責任、この得体のしれぬもの

私は著者からこの本を献本いただいた者の一人である。

著者の荒木優太は日本文学の研究者だが、大学機関には席を置いていない。過去に日本文学研究の本と、大学とは離れた場所で生きた研究者たち(荒木は愛着を込めて彼らを「在野」と呼ぶ)の業績をまとめた本を出した。また、YouTuberでもある。侮ること勿かれ、この男は「新書よりも論文を読め」といういささか挑発的な題でもって、折々気にかかった論文を動画で紹介している。この動画が面白い。10分に満たない長さで種々雑多な論文を要約して語ってみせるといった試みなのだが、見終えた後には題のとおり新書なんかよりもひとつ論文を読もうか、という気にさせる、そういう男だ。

こんな在野日本文学研究 YouTuber 荒木の新しいこの本は、本人が書名でもそう謳っているように、全体として「責任」という概念を取り扱っている。概念と言うと小難しいけれども、端的に責任そのもの、と言い換えてもいい。だが、この本はどういった類の本かと問われると、手短かに答えることがなかなか難しい本でもある。

責任とは何か。

爾来人々は責任をどういったものと捉え、どのように考えてきたか。そこにどんな問題が潜んでいるか。ではその責任が一体現実には何を引き起こすのか。つまり責任という言葉が。無論、海の向こうにだって責任は存在する。言葉は違うが国も文化も別の場所、別の時代に、いつだってそれは存在した。

そしてこの言葉をいま、我々は至る所で目にする。責任という言葉は踊っている。職場でもテレビでも、ビジネス本でも哲学書でも、商売でも芸術でも政治でも芸能でも教育でも新聞でも友達からでも……当然恋人からも、パートナーからもだ。家族のあいだでだって、この言葉は使う。想像してみるがよい。使わぬ場所などないのだ。それなのに、人によってずいぶんとその思うところが違っているではないか。いや、それだからこそ、と言うべきか。そのことに気がついた時、人は時に対話や議論や討論を始め、果ては争いごとまで引き起こす。なぜだ。この言葉の意味を知らぬ者などいないのに。2つの漢字を組み合わせた、端的に了解できる、ごくごくありふれた簡単な単語だ。それなのになぜ。

そういうわけで著者も書名にこの言葉を入れ込んだというわけだ。逆説的だが。

責任とは何か。

発した人と事柄との距離で濃淡は異なるが、そこに付された意味は一様に重い。必ず自分の意思が問われる。力の強い、聞いた者の耳と目を開かせる言葉だ。異論のある者は少なかろう。それは、「そんなこと、どうだっていい」という反応を持ってしても、直ちにそれが一つの表明になってしまうような、そういう言葉なのだ。どんな言葉にだって、何にだって、誰にでも付けることができてしまうのに、そうなのだ。しかし人はこの言葉を躊躇なく使うし、相手に差し向ける。責任は、確固たるものだ。それは必ず、誰の前にも訪れ、非情な覚悟を要求する。

故に古今東西、この言葉に考えを巡らせた書物は多いし、一人ひとりの著者によってその様相が細かく違っている。同じ言葉からまるで反対の方向を向いた考えが引き出されてくるし、それだけでなく、時にその先で再び出会うこともままある。

責任とは何か。端的に言って、よくわからないのだ。著者にとってもそうだし、読者だって、よくよく考えてみれば、そうなのだ。

ではかつて、人間はこの言葉について何をどう考え、書き記してきたのか、そうして何を引き起こしてきたのか、その先に待っているものは何だったか。荒木はそれを仔細に紐解く。この作業には凄まじい労力を費やさねばならないのは、多言を要すまい。その意味と実態の茫漠とした広がりを感じ取れば、やってみなくても明らかである。

しかしこの本の著者はそれをやるのだ。驚くのは荒木が、実に上に述べたような各人各様の責任のあり方を、都度都度の章立ての範囲に従って実に丹念にその著作群から拾い出している、ということだ。


偉人たちの過去の言説

歴史に名を遺す偉人たちは過去、たとえ直接的にではなくとも色々なやり方でこの言葉を捕まえようとしてきた。だから時代も場所も異なる様々な人物と作品が、この書物には登場するわけだが(ハンナ・アーレント、ジョン・ロールズ、和辻哲郎、平野啓一郎、エマニュエル・レヴィナス、高橋哲哉、『イーリアス』、『何者』、『エンジョイ』……もっともっと他にもあったはずだが、今思いつくままに挙げてみた、この本に登場する著者たちと書物だ)、荒木はこの責任という言葉をめぐって生み出された言葉の相貌を次々にとらまえようとする。

人は社会的な生き物であるから、一人で生きることはできない。だから人と人とが出会うと、その間で自然と意思疎通を図ろうとするのだ。つまりそこに意図がある。コミュニケーションの様相は千差万別だが、それが依って立つものとは一体何だろうか。この本の著者は、その磁場の底の底まで降りていって取り出してきたものを、俎板にあげる。責任とはどうやら、人と人との間に発生するようなのだ。だからこれは責任を生み出す得体の知れぬものを、と言い換えても良い。

本書は大半の分量を使ってこういったことに労力を傾注している。読者は、著者の旅したその道程を追体験しながらひとたびこの言葉について考えてみると、当然目の前には各々まるで違う景色が広がっていることを、自ずと実感することとなる。それは確かに光のプリズムのように明滅し、のみならず、本人たちが同じ角度から同じ距離を取って観察しているつもりのようでいても、十人十色、人によって異なるのだ。なんども言うが、論者によって見解が著しく異なるのも宜なるかななのだ。

ではそんなことをして一体なんの意味があるのか。確かに、過去の文献のおさらいをするのは人文学研究の定石だが、荒木の旅路は様子が違う。わたしは不勉強のため、この本の中に登場する著者の書物をほとんど読んだことがなく、著者が次々と紹介する用語は初めて出会う概念ばかりであった。しかしこの男の筆致はそういった読者こそ我が本を読まれよ、とでも言いたげに風を切るがごとく前へ前へと進んでいく。その筆運びの目まぐるしさよ。だが一方で、同時に寄り道もたくさんする。いやむしろ著者は、この言葉について考える時、日頃目にするごくありふれた光景を我々の念頭に置かせようとしている。それは何か別の出来事が起こると、その前にあった出来事は自然と頭の端から過ぎ去っていき、途端に判然としなくなる。荒木が引き合いに出すのは、決まってそんな出来事である。種々の本を読むがごとく、そういった出来事を引き合いに出すのだ。つまり荒木はふつう想定するような読み手の読書体験を前提としていないのだ。そうせずにこの言葉を語るのだ、という面持ちをしており、ここに著者の意気込みがあるし、また、それがこの書物を俄然現代的にしている。

つまり著者は他人の言葉を引用し、それについて批判し、自分の言葉を紡ぎ、日常に眼くばせしながら、その中で思考を巡らすわけなのだが、批判というのは荒木の一貫性への意志が漲っていることの証左であるし、そのことによって、自分もまた全面的に批判の矢面に立つ、ということの覚悟だのあらわれだ。これは至極真っ当な仕事への態度である。

繰り返すが、このように過去の文言を広く読解する必要に迫られたのだとしたら、それは著者が取りも直さずこの責任というものにカタをつけねばならない、なんとかせねばならない、とそう考えたからである。いや過去の著者たちも、皆そうなのだが、それはわたしの隣で生きる者たちと同じ地平に立って行わねばならない、と思ったからなのだ(荒木はアルバイト労働者だし、大学に籍はない)。上からでも下からでもなく。それが現代の我々にとっての責任、という意味である。著者はそう宣言する。その上で、責任というものについて、自己責任と連帯責任とを同時に唱えようとする者の蠢くすぐとなりで、それが一つの行動となるような、と同時に一貫性を備えた論理であるような答えを出さねばならないのだ、と。

いわば著者は、その布石のようなものをまず序言で遠慮なく語る。旅の始まりとともに、読者はその風景を眺める。そしてそれらが最後の2章でつぶさに展開される。そういう見立てになっているので、著者の言いたいことは序論と最後の2章に概ね集約していると言って良いだろう。

最後の2つの章は「そしてヴェールへ」「楽しいテクスト論」という副題を持っている。これが著者の打ち出した新しい論理である。


仮面を脱ぎ捨てヴェールをつける

人はいつでも仮面を付けている、とむかし書いた人がいた。付けさせられている、付けざるをえない、そう言い換えてもかまわない。荒木もその通りだ、と言う。ここでいう仮面とは、個々別々の人がそれぞれ受け持つ強固な属性のようなものを喩えた言葉だ。そうしてその仮面をつけることで、人は主婦になったり、会社員になったり、先生になったりする。数は少ないが、ある青年は高校球児になり、またある男は戦場記者になる者もいる。そうして人と話し、社会の中にある位置を自ずと獲得して行く。その人もまた別の仮面に相対し、仮面に向かって話しかけ、社会は動いていく。

世間に身を晒す時、仮面は時として自分の身を守ってくれることもある。その目や鼻の位置が容易には変形しない硬い仮面を付けることで、無防備な顔が曝け出されないよう身を守るのだ。

だから人は仮面を進んで付ける。おや?と思うだろう。付けると言ったり付けさせられると言ったり。まるで正反対のように聞こえるが、その実態は、同じことを指しているのだ。仮面と顔は相反し合いながら、互いを求め合わずにはいないのだ。

するとどうだろう。いつの間にかその仮面を付けた自分の顔は知らぬ間に、当の仮面とひっついていき、離れなくなって、果てはどちらが顔かどちらが仮面か、自分でもわからなくなってしまう。仮面は自分の顔なのか。そう錯覚する。それが錯覚だという感覚も消え失せ、その下にあったはずの面影も忘れてしまう。はて、自分の顔はどんなだったか……それがどれだけわからなくなったとしても、だからといって仮面を付けていることに変わりはない。

硬い仮面にあいた二つの目穴から覗いた目の前の景色、その見えにくさだって、いつしか当たり前となる。その瞬間、責任は仮面にへばりつく。眼を凝らせば、仮面には、個人と社会との関係、承認と拒否、匿名と実名、政治の必然性、過去との対峙、歴史への視座、暴力の取り扱い……そういったことがフジツボのごとくへばりついているのだ。

はじめは顔を隠し、身を守ることができていた。しかし仮面は重過ぎる。前も見にくい。だから顔に付けた仮面がまだまだ重たいと思っているうちがチャンスだ、と荒木は言う。その仮面を脱ぎ捨てよ。脱ぎ捨ててどうするか。著者は「ヴェール」という言葉を持ってくる。仮面を脱ぎ捨て、ヴェールを被ろうではないか、というのだ(荒木はこれを軽妙に「面テナンスする」とうそぶく)。正義論を代表するジョン・ロールズという人物から借りてきた用語とのことだ。あまり聞きなれない言葉だが、荒木は「紗」とも言っている。

では人がヴェールで顔を覆った時、そこに何が立ち顕れるか。

ヴェールを被った人も、確かに誰かになる。だがヴェールは仮面よりも薄く、かるい。ヴェールは、一つではない。色も形も異なったいろんなヴェールがある。その厚みもさまざまだ。それらを気の赴くままに幾つでもかぶって見れば良いのだ。そうすると絵の具を混ぜ合わせたみたいに、形も色も変わっていくだろう。いくつか被り合わせたところで、時にどれかのヴェールを一枚、めくってみてもいい。仮面のようなはっきりとした誰の目にも明らかなものではなく、その人が透けて見える気がするけれども、それはその人そのものとは異なっている。

10枚重ね合わせてみても、それは一枚の仮面よりまだかるい。そんな風にして人と人のあいだを渡り歩こうではないか。社会に出てみようではないか。あなたの周りにも、ヴェールをかぶる人がいるのかもしれない。そのヴェールを交換したって良いのだ。ヴェールは顔と一体化しないのだから。

雨が降ればヴェールは濡れるし、風が吹けばめくれ上がる。ヴェールの向こうに見える景色は、霞み、ぼやけ、いつでも部分的である。一方で仮面をつけた当事者は、中立的な立場からものごとをよく見つめている。そう思っている。そんな全体を見渡す一つの仮面当事者が、いくつものヴェールを被った複数の部分的当事者に置き換わる。

人格的同一性や責任をそのようにとらえてみればどうか、というのがここでの荒木の提案だ。考えてみれば、顔にかぶりものをして人前に出るというのはおかしなことだが、人間、それをしない者などいない(本書の中頃で「演劇モデル」という言葉も出てくる)。公共空間ではおろか、日常でさえそうなのだ。その人自身に呼びかけるよりも早く、「君は誰々だ」と叫ぶより前に、それはついてまわる。

仮面やヴェールは確かに比喩だ。一度付けた仮面が、たとえそれが、まるで比喩でなかったかのように顔にへばりついていき、取れなくなっていくとしても。風にそよぐヴェールが陽の光に照らされ、その奥の顔を示唆するに留まるとしても。端的に言って、それらは実体を持たない。逆に社会は厳しく、こちらの方はやはり現実なのであるから、このような発想を容易に許してくれまいし、受け入れてもくれまい。しかし我々は自由なのだ、と荒木は言う。つまりこのような色とりどりのヴェールを思い描いて、それをつけてみる想像をする自由があるではないか、と言うのだ。

荒木が責任をめぐる旅路の中でたどり着いたのは、仮面を付けた公的な人格から「ヴェール」で覆ったオボロゲな顔へ、というものだといえる。その時君は誰だろうか?「誰でも無い(ウーティス)」と答える。


大衆のテクスト論

最後の章はここからだ。

人生は有限である。ある人はある人の人生を生き、また別の人は別の人生を。それらは確かに各々で一つの全体をなすが、同時にまた部分的である。人の数だけ人生は二つ、三つ、四つとどれも無限に異なっており、統合することなど到底できないからだ。歴史はといえばそれらをある一点から見晴かし、そうして一つの大きな全体性と見做すことで普遍性を獲得する。しかしそんな視点はデタラメだ、と荒木は言う。穏便にいって、役に立たない、と。



「人生は具体的なものだ。言い換えれば、個々別々であり、それぞれが容易に一般化できない経験の厚みをそなえている。そういった特異な人生の群れに対して普遍的に妥当しうる正義を構想するには、全知の神の化身のようなモデルに頼るのではなく、非力ゆえに傾き偏る多様な人生の物語をテストする必要がある。神さまの正しさに一直線に従うのではなく、できるだけたくさんのまばらなエピソードを介して普遍性に接近せねばならない」



この、著者の謳う人生指南にも似た正義を実現させるものこそ、物語、つまりテクストの力である。物語によって、人はたとえ一人だけであってもそのようにいくつかの部分性を重ね合わせる体験ができる。その重なりが時に揺らめき、斜めから思わぬ景色が見えてくることは、先ほど述べた通りだ。むしろその斜めから見える景色や音を愛でよう。これが著者のいうヴェールだ。

物語は特に芸術的でなくてもいいし、高尚でなくたって構わない。いやむしろ大衆的であれ、と荒木は挑発する。無数の文脈を高度に紡いで特定の者たちだけが美学的に感受できる物語はたしかに存在する。それは芸術たることの条件になったりもする。そういった審級に呼びかける作品を、荒木は前節の仮面と重ねる。そうではなくて、誰にでも、どこからでも理解でき共感でき、涙できて笑えて怒れる物語を、そしてそのような複数の物語を一人の人間が体験することを、同時のその有限性を、荒木はヴェールに重ね、そしてこちらの方に理があるとする。その部分を、その限界の範囲を重ね合わせることによって、全体性が自ずと志向する普遍性とは異なるもう一つの普遍性へと接近するのだ、と。我が隣人よ!文脈は、歴史の全体性が押し付けてくる正当性だ。それを読み解く必要はない。文脈から文そのものに還ろう。一つの全体から複数の部分へ。専門家にしか見えない無数に絡まりあった文脈の織り物なぞ、見つけ出さなくとも良いのだ。誰にでも読める複数の文そのものへ。これが著者のいう「大衆のテクスト論」である。

「仮面を脱いでヴェールを被り、文脈から文そのものへと還ること」を是とする荒木の意気込み。これは、隣人の作法なのだ。


「美学的な審級」という特権について

もしかするとこの本の産み落としてくれた希望にとっては瑣末なことかもしれないが、最終章「楽しいテクスト論」で異論を唱えたい箇所が一つある。私にとっては重要なことなので、率直な私見を述べておく。

荒木は、文脈は低くて構わないのだ、それを恥じる必要はない、むしろ低い文脈の物語を複数体験すればよいのだ、そうすべきだ、といっている。この章まで読み進めた読者にとって、これには大きな説得力がある。

難解な作品の難解さには、分かる人だけがわかるようになっている幾重もの文脈が張り巡らされている。そのように作品を難解たらしめている源泉(著者はそれを「形式性」と呼ぶ)を堪能できるのは、美学者である。つまりそれは全体を俯瞰できる者の持つ特権的な理解の仕方であり、この特権は、好事家の持つそれよりもはるかに高い次元のものだ、ということを著者は暗に示唆している。

その具体例として映画を例に採り、固有名としてフランス語の映画監督ジャン・リュック・ゴダールの名を荒木は挙げる。

この例えは、適切ではない。

名の通った、ある程度わかりやすい代名詞という理由で著者はゴダールを引き合いに出したのであろうが、この偏屈老人の生み出す革新的な映画は、「美学者好みの非大衆映画」には留まっていない。文脈が高くても、その高さを「美学的な審級において」追体験することができなくても、そして文脈から文そのものへと還った後でも、著者が例えるのと反対に、見る者を惹きつける豊穣な力がある。

映画という表現媒体(表現形式と言い換えてもよい)には、何層もの濃淡があるし、国や言語や世代が違えば文脈の多さや複雑さ、その様は大胆に入れ替わる。他の芸術と同じように。それを「ゴダールのような小難しい映画」といった形で括ることは、意図的であったとしても、やはり安直である。かつて大衆的な娯楽であったのもが今では芸術の椅子に鎮座する現象は、よくある。そこまで微細に話を広げられなかっただけなのかもしれないが、哲学者たちに対する荒木の真摯な読み解きと、ゴダールやベケット(この奇妙な小説家も、荒木はゴダールと同じ位置で引き合いにだしている)に対する態度には大きな隔たりがある。

大正生まれの私の祖母は、在りし日の日本映画をこよなく愛した。それは小津安二郎や成瀬巳喜男の映画であり、山中貞雄や溝口健二の映画だ(溝口はゴダールのとりわけ愛した監督だ)。しかし著者のいう「ゴダール映画の美学的な審級」を祖母が知ることはなかった。だがこの四人の監督については、いずれも洋の東西を問わず「美学的な審級」に呼びかける研究書は多い。一方で彼ら日本映画の黄金時代に活躍した巨匠たちの撮った映画はエンタメか?だとすれば、どこの誰にとって。私の祖母だけにか?

そういう問いは、そもそも意味をなさない(たとえゴダールの映画がこれら日本映画とは異なる特殊な制作過程を経ていたとしても、事態は似たり寄ったりだ、と言いたいのだ)。

ゴダールの撮る映画は確かにそれまでの映画と比較すれば実験的であるし、読解可能な文脈が幾重にも張り巡らされているけれども、それでもその文脈を知らない者にさえ強烈な衝撃を与えることがある。断言する。荒木はそんな人たちのことも「大衆」と呼ぶのだろうか。あるいは「そんなことは起こらない」と反論するだろうか。

その声なき声は例えばこう言うだろう、「意味がよくわからなかった」「でもかっこよかった」「不思議な感じがした」「あれは一体なんだったのか」……と。著者の言に従えば、この声はハッタリか、幻想でも見ていることになるだろうか。確かに、滅多に起こることではない。でも起こる時は起こる。況してや文字で書いた作品よりも、起こる頻度ははるかに高い。たとえその体験が理解の彼方であったとしても、小説や哲学と違って紙に落ちたインクの染みにはならないからだ。

いや、荒木は実は知っているのではないのか?哲学でもそれが起こることを。そして、自分もかつてそれを体験したことがあるのではないのか?

ここにはまた、時間の長さという問題も関わっている。一般的に言って、普段「エンタメ」映画しか見ない人に劇場でゴダールの映画を見させたり、ロックやポップスしか聴かない聴衆をコンサート会場の椅子に座らせてグスタフ・マーラーの交響曲を2時間集中して聞かせることはできない。それは耐え難い退屈を催すだろう。眠気も襲う。それならその睡魔を催す前まで網膜に映っていたスクリーンの映像と音は、コンサートで聴いていた二時間の響きは何もかも全てが退屈な睡眠導入剤として右から左に消え失せたろうか。それは理解の彼方だったろうか?そうとも言えまい。眠くなるのにも色んな事情があるのだ。ひょっとしてそのうちの5分ぐらいなら「美しい旋律だ」と耳を傾けてしまうことがあるのではないのか。2分足らずの劇場予告編や5分の音楽PVなら「すごい」と唸ることがあるのではないか?芸術と大衆をこのように乱暴な二元論に収縮させる態度は、「ハンカチのご用意を」と嘯くしたり顔の興行主の、香具師めいたほくそ笑みのように映る。あいつらは視聴者に信頼を置かない。

確かにゴダールの映画は、特にある時期のものは、「エンタメ」映画としてわかりやすい作品とは絶対に言えないし、本人もそれを強く自覚する発言をたくさん残している(ハリウッドのわかりやすい映画について言及する時、ゴダールは「ストラヴィンスキーやベートーヴェンの音楽は、それを聴く準備のできていない者には聴くことができない」と例えている)。

しかし漱石が強引にエンタメ化できるのなら(荒木は「できる」と言っている。私もそう思う)、ゴダールもできる。現にゴダールの手法は、換骨奪胎されてはいるものの種々の「エンタメ」映像作品に使われている。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのPVにもさよならポニーテールの宣伝動画にも、それは使われているのだ。

著者の責任をめぐるこの社会に対する洞察と、そこに至るまでの広範囲な哲学書の紐解きの緻密さは、過去の偉人たちのお説教に代えて見事な解決を与えている。けれど芸術に対する視座は、それと同程度に注意が払われていない。まるで自分の論に合うところだけを切り取って都合の良い使われ方をしているように、私には映った。これはたった一つの固有名を巡る些末なことかも知れぬが、著者の引き合いの出し方が的を射ていると思えなかったので、ここで強く言及した。

私は著者の言を借りてこう言う。

映画は無私無欲ではない。様々な欲望に点火され満足や挫折を覚え、エゴイズムを発揮して反省し抑制してもなおときに失敗してしまう。それぞれがかけがえのない利害関心を抱えている。映画には紆余曲折しかない。紆余曲折の物語しかない。独自のカーブを描いている。


登った山を降りること:知と教養の山

それからもう一つ、この本の抱える本源的な困難さを指摘しておきたい。

著者は最終的に、半端な知識はつけるな、バカになれ、素朴になれ、と言う。知った風な口を利いて一見マトモに写る一般論を並べ立てたところで、お前の語る文言に実際当てはまるものはどこにもない、単なる一つの説教にさえならない。そうではなくて、それがそのままであるように至らしめよ、そうして歴史の全体性にからめ取られることなく文を、文脈から遠く離れて、複数の文を読み、見、太い縦線でなく斜めの細い線の上を渡り歩けよ、と言う。この複数性を、顔前を覆う何枚ものヴェールと、荒木は読み重ねる。巷に溢れる在り来たりな風景を見つめよ、その声に耳を傾けよ、テレビに溢れる既視感の強い誰にでもわかる物語を、その誰にでもと同じように端的に見よ、発行部数の多い大衆的な小説を、その大衆性のままに感受せよ、何度でもそうせよ、と言う。そうして時間も場所も異なる複数の体験の、その都度ごとに変化したりしなかったりする複数のあり方が、全体の見えない素朴な複数性がそのまた複数集まった時、それは市井の普遍を成すのだ。

ここに辿り着くためには、紆余曲折あった。それを当の荒木本人が案内役として、高すぎる文脈の山に分け入り解きほぐす形で希望を導き出す。「大衆のテクスト論」を実現するには、読者はそうやって案内付きで高い文脈に登頂し、それから改めてぐんと低い山に登頂したり、丘や平地を歩いたりという手順を経ることとなる。

わたしの疑問はここからだ。

そもそもこのような険しい登山に、たとえ案内付きであっても参加することのできる者は、著者が「非大衆的」と見做す高い文脈の頂きから世界を俯瞰する羅針盤を、すでに持ち合わせているのではないのか。だとすれば著者の描く「素朴な複数の物語の重ね合わせ」という着想が理解できるのだって、同様に予め高い文脈の山に登頂済みの者、あるいはこれから登る準備ができている者だけということになる。

その道を通り抜けることができるのは、そのルートを登録済みの者だけだ。ここに荒木の大きな矛盾が横たわっていると言えまいか。

荒木は反論するかもしれない。ヴェールをまとうために、今までこの本に登場した哲学者たちの書物の中身を確かに私は案内した。だが読者は必ずしも読む必要はない、と。「隣人よ、中身をただただ堪能するべし。内容が全てなのだ」。

ではそのような隣人たちは、はたして著者の理論を理解して、それから賛同して、仮面を脱ぎ捨て、ヴェールを被るという手間をとるだろうか。文脈を気にするな、と声高に謳うことが出来てしまっているこの本自体の文脈は、決して低くないのだ。そもそも、中身を中身として理解できること、そうして吟味できることとは、一体どういう事態を指すのか。それは取りも直さず、その人自身の中に一定の文脈が、知ってか知らずか入り込み、血肉化してしまっているということなのだ。内容が全てだとしても、いや全てだとしたら、その時に言う内容とはすなわち文脈の別のつかまえ方だ。内容と文脈とは広く深く関わりあっているのだ。



「人は音そのものを聴いているのではない。音と音との関係性を聴いているのだ」(近藤譲『線の音楽』)。



文字そのものを、文そのものを読んでいるのではない。文と文との関係性を読んでいるのだ。この関係性とは何か。それは、文脈である。既に文脈を読んでしまっているのだ。

荒木は映画を例として出したいのであれば、もっともっと表現技法の極端な例を持ち出すべきだった。例えばスタン・ブラッケージとかマイケル・スノウとか(それだって本当に退屈だ、と言えるのか)。この名前はそのスジでしか通用しない固有名詞だから、「そんな名前は知らない」と言われるのかもしれない。だとしたら著者が説明をすればよいだけのことだ。この本の中に登場するいくつかの小説でそれをやったように。

しかし、ブラッケージやスノウではだめだった。なぜか。素朴な読みを提唱する荒木が、実は複雑な歴史的文脈に精通していることを忘れてはいけない。少なくとも哲学においては本書を読むだけでそれは明らかだし、たとえ「映画については素人だ」と開き直ったとしても、著者はゴダールを愉しむに足る文脈を知るための鍵を手に入れ得る場所に立っている。このように過去の哲学を紐解く書物の読者を挑発する形で本書にゴダールの名前を出すことが、まさにそれを証し立てているのだ。そういう本の作者が「ゴダールのような小難しい映画」と言っているのだということを、念頭に置く必要がある。

私はむしろ、著者の主張とは逆の疑問が思い浮かんだ。ひょっとして、文脈を読み取るよりも文そのものを体験する方が、非大衆的で困難な体験ではないのか、と。

我々はいったん登ってから、降りてこなければいけない。それは簡単なことだろうか。知と教養の山に下山道は用意されているのか。それは登ってみないとわからない。よしんば用意されていたとして、その道を発見することは、頂へと向かう登り道よりも険しいに違いあるまい。一度身に着けた知を脱ぎ捨てるということは、その知をまず会得することよりも困難なはずだ。そうしようとすればするほど、やすやすと実践できることではなくなる。

「そしてヴェールへ」の章で著者が提唱する「角度を変えて読むこと」も、「斜めから読むこと」も、著者が批判する「ゴダールを楽しむ視線」と、かえって相通じあっているように私には思える。そしてこの特権は、著者のいう「中途半端な知識は捨てよ」という中途半端から段階的にたどり着く場所にしかないのだ。

しかし荒木の理論に賛同するなら(私はする)、その道がたとえ茨の道であったとしても、いや、茨の道だからこそ、「ゴダールの映画の美学的審級を理解できる者」は荒木の主張を実践せねばならない。これはおいそれと「大衆的」とは呼べない、極めて意識的な態度である。

自分の知らないことが含まれる分だけ、作品はわかりにくくなる。「エンタメ」から遠く離れる。しかし人生とはそもそも、それまでの自分が知らなかったものではないのか。そしてその連続ではないのか?同じ職業や境遇であっても、毎日同じことの繰り返しであっても、それは決して同じではない、と著者はいう。それはつまり人生が実験的であるということだ。一寸先も予測できないのだから。これを謳歌するということは、「バカになってエンタメを楽しむ」のとは正反対のことではないのか。

著者の論理を本気で徹底すれば、そこに広がる世界はまったく異なるものとなる。そこは、作物としての物語が必要のなくなった世界だ。なぜなら人間がテクストを生み出さなくとも、既に現実の世界にあまた存在しているのだから。それらはたしかに演じたりはしていない。しかし演じなくとも、各々が行動し、発言している。荒木の見識に従うなら、そうあってしかるべきなのだ。

人は自ずとテクストを体験してしまう。くしゃみをするがごとくに。


終わりに:旅に出る

最後まで読んでも、この本はとくに無責任の新しい体系を論じてくれるわけではない。いくつもの実名と匿名とが寄り集まって軽やかに紡ぎ合いながら逍遥していくさまを、「無責任の体系」回避の策として提案するにとどまる。この軽さを著者が全体性に対する部分性と位置づけているのは、ここまで見てきた通りだ。その意味では書名にやや偽りあり、ということになろうか。だからこれは人が「体系」と呼ぶ組織立った相互の関連や働きとは向きが反対である。おそらく意図的にそうなっている。体系的であるということ自体が、過去の責任の言説とつながっているからだ。それを断ち切らねばならないのだ。体系に何度取り込まれても、取り込まれそうになっても、それでも体系の外を志向せねばならない。

荒木がこの本の最後にたどり着いたのは、いうなれば現代の希望的理論である。それは過重な責任の重みに押しつぶされそうになりながら過ぎ行く日々を暮らす市井の人にとって、かくも生きにくいこの世界に対する一つの人生指南となり得るだろう。

上に挙げたハンナ・アーレントも和辻哲郎もエマニュエル・レヴィナスも、確かに皆それぞれ苦労に苦労を重ねて自分の思想の核を作り上げた人である。だが荒木の歩みはそれを上塗りして真似ることはない。あくまで読んで、理解し、先を急ぐ(寄り道もしながら)。そうしてその中に論理の矛盾があれば、取り出し批判する。また何度も読み、時に全く異なる時空に存在する歴史上の著者たちの言葉を巧みにつなぎ合わせる。これは荒木の得意技であり、この男はいつも、本来交わるサダメになかった人や概念に、出会いをもたらす。やや強引にではあるが。時代も国も異なる書物と現実の社会という複雑極まりない関係性の種々のありようの、その奥の奥から、論理の一貫性を構築しようとする手綱を、荒木は緩めない。

一方で人は、見ず知らずの者に自己責任を問い詰め、他方で同じ人が、見ず知らずの者たちに連帯責任を負わせる。そうするのが当然だとばかりに躊躇わず、この言葉を投げつけ、人前を憚らずに義憤の声を上げる。なぜだ。荒木はこの一貫性の無さを嫌悪する。論理の矛盾に眼を閉ざし、一貫性を捨てればそれは「無責任の体系」の思う壺なのだ。



「それは自己責任だ、という言明は、多くの場合、その当の「自己」から発せられるのではなく、見捨てることを正当化しようとする他者から発せられる」



おおよそ人の生きる場所について論じようと思えば、その時にはすぐさま愛や正義といったものが顔を出す。また、不安や裏切りも。そんなことは衆目の知るところだ。愛は正義を乞い求め、愛ゆえに不安になり、そして時に裏切る。これらは一見正反対のようにも見えるが、実は責任のもう一つの顔だ。そしてそのこともまた本当は、市井の者たちは知っているのだ。

荒木は言う。本を読むことは想像の産物だ。たとえ現実世界を変えることはできなくても、物語を変えることはできるのだ。たとえ世界が変わらなくとも、物語は確かに著者の、また読者の体験する一つの世界なのである(荒木は「仮体験」や「シミュレーション」という言葉を使っている)。旅はいつも、自分の知らなかったものに出会って世界が変わっていくように見えるが、そうして結局は自分が変わっていくのだ。見知らぬ世界は自分が出会う前からずっとそこに存在していたというのに。

まるで生きていくとは、人がこのがんじがらめの責任の中で泳ぐ魚である、と著者は言わんばかりではないか。現代、それはどのような世界か。荒木はこの本の構想をずいぶんと以前から温めていたようだが、最終的に背中を押したのは現実に起こった事件だったという(我々も日々うんざりするほどそれらを見聞きしているだろう)。それもあってか、この男の言はとにかく現代的だ。現代にへばりついていると言ってもいい。責任をめぐる荒木の筆の進め具合と文体は、この先どこへ向かうとも知れぬこの不安な世界において、まるでそれが魂の問題であるがごとくに人の心を揺さぶる。

わたしはわたしの実名において。あなたはあなたの実名と匿名において。


*【寄稿者】*
三上良太(作曲家)

作曲を川島素晴氏に師事。2002年、internationale Ferienkurse für Neue Musik Darmstadt Stipendienpreis(2002年)。ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著『ミュージック「現代音楽を作った作曲家たち」』(フィルムアート社)にて編集協力及び訳注執筆(2015年)。『アラザル』誌に「《メタスタシス》前夜:クセナキスの習作時代」掲載、ほか。

*これまでの寄稿*

「『小林多喜二と埴谷雄高』理想人たちの寓話」

『ある在野研究者の冒険譚』



(編集:東間 嶺@Hainu_Vele)