トッパンホールに足を運ぶのは3回目。彼女のリサイタルでは充実のパンフレット(末尾に掲載した前回公演のレビューを参照のこと)もいつも楽しみにしている。パンフレットの文章は、瀬川さんがリサイタルに賭けるさま、そのドキュメントなんだと思う。もちろん演奏そのものが主で、パンフレットは従だと思うのだが、毎回そこに詰まったエネルギーに唖然とさせられる。演奏曲をみずからの血肉にしようとする、瀬川さんの飽くなき執念!それを感じるから。
プログラムはバッハの『オルガン・コラール』(BWV668)から始まった。「あれ?」と思った。いつもバッハについて熱く語る瀬川さんにしては、そっけないというか、さらっと演奏して終わってしまった(あとで訊ねたら、ピアノのフットペダルの動作に不具合があったそうで納得)。
一度舞台から姿を消して、2曲目はブーレーズの『ピアノソナタ第2番』(1948年)。難曲として名高いこの曲は第1楽章から強靭な嵐のように始まる。スタインウェイD-274から放たれる音の数々がわたしの中を通っていく感覚。その響きは、彼女の圧倒的な技量により、力強く音楽の迫真に満ちていた。ため息さえ許さず、息を殺してそれに居合わせた。ブーレーズに全身全霊で向き合うことで瀬川さんの音楽の柄がより大きく豊かになったことは明白だ!!
パンフレットには次のような引用がある。
「破壊する対象をいつくしみつつ為す、破壊の歴史……」(ブーレーズ著『現代音楽を考える』)。
ぼくが彼女のブーレーズから感じたのはまさにこれだ!解体するにはその対象のすみずみまで知らなければ、解体できない。その意味において、解体は新たな創造なのだ!ブーレーズはベートーヴェン的なるものを解体してこの表現に行き着いたのだ。それは、ハイデガーの〈解体〉(Destruktion)概念がデリダによって〈脱構築〉(Déconstruction)と解釈し直されたことに通じる。
第1部の最後は、ピート=ヤン・ファン・ロッスムの現代曲『amour』。もともとは『半僧坊』(はんそうぼう)と題された彼のアンサンブル作品がピアノのために編曲されたことがパンフレットには簡潔に記されているが、ロッスム氏の描いた瞑想的な〈愛〉が、注意深く選び抜かれた高音と低音によって奏でられていた。彼の音楽は淡く品の良いブルーとピンクの色合いに彩られ、そこには気高さと孤高さもまた兼ね備えられていたように思う。
20分の休憩のあと、後半はストラヴィンスキーのピアノソナタ(1924年)から始まった。第1・3楽章がバッハ、そして第2楽章がうっすらとロマン主義音楽を想起させるこの曲は、最後の一音までずっと良い音がしていて、瀬川さんのピアノ表現が熟している感じがした。すさまじい、怒涛のブーレーズからロッスム氏の曲を経て、彼女も心の中で落ち着きを取り戻したのだと思う。
後半の2曲目は、近藤譲『三冬』(みふゆ)。瀬川さんの近藤先生への委嘱作であるこの曲。そこにあるのは人が生きることの冷たさと痛み=冬。しかし、ぼくの脳裏にはいとけない少女たちが冬の〈庭〉で憂いなく遊んでいる情景が浮かんできた。音楽はふしぎだ。相反するイメージを、同じ空間・時間に同時に存在させることができるのだから…。
そして、プログラム最後の曲はバッハの『パルティータ第6番』(BWV830)。7つの部分で構成されるこの曲はひどく印象的な出だしを持つ。本質的にはやや感傷的で静かな祈りの音楽が、瀬川さんの手によって躍動し、拡張する愛へと変じられてゆく。観衆はみな、彼女の演奏が進むにつれどんどんと劇的になっていくさまを捉えていたと思う。
ぼくは瀬川さんの音楽に触れて3年しか経たないが、彼女がここまで自分の感情的な側面を開け放って演奏するのに立ち会ったのは初めてであり、どっしりとした存在感と卓越したテクニックを持ち味とするいつものピアニズムではなかった。ブーレーズの〈呪縛〉からひととき解き放たれ、リラックスしたのかもしれない。しかしその安堵感は、決して音楽のゆるみではなく、饒舌でも理性をうしなわない崇高さを湛えていた。「バッハって良いなあ…」と心の中でため息をついた。
彼が代表する音楽を指して〈バロック〉といい、これは【「いびつな真珠」を意味するポルトガル語から来た言葉】(近藤譲『ものがたり西洋音楽史』P.93)だが、わたしたちは完璧なフォルムの真珠ではなく、どこかいびつなそれにしばしば心を奪われるのではないだろうか。どんなに端正な音楽であっても、それが人間によって演奏される以上、そこにはいつも感情が宿り、ゆらぎを生む。ゆらぎは、聴衆の心のふるえと共に響き合って、空へと昇っていく。
アンコールは2曲。ブーレーズ、12のノタシオンから第2曲、そしてバッハのコラール『われらの苦しみの極みにあるとき』(BWV432)の弾き歌い。納得の2曲だった。この偉大な二人の作曲家の音楽が、今回の瀬川さんのリサイタル宇宙(彼女の音楽の〈無限〉に広い〈庭〉)の中心にあったからだ。ちなみにBWV432は『オルガン・コラール』(BWV668)のもとになった曲だという。瀬川さんはピアノを弾きながら歌っていた。彼女は存分にピアノという楽器で歌ったあと、みずからの声でも歌いたくなったのだろう。そのことにぼくは心から拍手を贈った。おのれの生命を燃焼させ、それを光に変えて躍動する天体に今年もまためぐり合うことができたことを心から感謝したい。瀬川さんの音楽がまたひとつ大きくグレードアップしたことを確信しながらこのレビューを閉じたいと思う。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
ちなみに瀬川さんはYouTubeにチャンネルがあり、質の高い演奏動画をアップされているので、これを読んで関心を惹かれたかたは、ぜひアクセスしてみてください。そうするときっと彼女のリサイタルに足を運びたくなると思います!
参考:さえきかずひこ『大樹の音楽 ~瀬川裕美子 ピアノリサイタルvol.6 ドゥルカマラ島~時間の泡は如何に?d→d』