2018/09/22 新宿文藝シンジケート第91回読書会。水道橋『路地と人』にて。


【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第91回概要
 
1.日時:2018年09月22日(土)18時〜20時
2.場所: 『路地と人』東京都千代田区三崎町2-15-9 木暮ビル2階
3.テーマ:姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』(文藝春秋 )を読む。
ゲスト:小川たまか(ライター。近著:「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を
4.レジュメ作成:東間 嶺(@Hainu_Vele)
5.備考:FBイベントページ


■ 上掲の通り、第91回新宿文藝シンジケート読書会は9月22日に水道橋『路地と人』にて行われました。同月に取り上げられたのは姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』 (文藝春秋)、ゲストにYahoo!個人の連載でも知られるフリーライターの小川たまかさんをお呼びしました。当日Periscopeを使って行われた中継へは、以下のTwitterリンクから飛ぶことができます。



レジュメ作成は選書をした東間 嶺(@Hainu_vele)。PDFはGoogleドキュメントに、テキストとしてもエントリ末尾にコピーします。


残酷で恐ろしい怪作

(※ 以下は、選書した東間嶺(@Hainu_Vele)による)

■ 姫野カオルコがいわゆる『東大"誕生日研究会"事件』をモチーフに小説を書いた、というニュース性もあって、発売された直後から話題になっていた作品でした。強制わいせつ事件を引き起こす被害者と加害者の心理を、記号ではない、あくまで一個の人間として"生き生きと"表現することによって表現されるその強烈な内容は、小島慶子氏など、日ごろからフェミニズムや性差別、性暴力の問題へ関心の深い論者から手放しの絶賛を得ました。

■ 彼彼女たちの熱量への反動とも感じられる攻撃的な(というより、ほとんど不当と言ってもよい)批判もAmazonレビューやはてなブログ界隈には散見されましたが、全体としては高い評価を得ていたと言ってよいでしょう。

■ 会で扱うことにした直接のきっかけは、ゲストとしてお呼びした小川さんがTwitterへ投稿した感想を選書者(東間)が目にし、この小説には、いまの自分たちにとっても重要で、論じておくべきものが含まれているだろう、という直感を得たことにあるのですが、会の当日はその予感/期待以上に濃密な議論が行われ、(実際の事件をモチーフにした作品では忘れられがちですが)「小説」を複数人で読むことの意味も感じられた夜になりました。


それは"いやらしい犯罪"ではない


【いやらしい犯罪が報じられると、人はいやらしく知りたがる。

被害者はどんないやらしいことをされたのだろう、されたことを知りたい、と。

報道とか、批判とか、世に問うとか、そういう名分を得て、無慈悲な好奇を満たす番組や記事がプロダクトされる。

なれば、ともに加害者と同じである。

2016年春に豊島区巣鴨で、東京大学の男子学生が5人、逮捕された。5人で1人の女子大学生を輪姦 した……ように伝わった。好奇をぐらぐら沸騰させた世人が大勢いた。

これからこのできごとについて 綴るが、まず言っておく。この先には、卑猥な好奇を満たす話はいっさいない。

5人の男たちが1人の女を輪姦しようとしたかのように伝わっているのはまちがいである、と綴るのであるから。】



■ 上記の引用は小説の冒頭部ですが、Yahoo!個人の連載『小川たまかのたまたま生きてる』で性暴力被害の取材記事を多く書かれている小川さんは、【いやらしい犯罪】だと読み手が予め想定しているであろう内容について、【この先には、卑猥な好奇を満たす話はいっさいない。】とまず前置きしたことが、現実との関係においては重要な部分だ、と指摘しました。

■ なぜなら、単数/複数を問わず性暴行にかんする世間的イメージとして、全てが強姦ないし準強姦を伴うという誤解がありますが、実態はそうではなく、被害者に対して性行為を伴わない暴行、脅迫、辱め等を加えるケースが非常に多く存在するからです(さらに昨年の法改正前は「性的な意図はなかった」という主張によって強制わいせつ罪の適用すらなされないことも多かった)。

■ 『東大"誕生日研究会"事件』でも強姦や準強姦、強姦未遂に相当する行為はなく、小説内部で主人公のひとり(つばさ)が、他の東大生たちともうひとりの主人公(美咲)に対して行う『強制わいせつ』も同様でした。そこにあったのは単純な意味での性欲ですらなく、もっと醜悪でおぞましい他者への悪意でした。


【彼らは美咲を強姦したのではない。強姦しようとしたのでもない。彼らは彼女に対して性欲を抱いていなかった。彼らがしたかったことは、偏差値の低い大学に通う生き物を、 大嗤いすることだった。彼らにあったのは、ただ「東大ではない人間を馬鹿にしたい欲」だけだった。】



■ 運命の出会いをしたはずの二人が、なぜ他方が他方を異様な方法で辱める---カップラーメンの汁をかけ、肛門に割り箸を突っ込み、性器にドライヤーの熱風をあびせかける(正確に言えば以上の行為をつばさが行ったわけではありませんが)---に至ったのか?物語のキモはその「過程」がどのようなものだったのか描くところにあります。

■ 姫野カオルコは記号としての東大生とその親たちを徹底的に戯画化、類型化することで、パラメーター(学歴、容姿、社会階層)と利害打算でしか人を評価することができない人間たちが、どれだけ他者への想像力と共感力を欠き、殆どサイコパス的といってもよい身勝手な振る舞いをするのか、それを執拗な心理描写で浮かび上がらせます。容赦ない彼女の手さばきは「こんな東大生いない。非実在東大生だ」「色々な東大生がいる。一括りにしすぎ」等の批判を呼んでいましたが、作品の狙うところからすれば本質的ではないと言えます。


それは"バッド・エンド"なのか

■ 選者(東間)は、この作品のメッセージ性が「バッド・エンド」(エントリ末尾レジュメ参照)の残酷さによってとりわけ強く表されていると捉えましたが、最後の一行でつばさが呟く台詞への評価は、参加者間で異なるものでした。

【「巣鴨の飲み会で、なんで、あの子、あんなふうに泣いたのかな」
つばさは、わからなかった。】

■ 美咲への強制猥褻で起訴され、執行猶予付きの判決を受けたつばさを東大大学院を除籍処分になるのですが、 叔父の見舞いへ訪れた病院で回想するあの日の出来事は、彼の中で未だに不可解なまま。

■ あと腐れなく仲を自然消滅させたはずだった都合の良い女が、なぜ飲み会であんなに激しく抵抗し、あげく警察に駆け込んだのか?なぜ、女に対してまったく性欲を覚えていなかった自分たちが、こともあろうに『強制わいせつ』で有罪にならなくてはいけないのか?つばさたち東大生は最後まで全く美咲の心情を理解できません。

■ 選書者はそれをもって、加害者である東大生たちのような精神構造をした人間たちはどんなことがあろうと内省などしない、という酷烈なメッセージだと判断しましたが、ある参加者は以下のような読みを語りました。

「理解できない、という点だけみれば同じだが、つばさにだけは、(理解できないことへの)"疑問"が芽生えている。あれは今後かれが変化することを示唆するのではないか」

■ 確かに、現実に実施されている更生プログラムの第一歩も、犯した罪の自覚と被害者の心情理解であり、その意味では、疑念を抱く程度とはいえ内省をはじめたようにも見えるつばさの姿は、作者が示した希望なのかもしれません。現実の『誕生日研究会』の面々に真摯な反省が期待できるのかどうかには大きな疑問が残りますが、あえて(踏み込んで)それを示すことは、物語に許された特権だと言えるでしょう。

是非、みなさんも読んで、「判断」をしてみてください。



当日レジュメ:なぜ"バッド・エンド"は訪れたか?---姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』を読む(作成/東間 嶺)

※ 赤文字は当日の指摘を反映させた。

* 論点整理 *

 ---どのように読むべきか?→実際に起きた事件(東大インカレサークル強制わいせつ)の構造を下敷きにした小説→にも関わらず、事件の全貌に迫ろうとしたり、再現性の高さを目指したものとは違う。
《point》:→故に、モデルとなった犯人と作中人物の相違、事実関係との差、固有名のアレンジの仕方等はさほど気にする必要はない。

 ---では、どういう小説か?→実際の事件を構成する要素から複数のモチーフを見出して主軸となるストーリーに組み込み、現在日本社会の諸相(病巣でもあり慣例でもあり因習でもある)を多視点から浮かび上がらせるように描いている。そのため、さまざまな種類の小説として読むことが可能となっている。
 《point》:→シンプルな「あの子が可哀想」的な糾弾小説とはいえない。※しかしながら、作者がもっとも扱いに重きを置くのは辱めを受ける片方の主人公(美咲)であり、その意味で、『東大生』への関心以外はほぼ存在していない事件報道や、ウェブ上でわき起こった被害者への匿名の非難に対する異議、という面はある。

 ---物語の型と主軸→基本のストーリーラインは、予めバッド・エンド(つばさの誘いに端を発した強制わいせつ事件の発生と、付随して発生した美咲への誹謗中傷)が示唆された上で、悲劇へ至るまでの選択と伏線が示されながら展開する残酷なガール・ミーツ・ボーイ。←(※)「バッド・エンド」かどうか疑問。救済は示されているのでは?

 ---組み込まれる複数のモチーフ→そこに学歴信仰、能力至上主義、性差別とミソジニーがミクスチャーされて作り出された日本社会の階層様態が、類型的に描かれる。ガール(美咲)とボーイ(つばさ)は対比的な階層に存在しており、ボーイの世界は、「勝つ」ための環境を過剰構築し、他者への共感性が著しく低下したエリート(記号として『東大』と『東大生』が使われる)を生み出す。かれらを育んだ家庭は輝きに満ちているが、母子密着と父への憎悪や忌避(譲治とエノキ、つばさの兄)を生じさせている。他方、「勝つ」ことの埒外に置かれた世界の家庭は【バタバタとした善き家】/【流れる日常が幸いに満ちている】とされる。
 《point》:→ボーイは勝利のための世界に、ガールは幸福と善の世界にいる。バッド・エンドに至るまでの双方の視点を対比させ、「なぜそれが起きたか」へ思考を誘導することで、読み手側の共感ないし非共感性(不快さ)を惹起させ、フックを作る構造になっている。匿名掲示板の描写は、実際に起きたことであると同時に、恐らく読み手の多数は何かしら「身に覚えがある」ため、さらに強い負荷をかける狙いとしても取り入れられている。


*多視点の整理*

 視点:1→美咲の場合。
『白馬の王子様』はクズでした。自己肯定力低め女子を襲う悲劇

 ---美咲の物語→【どうせ】というゆるい諦めと共に【わきまえ】をもってのんびり生きていた少女が、「運命」によって自身の密かな願望(白馬の王子様)を発見するも、成就の確信もないうち、運命の当人によってそれがただちに叩き潰される。最後の最後で若干の救済は描かれるが、カタルシスには遠く、損なわれた善良さが回復する道筋は示されない。←(※) ラスト、水谷大の三浦教授との会話は美咲への癒やしとして機能するので、「若干」ではない、物語上の救済に値するのでは?
 --引用:【自分の欲求がムクッと心の中に浮かんでも、すぐにピュッとひっこめてしまう。自分さえひっこんだら、自分さえ欲求をひっこめたら、あっちもこっちも落ち着くことが体験則でわかってきて、癖というか、習い性のようになった】
 ---引用:【美咲は「そうでない子」としてわきまえた。いっしょにいると気楽な子。なんでもけらけら笑って話を聞いてくれる子。「そうでない子」は、相手に「重い」「ウザい」と感じさせないようにするのが、分際をわきまえる配慮であることを、美咲は学校生活で体得している】
 ---引用:【(もしかしたら、自分にも、どこか、なにか、取り柄もあって、もしかしたらだけど、なにかいいところもあって、でも、それはちょっとしかないから、見つけてもらえない。小さくてちょっとだから、すごく目のいい人でないと見つけられないって、そう思うようにしてたんじゃないだろうか。『見る目ないね』って、ずっと言われたかったんじゃないだろうか……)】

 ---なぜこうなった?→物語上は、美咲の善良さと、その源泉となっているやや過剰な自己卑下/肯定能力の低さがつばさたちによる蹂躙を招いたと読める。理由=イノッチや水マユ、あるいは那珂いずみのように自我が強ければ、運命によってつばさと【つきあう】をしても、しなくても、すぐに別れることになる。あるいは、飲み会の場で先に帰った優香のようにふるまうことができる。
 《point》:→美咲の内面に同期できない(萌えられない)場合、読者は「前半長い」「類型的」「イライラする」等という感想を持ちがち。←(※)美咲が「良い子」すぎないか?ちょっと非現実的?理由(推測)=被害者のネガティブな面を描けないから??


視点:2→つばさの場合=分からない男---健やかなクズの当惑。

 ---つばさの物語→ナルシシズムと利害損得でしかものを考えない、判断することのできない頭脳明晰な少年(正しさより損得のクズby宮台真司)が、その優秀さのまま最高難度の大学に入った。入って、快調な大学生活を送っていた道程を、当人にとっては「ささいな」としか思えない出会いと、そこから発生した出来事によって、大きく傷付けられる。←(※)つばさが「頑張る」動機がいまいち不明。なぜ東大を目指すのか、なぜエリートでいようとするのか。他の東大生たちに比べても肉体的、家庭的コンプレックスも示されず、分かりづらい。美咲に比べてもあまり人物造形として成功していない?
 ---引用: 【人の、きもち、は 数 ではない。形にならない。恋するふたりのあいだには 齟齬 があったであろう。だがミルフィーユ菓子も、パイ生地とクリームと果実の、齟齬のおいしさなのである。美咲とつばさのきもちが焼き上げたミルフィーユ菓子は、なぜ半年後には、 酷い齟齬に変化してしまったのだろう?】
 ---引用:【ではつばさにとって美咲は? そんなことに思考を 充てる無駄は、この勉強のできる青年はしない。 (…)おれにとってかの人は何なのだろうかと考えるような行動は、東大に入りながら本郷に行くころには二次方程式の解の公式すら使えなくなる文 Ⅲ のやつらがやっているごくつぶしのような行動であり、難病や飢饉や地雷に困っている世界の人々を救えないアホな行動なのだから、そんな行動を、優秀なつばさはしたことがないし、これからもしないようにしている】

 ---美咲との恐ろしいまでの認識差→【無駄】をしないつばさは、最後まで自分のふるまいがいかに残忍か、その加害性について理解せず、美咲とのズレが決定的なものとして描かれる=引用:【美咲がしくしく泣いている。囲む学生たちはひいている。「盛り上げる役」のつばさは、あわてた。盛り上げなおさねばならない。つばさは、美咲の臀部を平手で強く叩いた。尾てい骨のあたりに赤く手形がついた。「なーに泣いてんだよッ」陽気に言った。】

 《付記》:→山岸遥の役割=つばさが「勝つ」ための選択以外、全く生き方のオルタナティブを理解しないことを示すためにのみ存在する(司法試験を諦めたあとの兄も同じ役割になる)。ラストシーンでの台詞は自らそれを解説している=【東洋大の私に言われても。なんもコタえないよね。竹内くんは、】←(※)山岸遥は不可解な存在、パラメーターでしか人を見ないはずのつばさが、なぜか「気になる(無視できない)」存在として描かれる=つばさが「変化」する可能性の担保?

視点:3→東大生(とその親)たちの場合---「生きていてごめんなさい」と思えない男たち。

 ---『星座研究会』の物語→それぞれなりの事情はあるが、つばさ同様ナルシシズムと利害損得でしかものを考えないエリートたちが、当人たちにとっては、「東大ではない/偏差値の低い/ネタ枠」女の【思い上がった】行動によって、「人生に汚点をつけられた」ということになる。全員が、「しくじった」という後悔はしているが、誰一人、「悪かった」とは、心の底から、思っていない。
 ---引用:【「カスだな」 朝の森のように爽やかな声で和久田はつぶやいた。 (…)和久田は思っている。 (ほんとにあの女はカスの中のカスだ)  警察に通報されたことへの怒りではない。 (自分が輪姦されそうだとでも思ったわけ? あんたネタ枠ですから。だれも、あんたとヤリたいなんて思ってませんでしたから。あんたの大学で、あんたの顔で、あんたのスタイルで、輪姦されるとでも思ったんすか? 思い上がりっすよ) 和久田はそう思い、もう顔も名前もおぼえていない美咲に、「思い上がっている」という理由で怒りを抱いていた。 美咲と姦淫しようというつもりはなかった。真実である。だれもいない場所でも、一人きりで神に誓える。 「なのになんで強制わいせつなわけ? おれら、あいつになんもしなかったじゃん」】

 ---東大生たちの人物評価基準が端的にあらわれている→【あんたの大学で、あんたの顔で、あんたのスタイルで】。これはタイトルにも関係する話ではないか?「彼女は頭が/も悪いから」。「が」or「も」問題。【あんたの大学】でも、【あんたの顔】や【あんたのスタイル】ではないなら、事件は起こらなかった?【あんた】は頭「も」悪いから、からかってやったのだ。
 ---推察→東大生たちは、那珂いずみにカップラーメンをかけただろうか、と想像してみる比較。何もかもランクで判断するという価値判断の歪み←(※)利害損得とパラメーターでしか人を見ないのは、東大生だけではない(ex 那珂いずみ、藤尾高校のマネージャー朝倉&南など)。分け方としては東大生/それ以外ではなく。見る/見ないで分かれる状態。
→引用:【彼らにないのは「生きていてごめんなさい」という気持ちである。東大の男はなまじ紛うことない実力でその地位を得ている(と少なくとも彼らは思っている)ため、そういったわずかに残る人間味のようなものもない。そしてこの清々しいほどの「ごめんなさい」感のなさが彼らを一気にモテの道に誘っている。(鈴木涼美「東大男の悪口がお好き」)

 《補足》(東大生)親たち→主に母親たちのふるまいと言動が詳述される。93年前後生まれに設定されたつばさたちは親世代(山本義隆の娘世代=福山雅治、ダウンタウン、さくらももこ、尾崎豊あたり)もまだ五十過ぎと若く、均等法施行のあとに社会へ出ている。リブも知っているし、戦後民主主義の恩恵も十二分に受けている。みな高学歴だが、子への偏愛と保身は全てに優先する。自分の娘(ex→譲治妹)の身に起きたら許さないが、その被害を身内が与えた場合は別である。彼女らも「悪い」とは、微塵も思っていない。引用:【逮捕は災難。訴えられたのも災難。そう思うからこそ、美咲の示談条件を拒んだ。】

 その他:ネット等で見かけた疑義など、諸々。*

Q東大生とその親などの描写が過剰に類型的ではないか?Q東大生やモテる女の行動様式が実際と違う。取材不足ではないか?
Q実際の事件とどうしても関連付けられるのだから、架空のキャラによる創作は被害者へのセカンドレイプになりかねないのではないか?Q高学歴差別だ!東大生とひとくくりにしたヘイトだ!etc…