箕輪亜希子『Picking stones』
撮影:東間 嶺 @Hainu_Vele(以下すべて同じ)


能動的active/受動的passiveな「私」

作家がある対象を作品の素材として選ぶとき、そこではどのようなメカニズムが働いているのだろうか。素材にまつわる情報を熟知して制作主体の「私」の管理下に置きたいという欲望か。それとも作家は何かの声に導かれて素材に「出会わされている」に過ぎないのだろうか。

2018年春、自由が丘のgallery21yo-jで箕輪亜希子の個展「Picking stones」が開催された。本展で主役となる素材は、箕輪が各地で拾ってきた「石」である。まず、ギャラリーの床に大小さまざまな複数個の石がランダムな配置で置かれている。個々の石の傍らにはマジック書きのテキストが添えられており、壁面には石を拾った現地(川辺や道路脇)の写真が立て掛けられている。もともとは彫刻科出身でありながら立体に留まらず映像作品など多様なメディアによる作品を手掛けてきた箕輪だが、今回の〈もの‐テキスト‐イメージ〉によって構成される展示は、石という素材に触発されてつくり出されたインスタレーションと呼んでひとまずは差し支えないだろう。

インスタレーションのなかでも大きな役割を占めているのはテキストである。試みに石に添えられたテキストのいくつかを抜粋しよう。


「あちらこちらへと私は動かされ、その度に、ふらふらよろよろと動いてしまい、自分でそれを止めることが出来ないでいる。私の中はひびだらけで、もうあと何度目かの目眩でいくつかの新しい自分になる。」

「近頃は、穏やかな日が続いている。相変わらず一定の方向に引き寄せられているけれど、身体は軽く、周りに迷惑をかけるような情熱は、今は無い。しかし、あなたの動揺は、まだ強く私を揺さぶるし、ひきつけもする。」

「押さえつけていたものが今やすっかり無くなり、いつでもどこかへ行くことが出来る。でも私はここにいて、何かが起こることをずっと待っている。」


ひとつの石にひとつのテキストが対応しているのだが、全てのテキストには一貫した微熱的なトーンがある。「私」は何かの力に転がされて思う通りに動くことが出来ない。「あなた」に向けられていた情熱もかつてとは姿を変えてしまった。通底する無力感と余滴として残る「新しい私」への期待。受け身ながらに何かを待ち続ける微かな意志。これらのテキストは、石という自然物がもつ本来的な性格を思い起こさせる。石は自力で移動することはないが、たとえば河川の石であれば、水の流れによって少しずつ別の場所に運ばれるという潜在的・受動的な移動可能性をもつ。

箕輪亜希子『Picking stones』

素朴な疑問が湧く。主語である「私」とは誰のことを指すのか。「石」なのか、それとも「作家」か。作家は東京だけでなく仙台などの遠方からも石を拾ってきているようだが、それは必ずしも作家の能動性(すなわちactiveであること)を証明するわけではないだろう。各地を移動して石を拾う「作家」と自力では動けない「石」は、アクティビティの有無において対照的な関係を結んでいるように思えるのだが、おそらくそれは表面上の対比に過ぎない。実は作家の方こそが、「私」=「石」に突き動かされて「石」を拾う受動的な存在であるかもしれないのだ。

冒頭の問いに仮の答えを出してみよう。作家は素材を絶対的にコントロールする統括者ではないし、外界の声をその身に引き受ける媒介者でもない。〈作家/石〉という二者関係は、能動的activeにして受動的passiveという相反する資質が混淆する存在様態においてこそ切り結ばれている。ある石を他の石とは異なる何かとして選別するとき、そこには確かに「選択」という能動的な意志が働いているのだが、能動態で記述されるような事態はここでは受動態に置き換えることも可能である。作家は石との出会いを身体に「引き受ける」。あるいは、石との出会いを受動的に「被る」。その後、石との関係を捉えなおす熟慮の時間を経て、「私」という仮の一人称からテキストが紡がれる。ここでの「私」という一人称は、〈作家/石〉のどちらの極にも主体を背負わせない曖昧な状態で起動させられているように思える。


「物語」の流域

展示を構成する要素を再点検しておこう。〈もの‐テキスト‐イメージ〉の系列が織り成すのは、どことなく恋愛的なシチュエーションを仄めかす「物語未満の物語」である。

石が在ったもともとの場所の情報は写真=「イメージ」によって代理され、本来的な場所から切断されて展示空間に移動させられた石=「もの」は、言葉=「テキスト」によっておのれの履歴をフィクション化する。テキスト、イメージ、ものはそれぞれのメディアの限界を補うようにして響き合い、表象の世界を押し拡げてゆくだろう。この連関から鑑賞者が「物語」らしきものを読み取るのは確かに難しいことではない。ただし、「物語」がその権能を及ぼす圏域は極めて脆弱だ。

理由は2つある。まず、「私」という一人称の素性自体が〈作家/石〉のどちらの極にも振り切れず曖昧なまま留められていること。それから、テキストの断章的なあらわれが、「物語」と呼ぶにはあまりにも叙述的な流れを欠いていること。つまり、〈もの‐テキスト‐イメージ〉は、少しのバランスの変化で「物語」を断片へと解体してしまいそうな危うい結びつきによって空間に分布されているのである。

空間を占有する「単一的な物語」はここにはないが、代わりに、いくつもの「物語未満の物語」が微弱な磁力を奔らせて流域を形成する。ここにおいては、作家自身ですら、「物語」を思うがままにコントロールする特権的立ち位置につくことは出来ない。同時に、石という「素材」やそこから紡がれる「物語」を自分で完全にコントロールできないという無力さは、「いつでもどこかへ行くことが出来る」「いくつかの新しい自分になる」といった、テキストにおける変転への予感にも連なっている。自力で動けない「私」は時間の経過と共に、あるいは根付いていた「場」から別の「場」(たとえば展示空間)に移管されることによって、これまでとは異なる「私」へと変転する可能性をはらむ(しかもその「私」は、複数の「私」へと分流していくものであるかもしれない!)。作家の仕事は、おそらくは「私」の変転可能性を繊細な手つきで維持することにこそ賭けられているのではないか。

箕輪は拾ってきた石を素材とする動機について以下のように語る。


「ここにあって手にできる大きさであるけれど、そこには手に出来ない何かが多くあって、距離が掴めないようなところが気になる理由であるように思う。」

(gallery21yo-j ウェブサイトに掲載された作家コメントより)


作家は未知の素材として石と出会い、「距離の掴めなさ」において逆説的にも対象との関係を確保する。コメントの中で二度使われる「手」という言葉にも留意すべきだろう。「手にできる大きさ」だが「手に出来ない」という矛盾した感覚の同居は、おそらくはこの作家の能動的activeにして受動的passiveな資質を端的に物語っている。そしてこの相反しながら同居する作家の資質は、「手」にあらわれるような身体感覚によって基礎づけられているように思える。ゆえに、書かれる文字もまた、「手」書きであることに必然性をもっているはずだ。

「手にできる/できない」――異なるフェーズの可能態が裂開を抱えたまま主体の実感のなかで併存し、素材との距離を決定してゆく。


別の「私」の目線から

「Picking stones」のインスタレーションの特異性は展示の形態にもあらわれている。まず、床に置かれた石と床面に書かれたテキストが観賞者の目を足元に引きつけること。そして、写真の位置がかなり低めに設定されていること。写真は壁面に張り巡らした木材に立て掛けるかたちで展示されているのだが、この木材が壁面につくり出すラインはいわば仮想的な「水位」でもあって、展示空間を見えない水が満たしているような想像を訪れた者に抱かせる。

低い視点に「磁場」を形成する展示空間のなかで、観賞者は複数のテキストの隙間を縫うようにしてギャラリー空間を回遊することになる。導線らしい導線はない。「物語未満の物語」は流動的に体験される。このような空間にあっては、観賞者もまた「物語」と「物語」の隙間を満たす媒質と化すのだ。ぐるりを囲む写真を眺め、個々の石の形状や質感を観察し、丁寧な楷書体で一字一字を書かれたテキストを読む。時計で管理される日常の尺度とは異なる、緩慢な時間が室内に流れはじめる。

流動的で定位されない「私」は石や作家であるとは限らない。今の「私」とは異なる新しい「私」への変転可能性は、この展示を体験した一人ひとりの観賞体験のなかにも胚胎されているはずだ。

箕輪亜希子『Picking stones』


gallery21yo-j(2018年3月22日~4月8日)

※本稿は、2018年12月に筆者ウェブサイトで発表した文章に加筆修正を加えて転載したものである。


(編/構/校:東間 嶺)