無表情な曇空がどこまでもつづく日曜の午後。15時40分、二階建ての小さな建物を改装したそのギャラリーに辿り着くと、長方形をした小部屋の壁面に「ráɪt」の文字をかたどったネオン管とシンプルな白の掛け時計が設置されていた。
ネオン管はコードでつながれているが灯りが点っておらず、秒針をはずされた掛け時計は少し先の時刻である15時50分を指したまま時が止まっている。照明器具としての機能を停止させた空虚なネオン管と、長針も短針も微動だにせず無用のオブジェと化した時計。1階に設えてあるのはそれぞれ《ráɪt》《15:50》と題されたこれら二つの作品のみで、空間の白さと要素の少なさが静態的な場を演出している。

良知暁の約10年ぶりの個展となる本展は、およそ日本人には聞きなれない不思議な音韻の「シボレート / schibboleth」というタイトルをもつ。「シボレート / schibboleth」、それは旧約聖書の士師記に登場するヘブライ語の単語だ。かつてエフライムとギレアドが抗争を繰り広げた際、殺戮を逃れようとヨルダン川を渡り逃げるエフライム人に対し、ギレアド人は「シボレート」と言うように強要した。エフライム人は「シ(si / schi) 」の音を正しく発音できないため、「シボレート」という単語が敵/味方を識別する合言葉として使われたのだ。
良知はこのような来歴をもつ「シボレート」の語を、つまりは選別と排除の指標であった合言葉を今回の個展タイトルに冠し、自身の制作の問題として引き受けた。というのも以前からこの作家は、ある言葉が分断や差別を生み出す契機になる構造を、遠い旧約聖書の世界だけでなく、自分の居場所からさほど隔たりない過去の政治的出来事のなかにも見いだしていたからだ。
展示に寄せられたステイトメントによると、良知は数年にわたりある一節を持ち歩いていた。おそらくは一息に読み切るのを要求する、早口言葉にも呪文にも似たその一節は、次のように綴られている。

「Write right from the left to the right as you see it spelled here.」

これは、1964年にアメリカ合衆国ルイジアナ州で実施された投票権をめぐるリテラシーテストの一節である。文字通りに読めば、「ここに綴られているように、『right』と左から右に書きなさい」という意味になる。表向きは民主主義の維持という名目のもとで出された設問だが、実際は黒人の有権者登録の阻止が目論まれた選別のためのテストだったという。良知はこの一節を「ひとつの詩」とみなし、発音記号による以下の表記への読み替えを行った。

「raɪt ráɪt frəm ðə left tə ðə raɪt əz juː siː ɪt spelt hɪə.(ライト ライト フロム ザ レフト トゥ ザ ライト アズ ユー シー イット スペルト ヒア)」。

ネオン管がかたどる「ráɪt」の語は、発音記号に変換されたこの文字の連なりから抽出されたものだ。だから、「ráɪt」のもとの語は「right」である。英単語として読むならば「right」の語は「正しい」「正義の」といった意味をもつが、灯りの点らない「ráɪt」の語は、意味と発語の手前に退いてみずからを抑制しているかに見える。言葉に灯りを点さないこと、空気だけが通う管をただ壁に添わせておくこと、つまりは「ひとつの詩」から抽出された語を詩語として発動させないこと。「正しさ」なる概念に格上げされる前に。あるいは、言葉が死線を生じさせないように。ネオン管の作品《ráɪt》は差別と排除の指標となることに対し、消極的な様態をもって抗しているのではないか。抗いが抗いと感じられないほど、それは黙して何も語ろうとしない。

ある合言葉を契機に分断が起こる事例は、ルイジアナ州のリテラシーテストの例に限らず、歴史上のいたるところに見出すことができる。たとえば1923年の日本。関東大震災の直後、窃盗や暴動が相次ぐ大混乱のなかで、朝鮮人に嫌疑をかけた日本人が「15円50銭」の語を相手に発音させる。「ジュウゴエンゴジッセン」がうまく発音できるなら日本人、「チュウコエンコチッセン」と発音するなら朝鮮人。後者は何の咎がなくとも差別感情によって殺害された。ここにも発音を指標とした差別と排除、加害と被害の構図がある。
壺井繁治の詩「十五円五十銭」が伝えるこの凄惨な事件を引き受けて、良知は「15時50分」で時を止めた掛け時計を今回の展示に準備した。金銭の単位を時刻の単位に変換する飛躍にどのような直観がはたらいていたかは知る由もないが、しかし数字のもつ指標性が飛躍を挟んで「時刻」に結実したことはおそらく大きな意味をもつ。
旧約聖書の「シボレート」から戦後アメリカのリテラシーテストを経て1920年代の日本を襲った震災下の虐殺事件へ。差別と排除、加害と被害の歴史が、作品を見ているいまこの時刻へと、ひいては当事者ではないわたしの近傍へと段々と引き寄せられる。だが、当事者ではない者が体験していない差別の歴史に思いをめぐらすとはどういうことなのか。鑑賞者は、1550という数字の並びによって結びつけられた「十五円五十銭」と「15時50分」の「重なり合わなさ」をも感じ取らなければならない。自分ではない他人の経験が我が事のように想像されたとしても、完全なる同化というのはありえないはずなのだから。針の止まった掛け時計は外観としては静態的だが、その背後では二つの単位の「重なり合わなさ」が曖昧な圏域をかたちづくり、微震を刻む。

「詩人はふりをするものだ/そのふりは完璧すぎて/ほんとうに感じている/苦痛のふりまでしてしまう」(フェルナド・ペソア「自己心理記述」)

作品を見ているうちにいつのまにか現実の時間は15時50分を過ぎていた。2階に上がると、奥のテーブルに3つの小さなオブジェが置かれている。時計本体から外された秒針、ほうせんかの種をつめた小さい透明のケース、古びて少しだけ化石のような風合いを帯びた胡桃。右手の壁にはパウル・ツェランの詩「合言葉(シボレート)」を印刷した紙が張られており、左手には今回の個展に関連する書物(ツェラン、ペソア、壺井繁治etc.)が参考資料として集められている。
正直に言えば、ツェランの詩の全文引用を最初見たとき、いくばくかの疑問を感じた。展示のコンセプトからすれば確かに必然性のある引用だが、ネオン管や時計、胡桃などの「もの」に語らせるインスタレーションの繊細な手つきが、本家本元の「詩(=シボレート)」の登場によって過分に修飾されてしまうように思えたのだ。詩が展示の「説明」のために動員されるのであればそれは悪しき事態である。しかも、歴史に刻まれた詩人ツェランの名はあまりにも深遠な固有名としてこの場にそそりたちすぎる。
しかし、と少し立ち止まって思い直してみる。そもそも詩の部分引用には高度な読解力と再布置のセンスが要る。全文引用は詩をいたづらに断片へと粉砕しない配慮であり、詩の「わからなさ」に対する畏れのあらわれとも考えられないだろうか。時計の秒針やケースに封印された種や胡桃が凛とした個物としてその場所に結晶しているのと同様に、ペラ紙に印刷されたツェランの詩は、これ以上は他人が手を挿し入れられないひとつの閉域として差し出されているのかもしれない。詩を、いかなる分断の線も走らせずに、ひとつづきの空間としてそのまま存在させる。積極的というよりは消極的な選択と意志がそこに静かにみなぎって感じられる。

差別する者と差別される者、人の生死を分ける分断線は、今もなおいたるところに走っている。分断線は本展においても象徴的なモチーフとして機能しており、さまざまに読み替えられながら展示空間の各所に布置されている(たとえばネオン管の「ráɪt」の文字にほどこされたアクサンテギュは、分断を生み出すほどの長さを持たない斜線の「ささやかさ」が目を引く)。
ここで、再び掛け時計の作品《15:50》に戻ってみたい。15時50分を指したまま静止した長針・短針は時計の円形をきれいに二分するが、しかしこの長針・短針による分割線は必ずしも「指標」を絶対的なものとして固定する単線ではない。ここには、15時50分は3時50分かもしれないという時間帯の二重性がある。夕刻か明け方か。明るさが暗さへ、あるいは暗さが明るさへ移行するという意味ではどちらも曖昧な時間帯であり、汲み尽くしがたい光の階調変化がそこに集中しているはずなのだ。このとき時差は、当事者と非当事者の経験が重なり合わないこと、私と他者の懸隔の象徴としてあらわれるだろう。
静態の背後に曖昧な圏域と距離を潜在させた《15:50》は、ある任意の分断線の絶対性を言葉なしに問う。分断線が力を行使する構造と、構造を分析するだけではとらえきれない領域を鑑賞者に想像させるのである。差別と排除の合言葉を未然の発音記号に変換した《ráɪt》にせよ、静止した時のなかに幾重の記憶を織り込んだ《15:50》にせよ、そこには消極の末に滲み出る倫理性が見てとれる。もっとも私は、作品が倫理性を宿しているかどうかよりも、言葉やものを扱い展示に落とし込む手つきの「選びとられた消極性」のほうに耳を傾けるべき残響を感じた。
私を読め、正しく発音せよ、さもなければおまえは敵だ……屈従と同化をもとめる言葉が現実の濁流に氾濫するなかで、人はいつしかあいうえおすら言えなくなり、押し黙るほかなくなる。そのような閉鎖的環境に追いやられる可能性はきっと誰にでもある。
だからこそ、灯りを点さぬまま発音記号にとどまる「ráɪt」の語の消極性、曖昧さを含み込んだ掛け時計の静態、希薄さのなかに黙考の手がかりを散りばめた展示空間は、かろうじての言葉を探る探求として信頼に足るものに映った。


(註)本文中の引用は、パウル・ツェランの詩も含め、すべて本展のために制作されたリーフレットによる。


space dike(2020年12月25日~27日、2021年1月8日~11日)