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(fig.1)福田尚代個展「山のあなたの雲と幽霊」DM


羽をひろげる鳥のように、扇状のかまえで台座の上に屹立する古い本。すべての頁は半分に折り込まれ、中身を読むことはできない。ただ、折り込まれた頁の隙間から一行だけが浮き上がっている。

「ごらんなさい。きっとまたお前の心には太陽がさしてくることと思います。」
「「そうさな。あんたは書きつづける方がいいと思うね」と彼ははげました」。

前後の文脈から切り離された一行は、ときに啓示のような厳かさをもって見る者に響くだろう。美術家・福田尚代による書物を素材とした作品《翼あるもの》は、この作家のシャーマニステッィクな資質を証言する代表作のひとつである。浮き上がる一行は作家が任意に選んでいるわけではなく、頁を折り込むとう反復行為の末に偶然見いだされるものらしい。にもかかわらず、私たちは偶然の一行があたかも必然の相貌をもってあらわれることに驚愕をおぼえる。

もとより福田は、回文の制作によってシャーマニステッィクな資質を十全に発揮してきた。「無くならない恋なら泣くな」「流れ出したわたし誰かな」といったごく短い回文から数ページに及ぶ叙事詩的な回文まで。映し出される観念のけしきは様々であるが、そこには一糸乱れることを許さない数学的秩序と夕凪のような静けさ、意味からの乖離を予感させる紙一重の狂気とが同居している。

もし、《翼あるもの》にあらわれる偶然の一行や回文の紡ぎ出すイメージに作家本人の内面世界の表出を重ね見るならば、それは浅薄な理解にとどまるだろう。書物や言葉に対する幼少期からの愛がこの作家の人並外れた感応力を育んできたのは確かだろうが、私たちはこの作家のシャーマニステッィクな資質を讃えて事足れりとするわけにはいかない。なぜなら、シャーマニステッィクな資質の讃美は、ともすれば芸術家という創作主体の特権視、天才神話の強化に終始しかねないからだ。以下のように福田は書く。

「自分で自由に操れる才能など私有財産のようなものだ」[*1]

福田の生み出す作品が、たとえすべてのピースが然るべき場所にはまった完全なパズルのように見えたとしても、作家は決してすべての事象をコントロール下に置く万能の創造主ではないことに注意しなければならない。おのれの才、つまりは私有財産の誇示から慎重に距離を置き、かといって天性の感応力に完全に身を委ねて滅私に没するのでもなく、忍耐強い作業を積み重ねながら福田は異境へ赴く。

他方でこの作家は、「日常へ不意に襲ってくる〈向こう側からの呼びかけ〉」について触れながら、次のような言葉も残している。

「〈呼びかけ〉に全身で応えていくと恐らく死んでしまうので、直感的にどこかで踏みとどまるのだろう。その無意識の訓練が、制作する中で交わされるやりとりへと結びついていく。」[*2]

人智を超えた不可視の存在の〈呼びかけ〉を聴取しながら、その〈呼びかけ〉が発せられる淵源の手前でかろうじて踏みとどまること。超常的な現象を無批判に受け入れてそれに飲み込まれるのでなく、極小化した多孔質の「わたし」を世界に潜ませて理性の明かりを維持すること。
福田尚代という作家のほんとうに貴重な資質は、制作の継続を助けるこうした「やりとり」の術、生存のための技法にこそあらわれているように思われる。だからこの作家を評するにあたっては、シャーマニスティックな感応力の讃美をひとまず休止して、「やりとり」の術の意識的な先鋭化と秘匿化に刮目するところからはじめるべきなのだろう。

偶然の配列を相手取る言語超出的な営みの一方で、福田には文房具など身近な素材を扱う手仕事に集中する側面がある。消しゴムを彫刻刀で彫る、原稿用紙の升目を切り取る、色鉛筆の芯だけを削り残す。
手仕事に重きを置く作品群は「消去」を予感させる減法的手法を取ることが少なくない。減法的手法が要請されるのは、作家の意識が存在よりも非在へ、確かさよりも不確かさへと差し向けられているためとも考えられる。

10月15日から表参道のMUSÉE Fで開催された個展「山のあなたの雲と幽霊」は、まさに「非在」を希求する手仕事の最新の成果を開陳するものであった。出品作は2015年に開始した《袖の涙》シリーズの新作であり、会場で配られたテキストによれば、このシリーズは、古くから和歌に詠まれ、涙が沁み込み、ときに朽ちてゆく「袖」という媒体への共鳴から生まれたという。
まず個展タイトルと同名の新作《山のあなたの雲と幽霊》(2018年)を見てみよう。台座の上に環状に敷かれているのは、藍色、鼠色、カナリア色などをした色とりどりの繊維のかたまりである。綿毛を思わせるそれは視覚的な特徴からして即座に「雲」を連想させるが、少し距離を置いて眺めれば繊維の細かい毛羽立ちはたちまち視認できないものとなり、雲的形象は揮発性の霧的形象へと変貌する。原型の面影がすっかり失われているため俄かには信じがたいのだが、じつは、綿毛を思わせるかたまりは衣服の袖を丹念に解きほぐしたものである。

テキストから作家の言葉を少し引用する。

「拡張した身体であり、此岸と彼岸の境界でもある袖に触れつづける行為は、死者と遺された者との関わりに知覚をはたらかせる時間であったとも思われます。新作では、幽霊という領域に一歩踏み込みました。衣類の袖を綿状にほぐすなかで、袖の涙から雲へ、雲から幽霊へと、修辞上の飛躍を彫刻的な手法で一息に体感することとなり、身体感覚に潜む無意識のゆくえに驚いています。」[*3]

触知可能だった袖は解きほぐされることで状態変化し、つかみがたい不定形の雲へ、さらには不可触の「幽霊」を仄めかすものとなるということか。いや、それではまだ十分ではない。おそらく福田は、かたちあるものを「解きほぐす」という否定形の行為のうちに、「幽霊」の存在可能性を潜ませたのだ。幽霊の存在を、ではなく、あくまでその存在可能性を、である。
こうした逆説的手法に依拠するのは、福田が「日々の生活では幽霊を信じていない」というスタンスをとっているせいもあるかもしれない。作家は、袖が引き摺る死者たちの涙の歴史を、あるいは幽霊の存在を、オブジェによって代理するのではなく、「非在」のまま逃がすことに賭けた。証明しがたい存在のいたずらな表象はここでは慎重に戒められている。結果、観賞者は展示室全体に偏在する「非在」の気配を感じることになる。

本展の出品物において、その「解きほぐす」という否定形の行為に対比されるのは、「編む」ないし「縫う」という累積的行為だ。「解きほぐす」という行為が死者や幽霊といった冥界の存在に(婉曲的なかたちであれ)関わろうとするものであるのに対し、「編む」「縫う」といった行為は「生」の技法の系譜に連なっている。
《Dear Fairy & Fiction : Life Saver》(2018年)は、真っ白なハンカチの隅に小さな輪っか状の刺繍をほどこし、そのかたわらに同じく輪っかの編み物を添えた作品である。輪っかの形象には作家の幼少期の思い出(「ライフセーバー・キャンディ」という救命用の浮き輪を由来とするお菓子)がおそらく重ね描きされている。山折りにされたハンカチは、山脈、そして「お化け」の戯画的表現――布を被った浮遊体のイメージ――を連想させるところもあるが、そこに付された「ライフセーバー」(=浮き輪、キャンディ)の形象は、冥界から生還するための指標として作家と見る者の行く手を照らすだろう。毛糸と刺繍糸に宿るいのちの体温。異境からの呼びかけに応じつつ踏みとどまるこの作家の高度にして繊細な技術が、複数の手法のなかに確かに息づいている。

幽霊に戻ろう。非在との「やりとり」は言葉を契機にはじまることもある。展覧会タイトルに含まれる「山のあなた」という語句は、カール・ブッセの詩集から引用された。幼い頃、福田は「貴方」を「彼方」と誤読したことにより、「山のように遠く巨大でありながら実体のつかめない、謎めいた存在と出逢った」[*4]。“かなた”と“あなた”の「音ズレ」が遠大な存在の「訪れ」を招く。言葉の受信の変調もまた、霊的現象のひとつと言えるだろうか。

さいごに個人的にいちばん興味を惹いた作品について触れておきたい。薄茶色のハンカチを折り畳んで何枚も重ねた《100枚の毛布》(2018年)。
ハンカチはアズキとソラマメで染めたもので、一枚ごとに微細な色彩のグラデーションをもつ。揃った折り目の美しさのせいもあり、視線はおのずとハンカチの層の隙間に吸い寄せられる。また、一様でない色調差は層のうちに潜むものに思いを馳せさせる。幽霊を存在せしめるのでなく、層の隙間に潜ませ、匿うという隠蔽の術。袖を解きほぐした《山のあなたの雲と幽霊》と同様、「非在」を生き延びさせる意識がここに働いている。
どうやら福田にとってアズキは「幽霊」、ソラマメは「虚構」にまつわる思い出が関係しているらしい。テキストには、福田が幼少期に伝え聞いた話――ソラマメが話をするたびにそれが周囲から嘘と見做されたという物語――が綴られている。つまり、折り畳んだハンカチを積み上げる行為は、アズキの幽霊とソラマメの虚構を交互に重ねることを意味するのだ。《100枚の毛布》には、幽霊の存在可能性が虚構と紙一重になる危うさが潜んでいる。
先述したように、福田は日常生活では幽霊の存在を信じていない。にもかかわらず、幽霊は「制作に没頭する別の空間では圧倒的に存在してしまう」[*5]。幽霊と虚構の重ね合わせは、このような背反した意識と論理の飛躍をぎりぎりのところで成立させるだろう。こう言い換えてもよい。《100枚の毛布》においては、幽霊の存在可能性が虚構にくるまれそうになる危うさのぶんだけ、「非在」とのやりとりの精度が研ぎ澄まされているのだと。

展示を概観して改めて思うのは、語りがたい対象とやりとりする福田の手法がじつに多岐に渡っているということである。素材を解きほぐす、ハンカチを染める、あるいは脱色する。今回の個展では、刺繍や編み物に加え、編み棒を彫った作品やコラージュも展示されていた。それでいて、展示全体の印象は決して散漫ではない。「やりとり」の技法の先鋭化したかたちと同時に、空間構成についての繊細な配慮を見ることができた。

展示室全体に「非在」の気配が行き渡るのを感じられるとしたら、それは超常的な現象のゆえではなく、美術家としての力量と経験、そして祈りにも似た見返りなき行為の積み重ねが成し得たものである。


[*1]2012年9月15日の本人Twitterより。
[*2]2012年6月20日の本人Twitterより。
[*3]会場で配られたテキスト「雲のしらせ」より引用。
[*4]同上。
[*5]同上。

※出品作の一部と配布テキストについては作家のwebサイトで閲覧できる。

[展覧会情報]
福田尚代「山のあなたの雲と幽霊」(MUSÉE F)
2018年10月15日~27日





(編/構/校:東間 嶺 @Hainu_Vele)