いかにも柔らかく滑らかそうなフカフカのクッション。画面いっぱいに近接した距離で描かれたそれは、視覚の欲望を触覚のそれへと変えてしまう。植物モチーフやストライプの模様が覆う寝具、澄んだ光沢を湛える陶器、部分を拡大して描かれた果実。伊庭靖子はそうした日常の事物を撮影し、写真をもとに写実的な絵画を描くフォトリアリズムの画家だ。入念な手順を経て完成した作品は、事物と眼のあいだを満たす空間と光を精確に写し取り、見ることの官能的な歓びを観賞者にもたらす。
しかし、フォトリアリズムの作家という一面的な理解でのみ伊庭の作品を眺めるのであれば、この画家の視覚的探求の幅広さは見落とされてしまうだろう。注目すべきは技巧の高さ以上に、その視覚的探求の「際限のなさ」である。フォトリアリズムのアプローチは、あくまでこうした探求のための一手段に過ぎない。今年の秋、東京都美術館で開催された個展「伊庭靖子展 まなざしのあわい」は、ステロタイプな作品理解を良い意味で裏切ってくれる好展示だった。
2003年から始まったクッションと寝具をモチーフとしたシリーズが、油絵具の幾重もの塗り重ね(=加法的描法)によって狂いのない色調に到達したものであるとするならば、《Untitled 2012-02》をはじめとする透明なガラス皿のシリーズは、限られた手数(=減法的描写)で光を捉えようとする抑制の美学の結晶である。2004年から始めたシルクスクリーンの最新作も、この作家のあまり知られてない側面を伝える仕事として注目に値する。画面を柔らかく覆うモノクロの粒子は、誰にも属さない非人称の情緒、封印された記憶の気配を潜ませているかのようだ。
とりわけ圧巻だったのは、ギャラリーAの展示室に集められた2016年以降のシリーズだ。《Untitled 2018-02》をはじめとするこのシリーズで、伊庭はアクリルボックス越しに器物を描くという実験を継続して試みている。結果、光と空間の質は決定的に変化した。器物のシルエットは台座や背後にまで投影され、アクリルボックスには周囲の風景が映り込み、器物はいよいよ実体感を失ってゆく。一枚の画面の中で反射する光と透過する光が併存し、多重的なけしきが出現しているのだ。驚くのは、明晰さに近づくほど亡霊的なはかなさを増す映像が、カメラの眼でも人間の眼でもない謎めいた視覚に接近していることだ。
眼は、もしかしたら器物に接近しすぎて全体の像を見失っているのかもしれない。あるいは、透明なものと不透明なものの区別もなく器物やガラスの硬い抵抗をくぐり抜けて、媒質の中に溶け込んでいるのかもしれない。視覚はこの上なく透徹に、存在はより仄暗く。茫洋とした器物の内部には宿主なき視覚が潜り込んでいる。非人間的で非機械的なこれらの絵画は、いわばありえない視覚の集積によって成り立っているのである。もし死者の目で世界を見たらこんな感じだろうか。
視覚/触覚に心地よさをもたらすかのような画面は、じつは「何も見えない」という視覚の不能を積み上げたすえにあらわれた「触れえないけしき」なのかもしれない。伊庭の絵画を見る者は、高いのか低いのかもわからない解像度の揺らぎの中に迷い込み、絵に近づいたり離れたり視角を変えたりといった観賞体験の中で、描かれた器物や風景が不意に明晰な像を結ぶ瞬間を発見する。適切な距離を得て、多重的なけしきが有機的な像を結ぶとき、私たちのもとに現実の手触りが回帰するのだ。
「際限のなさ」の背面には「寄る辺なさ」の感覚が張り付いていた。伊庭靖子の絵画は人間/機械の眼を遊離した非現実的な視覚を直観させる一方で、つめたさとあたたかさを併せもつ存在の温度をも伝えてくれる。