新宿のphotographers’ galleryで大友真志の写真展「Mourai」を見た。2013年から北海道を拠点に活動する写真家の、東京では8年ぶりとなる待望の個展である。
「Mourai」というタイトルは 大友の祖父の生地である石狩市の集落「望来(もうらい)」に由来し、大友は以前から同名シリーズの写真展を継続して行ってきた。被写体となるのは多くの場合、北海道各地の風景や家族である。今回展示されたのはこの「Mourai」シリーズの近作だが、撮影地は望来に限らず、札幌市の精進川、北広島市の音江別川、北海道南部の鵡川と広範に渡っているようだった。
北海道の風景写真――といっても、見渡す限りの雪原や雄大な自然景観といったフォトジェニックなイメージがあらわれるわけではない。そこで写し取られるのは、人間の介入・管理を離れて久しいような荒れ地であったり、新興住宅地のはざまに残された目立たぬ自然であったりする。写真家の眼差しは対象を収奪し占有しようとする欲望とはまったく別種ものであり、いつも少し離れた場所から寂れた土地や物言わぬ自然に向かう。批評家の倉石信乃は会期中に行われた北海道写真をめぐるトークの際、大友の写真を「斜陽の風景」と評したが、その形容はシンプルにして的を得たものと言えるだろう。
展示されたすべての写真にキャプションはない。そのせいもあってか、撮影された風景のひとつひとつが地名を喪失した非人称のけしきに見えてくる。用途を失って放擲された古い仮設小屋、ひとけのない沼地、木立に挟まれた小川。特別さを誇示しない、どちらかと言えば見過ごされがちなありふれた自然が淡々と続く。とはいえ人の暮らしの形跡が完全に回避されているわけではなく、生い茂る樹木の隙間からは比較的新しい居宅の壁面なども覗く。周辺ではまだ人々の営みの時間が持続しているのだ。ほんの少しパースペクティブを変えれば、「斜陽の風景」とは異なる土地像も見えてくるはずである。
声高におのれを主張しない景色。その背後に隠れた本当の脅威に触れるには熟視の時間を経なければならない。密集する枝々、粒立つ砂利石、さざめく水面――、恐るべき解像度で捉えた細部の充溢に気づくとき、穏やかな風景は一転して非人間的なヴィジョンへと結像する。草木や空や川や道が、分け入ることのできないまったくの他者となって冷厳に立ちはだかる。それまで一帯に広がっていた穏やかな気配が嘘のようだ。流れが止まり、「私」が消える。凝固した水面は映像の往来を拒否して何も宿さず、反映のない拡がりとして前面にせり出してくる。
見慣れぬ相貌を纏い出した風景は、いまだかつて誰ひとりとしてこの地に足を踏み入れることはなかった、という倒錯した認識さえももたらすだろう。「遥かむかし」に送り出された光が「いま・ここ」に届いて存在の輪郭を侵食し、人間に眼差される以前の土地の原像が一瞬だけ顕現する。しかし、そのような束の間の直観も、確かな手応えを得られぬままにやがて通過してゆく。凝っていた時間がふたたび動き出す。脅威をなだめる平熱の感覚もまた、これらの写真の見過ごせない特質なのだ。
他方、メインの展示室に隣接する小部屋には、写真家自身のセルフポートレートと家族のポートレートが展示されていた。撮影場所は北広島市にある写真家の実家の一室。初老の母親、父親、そして写真家自身が一人掛けのソファに座してカメラを見つめ返している。そのシチュエーションは以前から繰り返し撮影されてきたもので、「Mourai」シリーズを見続けている鑑賞者にとっては、背後に写り込む板張りの壁も銀色のドアノブもよく見慣れたものだ。室内の到るところに親密さの徴が散在している。
両親が柔らかくリラックスした佇まいで撮影に臨んでいるのに対し、写真家のセルフポートレートを見ると、その表情はやや硬くぎこちない。視線は鋭く見る者を射抜くかのようである。居たたまれなさの感覚が伝染する。その身体は、長時間露光が必要なため不動のポーズを強いられた初期写真のモデルのように、やや不自然なこわばりをもってソファに沈み込んでいる。このぎこちなさ、存在そのものが不可避的に帯びた翳りは、いったい何に起因するのか。
撮る主体から撮られる客体へ。近親者の顔に親密さのその先を探り当てようとする眼から、他者の眼差しを被る受動的な存在へ。写真家は、家族のポートレートを撮るという行為を贖うかのように、今度はおのれの身体をカメラの前に差し出したのではないか。ゆえに、セルフポートレートとは言っても、そこで表象される自己像はナルシシズムとは対極の場所にある。対象を奪い、自身の表現に仕えさせようとする写真的欲望は、おそらくここでも慎重に退けられている。
撮影者/被写体の転換がこのような倫理的態度のもとで注意深く行われるとき、慣れない移行に違和をおぼえた身体は異物化を免れない。硬さやぎこちなさは、いわばこの異物化がもたらした必然の帰結であるように思える。
ポートレート以外でひときわ目を引くのは、同じ部屋に大伸ばしで展示された一枚のプリントだ。前景に群生する野草を、中景に水辺を、そして後景に霧で霞んだ山並みをおさめた風景写真である。画面内に焦点が結ばれるような特異なランドマークはない。結果、前景に拡がる名も知らぬ野草におのずと目は注がれるのだが、薄ピンクの小さな花々のレースのような繊細さはいつまで見ても見尽くすことができず、視線はその野放図な群生の中にまぶされていく。見る者は、前景の草叢――無遠慮な侵入を遮る緩衝帯――を介し、人間の眼と風景のあいだにつねにあって解消しきれない距離そのものを徐々に受け取っていくことになる。
「Mourai」はアイヌ語で「風によって閉じたり・開いたりする事」を意味するという。人間的な営みのサイクルから取り残された風景はいつしか緩慢な死へと向かうものであるかもしれないが、しかしそこには静かな生のエネルギーも漲っていて、馴致とは別の仕方による訪問を待ち望んでいる。
大友真志「Mourai」
photographers’ gallery(2019/03/20 - 2019/04/07)