手鏡」)


「他人の手鏡」は全四連。一連目四行、二連目十行、三連目四行、四連目四行というふうに四行セットの連を基本単位としながら、二連目のみ行数を多く重ねて構成に抑揚をつけている。一行あたりの語数は多くて十五字。全体的に言葉は少なめだ。余剰を裁ち落とし、一語の捕獲に神経を研ぎ澄ませ、語の群れがつくりだす全体の区画をソリッドかつ抑制的に仕上げている印象である。言葉が少ないぶん、頁の余白とのバランスでひとつひとつの文字が相対的に大きく目に入り、平仮名の丸みが身体的な肉感を帯びているのが感じられる。杉本真維子の詩においては文字の視覚性も大事な要素である――しかし、こうした視覚的効果以上に、一字下げの連は「他の連より一字ぶんだけ低い位置に沈められている」という「位相の違い」によって特殊性を際立たせている。つまり一字下げの連は、「机の下」という一段視線が低くなる私秘的にして閉鎖的な空間をその書式自体においてあらわし、形而下的な「わたし」と「その女」の一瞬の交接の場面を形式と内容の二重性において捉えていると考えられるのだ。

一字下げの連はペダンチックな詩作の身ぶりの一切を排した、詩のなかでもっとも「どうぶつ的」なくだりであると仮に定義してみよう。「イナイイナイバア」の声がこの詩のなかで唯一の片仮名表記である理由を理屈抜きに感じたいのなら、自分の人差し指で「イナイイナイバア」の文字を空中に書いてみればいい。右上から左下へ、左上から右下へ。はらう仕草が十字傷にも似たバッテンをいくつも描き、「イナイ(=隠れ、不在、否定)」の結界を虚空で引き裂くさまが指先に伝わるだろう。

「白い手袋」とは何か。文字通り白い手袋を即物的に描写しているのかもしれないし、何かの暗喩として別の物が「白い手袋」に置き換えられているのかもしれない。「確定できないものは確定できないままに」という阿部の教えが頭をよぎるが、ここでは暗喩の作用を愚直に信じ、「白い手袋」が避妊具、両手の隙間から漏れ出す「夥しい他人」が精液であると読んでみたい。「机の下」で擦れ違っているのは「わたし」と「その女」なのだから、女同士の交接というのは奇妙な事態ではあるが、交わらないはずの存在の交わりはこの詩のライトモチーフでもある。形而下的な一字下げの連のなかでは暗喩もまた卑俗化する。そして女から女へと矢印がめぐる出口なしの循環は、電話、手鏡といった詩のなかで重要な小道具とも共鳴して閉域を完成させているのではないか。

横木徳久は杉本の詩で「…のように」「…のような」という直喩が多く使われていると指摘した(*3)。素人的な操作に見えてしまうゆえに直喩の評価は非常に難しいのだが、直喩に限らず、もともと杉本の詩では「ベタ」とも受け取られかねない比喩の思い切った使用が散見される。これをどう捉えればよいのか。たとえば「現代詩手帖」で連載詩「なおさないよエリ」の一篇として発表された「どうぶつビスケット」。全四連のうち二連目と三連目を以下に引用する。


ひつじ、さる、とり、うま、いぬ

ぼく、ぜんら、

五十歳になったから、

どうぶつビスケットを種別ごと並べるんだ、

規則性は安心、

曖昧は、悪なんだよ。

だが、家具のやわらかな返答にビスケットは乱され、

悲鳴をあげ、切符をなげつけて飛び去っていく。

 

あれは、わたしが、嗾けたのだ

その「定型」から、はみだした、

ひとの皮が、黙って、

ぶらさがっているよ。

おお規則的な、

素足は、

だれだ?

目覚めない目が、

てんてんと二つ、

叩いても、蹴っても、

血の振動をまっすぐにのんでたつ

(杉本真維子「どうぶつビスケット」)

 


引用符(括弧)付きで強調された「定型」の語のわざとらしさを避けて通ることが出来ない。この詩の行間から否応なく立ち上がるのは、常動行動に取り憑かれ、自己のなかの絶対的規律に従って「どうぶつビスケット」を並べていくひとりの男の姿だ(おそらくは知的レベルに困難を抱えた発達障碍者ではないか)。引用符は「定型」外の存在を何とか「定型」に押し込めようとする一種の牢獄だ。そして、引用符のあえての使用は、「正常」と「異常」を分ける世間的な規定(ラベリング)の空虚さを白日のもとに晒す行為に等しい。

同時にここでの「定型」には現代詩における「定型詩」の文脈もベタに重ねられているだろう。現代詩の探求に身を投じてきた詩人が「定型」の語に無自覚とは思えない。なにしろ戦後詩は「定型」をいかに壊し乗り越えるかを出発点として始まったのだから。したがって引用符の括弧は「定型」なる語の言祝ぎでも格上げでもないどころか、むしろ「定型」の語を弄するためにわざわざ加えられた攻撃の一手と見るべきだろう。

「どうぶつビスケット」という詩の凄さは「定型」外の存在の肉体と声を分け合う詩の主体の変幻自在ぶりにある。これを踏まえると、「ひつじ、さる、とり、うま、いぬ」という読み上げの一行にも複数の声が重なった呪術的な調子が感じ取れるはずだ(英単語が描かれたロングセラーの人気お菓子のシルエットに加え、入れ替わり立ち替わりやってきて年の周期を告げる十二匹の動物たちの姿もここに召喚される)。どうぶつビスケットは翻訳という変形を被っているのだが、その変形こそがひとつの詩的操作なのである。

「定型」を、ひいては詩のなかに巣食う比喩の働きを括弧ごと内破させること。――無骨なまでの直喩を通じて、言語を外部規定する惰性的な慣習に抗して、あるいは詩語の剥き出しの使用によって。詩語と真っ向から対決する詩人のかまえは、第三詩集『裾花』(思潮社、2014年)収録の「文通」にひとつの到達点を見たのではないか。

 

偏った手紙の出し方が

ポストの口に疎まれ

届くときは、廃棄された後である

だから、手話を習った

空気銃としての、

という比喩で自分を標的にする

 

四角い手のかたちで、一通

人差し指のペン先で、一通

 

空気なら、思いのほか、ぶれない

机にむかい、ときどき押入れの瞳に怯え、

振り返りすぎた

(杉本真維子「文通」)

 


「文通」の書き出しには詩人の詩法が凝縮されている。詩人と詩のなかに登場する主体を同一視するのが素朴に過ぎるとしても、「手紙」や「ポスト」が詩(言葉)の送受信に深く関わるモチーフであることは無視できず、ここではベタとも言える道具立てによって詩作そのものへの言及がなされていると解釈せざるを得ない。「誤配」の概念を持ち出すまでもなく、言葉の宛先が思わぬ場所に届いてしまうのは多くの詩人が体験するところ(ときには歓迎する事態)だろうが、「ポストの口に疎まれ」るほどの「偏った手紙の出し方」は誤配以前の問題である(つまり、ここでの詩の主体は、流通の経路に乗る前段階から忌避されてしまうような呪われた言葉の繰り手である、ということだ)。こうして失敗した詩法にとってかわる新たな詩法が帰結的に導き出されるわけだが(「だから、手話を習った」)、重要なのはそのあとに続く二行、「空気銃としての、/という比喩で自分を標的にする」が前行を修飾・補足するように、というよりも再帰的に「手話」という単語に折り返し働きかけていることだ。「手話」は「空気銃」、そして「比喩」。それが「自分」に向かって放たれる。いわば、誰かに言葉を届かせるためのシグナルが読点と改行による息継ぎ(ブレス)を経て段々と無効化されるのである。発語の手前の緊張感がこの数行にみなぎっている。

実弾の込められていない「空気銃」、しかもそれが「比喩」という実体のない言葉に過ぎないのであれば、それは空っぽに空っぽを重ねるようなものである。さらに、銃口の向けられた先に手応えを得られる他人はいない(詩人は宛先という前方よりも見えない存在の後方からの視線に怯えながら書いている)。言葉は自身に引き受けられ、「手話」の詩性は解体される。詩を書くときはたったひとり、言葉が諸刃の剣であることを重々承知した詩人だけがこのような詩行を書きうる。「文通」のような詩を読むと、杉本真維子が素朴に比喩を信奉するタイプの詩人でないこと、詩を書くという営みの業の深さを底冷えするような暗い場所で見つめていることがまざまざと感じられるだろう。

詩を書く行為に現実のあらゆる諸相を比喩化してしまう残酷で暴力的な側面があるとして、詩人の仕事はその側面を肯定することだろうか、それとも否定することだろうか。ここまで読んできて、杉本が無邪気な肯定で終わる詩人でないことだけは確信できたように思える。詩は、投壜通信のように思いもかけない遠くの場所に届くから、予言的な力をもつから、現実に浸食する力をもつからといった理由で無条件に「詩になる」のではない。そうではなく、詩はみずからの詩性を解体したときに本来の熾烈さをはじめて発揮するのだ。

最後に、杉本のエッセイ集『三日間の石』(響文社、2020)に収録された「花の事故」という珠玉の一篇を紹介しておきたい。詩人がフリージアの花束を貰った帰り道での出来事。強風に煽られた花束が飛ばされて道路に落ち、車に惹かれてぺしゃんこになってしまう。手当をすれば大丈夫かもしれない。急いで家に帰ろうとする道中、知らない女性に話しかけられる経験を多くもつ詩人は、以前、葬式に行こうとする女性に道端でつかまって花屋の話を延々とされたことを何故か思い出す。交通事故に遭った花束を抱え、これから何かをしようとするいまの状態は、あの女性の比喩なのだろうか? そんな考えを抱きながら自宅に戻った詩人はぺしゃんこになった花束の茎を手当して花瓶に移し、はたしてフリージアは見事に蘇生する。詩人と知らない誰かの道は静かに分かたれた。

「誰かの比喩になる生なんてない」。詩人がフリージアから受け取った言葉はおそらく日々の詩作にも反映されているはずである。詩に魅入られ、詩とあそび、なおかつ詩に反逆する詩人こそが、誰にも奪われないただひとりの生の痕跡を紙面に滴らせる。


【註】 

(*1)阿部嘉昭「断裂の再編」(『現代詩手帖』2015年4月号)

(*2)瀬尾育生「電車的」(『現代詩手帖』20157月号)

(*3)横木徳久「キャッツ・アイ 杉本真維子の詩法」(『現代詩手帖』20154月号)