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"Witchenkare" (撮影:東間 嶺、以下すべて同じ)


寄稿---『Witchenkare/ウィッチンケア』vol.10

■ もう発売から一ヶ月くらいが経過していて、だいぶ紹介が遅くなってしまったが(平成に書いた作品なのに、元号も変わってしまった)、今年もインディーの文藝リトルプレスWitchenkare / ウィッチンケア vol.10にごく短い小説を寄稿した。冒頭の写真にもあるとおり、タイトルは『パーフェクト・パーフェクト・パーフェクト・エブリデイ』(以下、『パーフェクト~』)。字数はだいたい4000字といったところ。

■ わたしがウィッチンケアにはじめて寄稿したのは2014年刊行のvol.5で、今回はvol.10だから、もう6回、半数の号へ書かせてもらったことになる。今号はじめ、バックナンバーのオンライン購入は以下からAmazonのリンクをたどってほしい。実書店では本屋 Titleタコシェ本屋 B&B双子のライオン堂などで取り扱っている。いつも通り、わたしの書くものに関心があり、金銭と精神、オカネとココロに余裕のある方には、気が向いたときにでもお買い求め頂ければ幸いです。

■ そして、これまでも発表するごとに作品の梗概を紹介するエントリは書いてきたけれど、10号ということで、当時の記憶を思い出しがてら『パーフェクト~』と同時に、過去の掲載作をざっと振り返ってみようかと思う。


Witchenkare(ウィッチンケア)第5号 Witchenkare(ウィッチンケア)第6号 Witchenkare(ウィッチンケア)第7号 Witchenkare(ウィッチンケア)第8号 ウィッチンケア第9号(Witchenkare vol.9) ウィッチンケア第10号(Witchenkare vol.10)
(上段左から)  Witchenkare(ウィッチンケア) 第5~10号書影


パーフェクト・パーフェクト・パーフェクト・エブリデイ(vol.10、2019年)

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■ 『パーフェクト~』は、インターネットを介して現代社会の生とコミュニケーションを批評的に観察/描写するという、これまでわたしがウィッチンケアで発表してきたいくつかの小説すべてと共通する試みのひとつとして書かれている。今回は、主なモチーフとして、香港在住のドイツ人写真家マイケル・ウルフ Micheal Wolf が東京の通勤ラッシュを切り取った『TOKYO COMPRESSION』シリーズ(世界報道写真コンテスト2010、『Daily Life』カテゴリ、単写真一位)と、YouTube、SHOWROOM等、インターネット配信サイトに実装されたドネーション機能を活用し、いわゆる〈乞食〉行為をしながら生活する配信者(女性)を取り上げた。

■ 『TOKYO COMPRESSION』が、苦悶に悶える乗客の顔へと象徴させた日本社会の奇怪な通勤風景は、単に現象とすれば昨日きょう生まれたわけではないし、首都圏か、それに近い地方大都市圏へ通勤している勤め人なら、「当たり前の苦痛」として受け入れている。そういうあれこれに耐えるのが〈大人/社会人〉だと思っていて、しかたがないことだと、諦めている。

■ けれどもウルフのレンズが捉えた彼彼女たちの表情には、そうした鈍さ、鈍麻の感覚すら根底から揺さぶり、ゆるがせるだけの強烈さがある。力なく目を閉じた人々の、まるで殉教の最中かのような気配は、あれが「当たり前」だと感じるメンタリティがいかに極端な馴致の産物、奴隷的な従順さの証であるのかを、そのほとんどが当事者であろう日本の観者たちに対して、突きつけていた。


■ 何年かまえ、Twitterやまとめサイトで『TOKYO COMPRESSION』が話題になっていたとき、「見世物じゃない」「好きでやってるわけじゃない」「何も知らない欧米人共から小馬鹿にされる謂れはない」などの、殆ど逆上に近い攻撃的な反応がとても多かったことをよく覚えている。

■ すでに回っているシステムの慣性を疑わず、あるいは逆らわず生きている人間たちにとっては、システム自体が疑義の対象とされることはない。だが、その不条理さや暴力性に気付きつつ、仕方がないと諦めている(「当たり前の苦痛」として受け入れている)場合、疑義それ自体が自身への攻撃であるかのように感じられるのだ。

■ 多くの人は、それがいかに苦痛を伴っていたとしても、なにかが決定的な限界をむかえるまで、日常、と呼ばれる繰り返しを正当化しながら生き続けてしまうし、実際、生き続けるしかない。



■ その繰り返しに対して、ウルフと同じような視点、批評性を持つためには、物理的、あるいは精神的にそこから離脱する必要がある。インターネットを介して21世紀初頭の世界へ新たに生まれた〈乞食〉の視線は、良いか悪いかはともかくとして、そのようなものの一つと呼びうるんじゃないだろうか。

■ 賃労働という意味での「働くこと」を放棄し、自身が日々生きる姿を世界に=インターネット上に晒す/垂れ流すことで承認欲求を満たし、金銭を得る〈乞食〉の存在は、大げさを承知で栗原康ふうにいえば、【はたらかないで、たらふく食べたい】(注一)の実践、だとわたしは思っている。

■ ひろゆきが『永井先生』の配信を例示しながら投げ銭/ドネーションの意義を語っていたり、東浩紀が横山緑や野田草履の配信などを指して、「あんな変なもの、まだ他の世界にはないよ。ただ変なおっさんが喋ってるだけなんだよ。なにもせず」(大意)などとニコニコ動画を中心とした一部インターネット配信界隈のカルチャーを持ち上げていたことも、これまた大げさにいえば、「働かない」オルタナティブな生の可能性を模索する思考が前提にある。

■ とはいえ、実際に〈乞食〉たちの生態をみれば、えんえん続く怠惰と驕慢の痴態に加え、閲覧数や投げ銭欲しさの不法行為、反倫理行為のオンパレードであり、免疫がない人にとっては勿論、日々「当たり前の苦痛」を生きる人にとっては、とてもじゃないが馬鹿らしくて正視に耐えない、怒りすら覚えるシロモノだろう。去年、ワイドショーでも取り上げられた、とある有名配信者の引き起こした偽計業務妨害事件なんかは典型的だ。端的にいって、〈醜悪〉の一言である。



■ それでも、上記の配信者にはきょうもリスナーたちから大量のドネーションが投じられていて、かれはそのあたりのサラリーマンをはるかに凌ぐ収入を得ている。


「こいつに限らないけど、動物園の珍しい獣に餌をやってるようなもんだよ」
「せっせと近所の野良猫とか面倒みてる奴と同じメンタル」
「昔と違って、いまは餌を簡単に買える。パンダより人間だよ」


■ いつだったか、配信中に書かれたコメントを読んで、妙に納得したことがある。投げ餌としてのドネーション。物乞いとうよりアウトサイダー、珍獣としての配信者。パンダは、たしかに「はたらかない」で「たらふく食べて」いる。

■ わたしが一番はじめにこの手のインターネット生配信を見かけたのは、黎明期のニコニコ生放送だったかPeerCastを取り上げた民放のニュース番組で、30歳くらいと思しきフリーターを自称する女性の配信者が一人で居酒屋に出向き、かなり大きめのノートブックで配信をしながら食事を摂るシーンの放送だった。

■ いまでは全く珍しいものではなくなった居酒屋配信の一コマなのだが、リスナーたちにむかって、「次、なに頼む~?」だとか「これめっちゃ旨い~」などとつぶやきながら料理を次々に食べ、何杯も酒を飲んでいる自身の姿をオンライン上に晒す彼女の行為は、当時のわたしにとって殆ど理解不能で、わけの分からない、異様なものを観たという印象を強く受けた。

■ その放送枠の中では、また別の日に彼女が公園で弁当を食べながら配信する様子も映されていて、わたしと同様、目の前の光景にどういった積極的な意味があるのか理解できない様子の番組スタッフが、「そんなことして、なにがおもしろいの?」みたいなことを尋ねていた。彼女がなんと応じたかはもう思い出せないのだけれど、彼女がいまも配信をし続けていれば、当時はまだなかった〈餌=ドネーション〉を、たくさんもらっていることだろう。わたしも、いまなら彼女(たち)のやっていることを不思議、だとは思わない。……どころか、実はときおり餌をあげたりすることだってある。

■ 〈乞食〉か〈奴隷〉か。多くの日本人なら、まちがいなく後者をえらぶことだろう。【はたらかないで、たらふく食べたい】なんてもっての他だ。自分は、こんなに「当たり前の苦痛」を我慢しているというのに。そこから自由になる(勝ち組)か、我慢するか。できないなら【死して罪過の汚名を残すこと勿れ】(注二)…ということで日々、首都圏の鉄道では人身事故が起き続けることになる。

■ あなたなら、どちらを選ぶだろうか?わたしの立場にかんしては、この作品を読んでもらえばわかる、と思う。

※ 『パーフェクト~』は対として構想されていて、〈乗客〉の側から画面のむこうの〈乞食〉に投げかけられる視線を扱った『ビューティフル・ビューティフル・ビューティフル・マンデイ』を近々書く予定です。


注一:栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス、2015)より。
注二:『戦陣訓』「本訓 其の二」、「第八 名を惜しむ」より。



《辺境》の記憶(vol.05、2014年)

ウィッチンケアVol.05 自作ページ+多摩美文学ゼミ『≠ストーリーズ』

■ 最初に寄稿させてもらったテキストで、わたしがウィッチンケアに書いたもののなかで唯一、小説ではなくエッセイとなっている。約3500字弱。多摩美の学生だったとき、複数年(2006~2007年度)にわたって在籍していた『文学特殊研究ゼミ』(※)の思い出を、主に視覚表現の修練をする場で、なぜ一部学生たちが言語表現をもこころみようとするのかという点と、そこでの体験は、卒業後、自分がいったん美術表現から遠ざかるきっかけになった、という二点から回想している(当時は、最終号となるゼミ発行の文藝誌へ寄稿する中編小説『≠ストーリーズ』を同時並行的に書いていて、その話にもふれているため、書影も同時に撮影した)。

文中にも引用した青野教授の言が、いま読んでも印象的だ。


【ゼミにはどういうわけでか、文学に親しみをもったことのない人たちがやってくる。文学作品としてのいのちをもった小説をほとんど読んだことがない人たちがくる。それでも小説を書きたいといい、なにを書いていいかわからないけれど、なにか表現したいものはあるという】(「発光」「発酵」多摩美術大学文学特殊研究ゼミ、2010)


■ 一部の美大生たちが〈小説〉にかんしんをむけたのは、自己を表現する欲動のうち、視覚的・造形的手段では困難なものをおさめる〈器〉として、ひとまずそれがもっとも適当だと思えたからだろう。その結果に満足したり、できなかったり、興味が薄れたりして、ほとんどの人は離れていく。とりあえず、わたしはまだ、書いている。



※ 『文学特殊研究』ゼミは、故奥野健男氏が学生運動の余波が残る1970年代に少数の学生たちと集まったゼミを端緒とし、1997年に奥野氏が退官して以後は氏が直々にあとを託した青野聰教授に引き継がれたが、2014年3月の青野教授退官と同時に、40年以上にわたった歴史はいったん幕を閉じた。歴代の在籍者には、『ゆらゆら帝国』を主宰していた坂本慎太郎などがいる。


ウィー・アー・ピーピング(vol.06、2015年)

ウィッチンケアVol.6 自作ページ

■ 約3500字。この号から小説を寄稿している。宇宙空間を飛行する衛星と電子通信網が連動し、地表のすべてが〈監視〉される現在社会のなかで、一般公開されたメディアとプラットフォーム(スマホやクラウド)を介して市民もそれに手を貸し、享楽を得るような世界をささやかに描写してみた。

■ 主なモチーフとして、日本では田中長徳などが紹介し、女性の盗撮ばかりがあふれる奇妙なピンぼけ銀塩写真が一部で知られるようになったチェコのアウトサイダー・アーティスト、ミロスラフ・ティッシーと、Google Street Viewをキャプチャしてつくった2012年の写真集『A New American Picture』が話題になったアメリカの写真家ダグ・リカードを対比的に取り上げた。

■ 登場人物として友人の画家も登場させ、批評と私小説のあわいを目指した、という意味で勝手に〈私評説〉などというネーミングを称した最初の作品でもある。

発表当時の紹介リンク:【寄稿】Witchenkare/ウィッチンケアvol.6『ウィー・アー・ピーピング』


死んでいないわたしは(が)今日も他人(vol.07、2016年)

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■ 約3200字。これを書いたのは2015年後半から2016年の1月にかけてのことだったけれど、2015年は、夏まえごろからRPSという、国内外問わずドキュメント・フォトの展示を幅広く企画するギャラリーのワークショップTHE BACK PAGE REVISITED』に参加していたこともあり、そこで取り組んだプロジェクトの小説化として構想された作品。

■ プロジェクトでは、学生時代に作品を扱ってもらっていた茅場町のギャラリーがオーナーの自殺で閉廊になったという個人的な経験と、自殺大国日本における特殊現象と断じてかまわない〈鉄道自殺=人身事故〉の多発にかんする社会的な感覚の鈍麻を映像資料によって視覚化させ、〈自殺〉という行為についての変則的な考察を試みた。最終的な成果物は箱入りの写真、フォト・オブジェクトとしてまとめ、ワークショップ参加者有志で翌年の『東京アートブック・フェア』や『写真集飲み会』などに出品している。

■ 小説には、そのさいに書かれたステイトメントやテキストを直に取り入れていて、一人称視点の〈わたし〉が自作として言及するという関連性をもたせた。視覚的な要素とテキストとの融合、さらにそこから個別の要素を抽出するという横断的な展開は、今後の作品でも試みていきたいと思っている。

■ この作品はウィッチンケアのnote版に転載され、無料で読むことができる。



生きてるだけのあなたは無理(vol.08、2017年)

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■ 約5000字。7月に起きた『相模原障害者殺傷事件』に対し、現代思想が緊急特集を組んだ10月号へ上野千鶴子が寄稿したエッセイ『障害と高齢の狭間から』を読んだことが、構想する直接のきっかけになった。上野のテキストは引用文として直に作品へも組み込んでいる。以下のようなものだ。


ケアにかかわる講演会で、こんな質問を受けたことがある。健康で溌剌とした高齢者が、大きな声で「八〇歳以上の重度介護を必要とする老人を処分することはできないか」と発言した。その人はたしかに「処分」と言った。限られた国の予算を効率的に配分するためにも、もう死ぬことがわかっている重度要介護者に資源配分するのはムダだ、と。七〇歳代とおぼしいその男性 ―― こういう発言をするのは、決まって男性だ ―― は、自分が八〇代になることも、重度の要介護になることも想像していないのか、と、わたしは彼の顔をまじまじと見つめた


■ 〈健康〉で〈溌剌〉としたオジイチャンが大声で、「高齢の要介護者を〈処分〉できないか」と、大学教授に対して、質問する。その光景のディストピア感というか、筒井康隆がブラックでも諧謔でもなくなる凄まじさは何度読んでも背筋がざわついてしまうのだけれど、すこしネットをサーフィンしてみれば、オジイチャンの発言は、あふれんばかりのムダ=コストにかんする、ごく当たり前のように見かける発言でもある。右をむいても左をむいてもコスト、コスト、上下を見上げ/見下げても、コスト、コスト。とにもかくにもコストコスト。

■ 相模原事件の犯人もコストを理由に一晩で19人も人を殺したし、同じ年に元フジテレビのアナウンサーは、コストを理由に【「自業自得の透析患者を殺せ」】と叫んでいたし、上野千鶴子は上野千鶴子で、コストを理由に【日本は移民を受け入れられない】と新聞のインタビューに答えて爆発炎上していた。もはや、なにもかもがコストを理由にすべきであるかのようだ。

■ あれから二年以上たったけれど、状況は加速している、ように感じる。政権の太鼓持ちみたいな自称ワカモノ社会学者が、「財務省の友だち」の話を落合信彦子息に開陳しつつ、ふたりで「延命治療オワコン」と盛り上がった対談は大炎上したものの、Twitterでは以前に比べてもますます尊厳死…のように見せかけた安楽死の話は肯定的に語られていて、それは透析患者に透析をさせなかった病院を褒め称える声の大きさだったり、難治がんの公表と自らの安楽死を宣言する写真家が大人気だったりすることからも、容易にみてとれる。相模原の事件なんて、「そんなことあったの?」という具合だし、怒り狂う辺見庸の小説も、プロパーから評価はされるものの、マスにはまったく読まれていない。

■ 加速主義者が四の五の言う必要なんて、このあたりのことに関しては、まったく必要ないんじゃないだろうか。これはもちろん、皮肉だけれども。



セイギのセイギのセイギのあなたは(vol.09、2018年)

ウィッチンケアVol.09 自作ページ

■ 約5000字。インターネット上で日々飽きることなく表明されてされてされ続ける憎悪が、なぜ現在ニッポンの市民にあれほど支持されるのか?ということへの考察と、それに対する反撃がリアルな場に持ち込まれる瞬間、みたいなものを複数人の視点で描こうという意図から構想された。具体化させた図式は、排他的な言説が渦巻くネットメディア用の公開生放送が襲撃されるという予告を、予告した当人と受けた側がそれぞれ妄想的な期待と共にその決行を待つ、といったもの。

■ 発表して数ヶ月たった6月の後半、〈はてな〉界隈で有名だったネットウォッチャー/ブロガーが、かれの活動に偏執的な憎悪と恨みをつのらせていたネットユーザーによって刺殺されるという前代未聞の事件が起きた。「芽吹いた憎悪は実際の行動を引き起こす=ムカついたから殺す」という流れは、やはり、というか当然ネットでも起きるという印象をきわめて強く受けた。犯行予告という意味なら、実行に至ったケースである『ネオ麦茶』や『加藤智大』のように先例はいくつもあるが、WEBでの言説を理由に、発言した当人が殺されたのは、おそらく日本では初めてのことだろう。

■ これから先、同じようなことは何度も起きるだろう。国外では、反社会勢力や宗教に対する発言でブロガーやYouTuberが殺される事件なんて、もはや珍しくはないのだから。ネットで安全に他者を批評/批判/攻撃できるという幻想が消え去った世界で、わたしたちは生きている。

■ 余談として。作中には村上龍『共生虫』からの部分的引用を用いている。引きこもり男の抱く奇怪な妄想と、それを暴走させたインターネット(コミュニティ)が絡み合いながら展開する同作は、男の目がとらえた、【吹き出物の群れ】だらけの世界を描写する強力さという点で、膨大な量にのぼる村上作品の中でも一、二を争うほど異様なものだとわたしは思っていて、長年、なにかオマージュ的なものを書きたいと考えていた。本作で、ついにそれを叶えることができた。できの良し悪しはともかく、ココロのつかえが取れたかんじである。


参考文献(Vol.05~09)

愚者の夜 (文春文庫 (299‐1)) 日本文学史―近代から現代へ (中公新書 (212))  HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)   カフカ〈新訳〉: マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

 Doug Rickard: A New American Picture Miroslav Tichy (Fototorst) 屋根裏プラハ

 鉄道人身事故データブック2002-2009 自殺論 (中公文庫)  完全自殺マニア―日本自殺年表人名データベース わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

 相模原障害者殺傷事件 ―優生思想とヘイトクライム― 現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件 (青土社) 現代思想 2017年5月号 特集=障害者 ―思想と実践― 文學界 2019年1月号

 月 ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。 安楽死を遂げるまで 共生虫 (講談社文庫)

 2ch、発言小町、はてな、ヤフトピ ネット釣り師が人々をとりこにする手口はこんなに凄い (アスキー新書) 歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー) 悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書) ヘイト・スピーチ法 研究原論 (ヘイト・スピーチを受けない権利)

 感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか (集英社新書) ネット炎上の研究 日本型ヘイトスピーチとは何か: 社会を破壊するレイシズムの登場 障害者殺しの思想


「生きるに値しない命」とは誰のことか―ナチス安楽死思想の原典を読む 第三帝国と安楽死―生きるに値しない生命の抹殺  ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち チャヴ 弱者を敵視する社会

 エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】 良い死



※ 以下、書影上段左から順にタイトルを並べた。

ミロスラフ・ティッシー Miroslav TichyMiroslav Tichy (Fototorst) [ペーパーバック]
エミール・デュルケム:『自殺論』 (中公文庫) [文庫]