ぼくはオブジェになりたい

 物心ついた頃からだろうか、私は「この私」が「この私」であることが不思議で仕方なかった。言い換えれば、「この現実」が「この現実」でしかないこと、眼前に広がる光景がそれ自体でしかないことに、何とも言い難い違和を抱いていた。それでも、その違和感はいずれ成長して大人になれば変化するのだろうという漠然とした期待も持ち合わせていた。

 大人になった今、当時の淡い期待の感覚を思い出すと、思わず失笑してしまいそうになる。なぜなら、大人としての私は、いまだに当時の違和感に苛まれているからである。それどころか、薄っすらと予感していた「この私」が「この私」でしかありえないという事実が明確になった今、私はもはや帰る場所を持たない異邦人のような心持ちで「この現実」を生きる他ないことに、マゾヒズム的に耐えている次第だ。

 おそろしく現実感覚に欠けていた私が「この現実」を生きること以外に選択肢はないのだと悟ったのは、人間が自然と分離し、あの忌まわしき「自意識」という、自分自身には制御不可能な、まるでファルスとでも形容したくなるような厄介物を手に入れてしまう時期、すなわち、性的に、文字通りファルスの勃起に芽生える思春期であったと思う。

 私には、私が自然と分かれていく過程の記憶、つまり、まだそれとは知らずに、ふいに、自身の「自意識」に気づいてしまった瞬間、またはその原風景とでも呼ぶべき光景がある。

 それは、まだ幼さが残っており、それでも性という得体の知れない感覚を自覚し始めていた頃、道端ですれ違う同齢の少女たちと恐る恐る視線を交わし合った記憶である。私はなぜ少女たちが私に視線を浴びせるのかということが不思議だった。そして、私がなぜ少女たちの視線に反応して、私のまなざしを向け返すのかということも同様に奇妙に思えていた。要するに、客体として、少女たちに視線を向けられたときの、私自身の「自意識」が不思議だったのだ。おまけに、私は少女たちの視線を浴びて、度々、勃起すらしていた。もちろん、これはマゾヒズムの芽生えである。つまり、私は幼少期から大人へとファルスが隆起するように、成長という「変態」を経てみると、何のことはない、本物の変態だったのである。これについては、後ほど振り返ることになるだろう。

 ところで、私は幼少期から、私ではない他人になった自分を空想するのが好きだった。いや、もっとはっきりと言い切ってしまおう。私は私ではない他人になっていた。それは、あるときには、憧れのロック・スターであり、またあるときには憧れの野球選手だった。おそらく、多くの人々はそれをナルシシズムだと揶揄し、嘲笑するだろう。それは仕方のないことだ。上述したように、ナルシシズムのほとんどは他人になった自分を空想して悦に浸る行為であるからだ。要するに、自己愛を伴った物真似である。そんなナルシシズムは私ですら嘲笑したくなる。しかしながら、ナルシシズムはあまりにも誤解されているとも思う。単に自己陶酔するのではなく、憧れの対象になってしまっている状態の自分、つまり、「自意識」の介在する余地すらない、「変態」してしまっている状態の自分。これこそが真のナルシシズムである。しかし、真のナルシシズムは永遠には続かない。人間は、ふと、気づいてしまうものだからだ。それでも、無自覚、無意識下において憧れの対象になってしまっている間の、あの恍惚。それこそが、ナルシシズムの美学なのであり、物真似の嘲笑さえ介入できない、一瞬の、刹那的な、真のナルシシズムの美学なのだ。

 青年期頃になると、私は、度々、意中の女性に「変態」したものだ。つまり、私は意中の女性になってしまっていた。そして、性欲だけは旺盛であるにも関わらず、その性欲を持て余す青年時期によくあるように、私もまた孤独で性的な自己愛に耽った。しかし、私の性的な自己愛は他の青年たちとは少々違っていたかもしれない。私の性的欲求は、恋愛対象としての女性になってしまった私自身に向けられていたからだ。つまり、ここでも「変態」を経た結果としての、私の変態が露呈されるわけだ。言うまでもなく、それは閉じられた独我論的な倒錯的変態である。

 いつまでも私の変態を披瀝しても仕方がないから、この辺りでやめておくが、私が最も憧れた性的対象は両性具有である。しかし、現実的には両性具有はありえない。ゆえに、私の煩悶は気狂い地味たものだったのである。

 そして、ここで先述した少女たちの私への視線に立ち帰る。三島由紀夫は『ぼくはオブジェになりたい』という短いエッセイの中で、映画俳優のオブジェ性に触れながらこう書いている。


ぼくはなるたけオブジェとして扱われる方が面白い。これは普通の言葉でいえば、柄とか、キャラクターとかで扱われることで、つまりモノとして扱われ、モノの味、モノの魅力が出てくれたら成功だと思う。



 三島由紀夫のこの願望は、視線を受ける客体の悦び、つまり、性的な意味で、マゾヒズム的快楽を言い表している。誤解を避けるために言っておくが、私はなにも三島由紀夫を自分に重ねているわけではない。しかしながら、三島由紀夫は、嘗て、私が体験した、客体として少女たちの視線を浴びながら、性的に興奮して勃起するというマゾヒズム的な変態を、当然ながらに知っていたに違いない。変態でない人間が『ぼくはオブジェになりたい』などと言うだろうか。

 ここまで何の脈絡もなく「私の性的遍歴」を綴ってきたが、最後にもう一言だけ付け加えておきたい。巷に溢れる個性と呼ばれるものは、真の個性ではなく、ただの差別化だ。真の個性とは、真のナルシシズムの徹底にこそある。なぜなら、どのように「変態」を経ても、結局のところ、「この私」は他人にはなれないのだから。ちょうど、「この現実」が「この現実」でしかありえないのと同じように。