ヴェイユ肖像(出典:Wikipedia)
ぼくの哲学との出会いは、2010年の夏頃にハイデガー『存在と時間』(細谷貞雄訳・ちくま学芸文庫)を読み直そうと試みたところから始まる。
『存在と時間』は1927年にドイツで刊行され、第二次大戦後フランスで起こった実存主義の運動に大きな影響を与えた書物だが、ふしぎなことにその実存主義を批判した構造主義の哲学にさえ影響を与えた。そのようなことは読書を続けていくうちに、とくに木田元先生の諸著作に触れることを通じて知ってゆくのだが、『存在と時間』をなんとか理解しようと努めていると(ハイデガーが研究した)ニーチェ、(ハイデガーの)ナチス加担問題、(ハイデガーが言及している)ヘーゲル、(ハイデガーの言う)"現象学"についての解説本を多数記している竹田青嗣、(レヴィナスの)ハイデガー批判などが気になり、『存在と時間』にむかう読書という幹が枝葉をどんどん増やしてしまった。
ぼくは2016年になってようやく『フランス現代思想史』(中公新書)を読む。「ドイツ哲学にばかりかまけていないで、たまにはフランス哲学にも目を配ろう」という気持ちに(ようやく)なるのに、6年かかったのだった。
さてその頃、Twitterでもいくつかフランス語を用いる哲学者のbotをフォローした。しばらく眺めているとそのなかに、妙に気になる、つまりツイート内容がちょっと不可解な=部分的に文意が不明なbotがあった。それが、Simone Weilのbotだったのだ。(レヴィナスbotも同時にフォローしたが、ほぼ何を言っているのか分からないbotだったので、取り付く島が無かった)
2年ほどSimone WeilのTwitterアカウントをフォローしているうちに、彼女への関心がしだいに強くなりどうにも抑えきれなくなってきたので、とりあえず、評伝を一冊読んでみようと思った。そこで偶然手にしたのが、現在日本のヴェイユ研究の第一人者である冨原による『シモーヌ・ヴェイユ』だった。同時期にキルケゴールの主著・新訳『死に至る病』(講談社学術文庫)を併読しており、ヴェイユとキルケゴールの共通点に気付かされたことは、ここで以前述べた通りだ。
冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』(岩波書店)鬼気迫るまで純粋さを渇望し続け、若くして燃え尽きた思索家ヴェイユの思想と生涯を追う、凛とした礎石のような評伝。極めて聡明であり、一徹した思想への意志を持ち、とことん潔癖であり孤独であるからこそ、人の世を真に俯瞰し得たが、それゆえ苦渋と屈辱と悔悟との縁が切れなかった。そこに、類稀なる生きにくさを武器にした〝天使なんかじゃない“彼女のすがたを見てしまうのはぼくだけだろうか。批評対象の心に寄り添いつつも、安易な共感を一切示さず、硬質な文体でヴェイユに伴走する著者の文体の強度もふくめて、高く評価すべき作品である。元になった投稿→ https://bookmeter.com/books/1021354
冨原の評伝は素晴らしい読後感を与えてくれたが、ヴェイユが直接に書き記したものにすぐに触れようとしても、難解で理解できないのではないかと感じたので、以下の2冊の入門書を読んでみた。感想はそれぞれつぎの通りである。
ロバート・コールズ『シモーヌ・ヴェイユ入門』(平凡社ライブラリー)
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M.M.ダヴィ『シモーヌ・ヴェイユ入門』(勁草書房)
シモーヌ・ヴェイユの、とくにその独特の神秘主義的なカトリック信仰に焦点を絞り、深い敬愛の念を以って、共感的に描く。比較的直観的な記述が多く、文脈を追うのがやや難しくなる部分もあるが、キリスト教のみならずイスラームや老子の教えなど霊的な真理を探究する他の宗教にも程よく目を配り展開してゆくため、ヴェイユの精神史に篤実に歩みよっていくよう感じられる。キェルケゴールについても度々言及し、両者の共通点や類似点を説得的に論じる点もすこぶる印象深い。彼女の類いまれなる内的生活を快い緊張感を伴いながら深く迫ってゆく一冊。
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コールズの書は、ヴェイユを文学的な視点から分析したもので、それに対してダヴィは彼女を宗教学的な視点から分析していた。この二冊が織りなすおぼろげなヴェイユ像を頼りに、次はヴェイユについて研究された日本語論文を読んでみようと考え、十篇あまり読んでみた。そのうちからとりわけ優れたものについて、順に記していこう。
脇坂真弥『シモーヌ・ヴェイユにおける人間の尊厳の問題』(『東京理科大学紀要 教養篇』(45)2013年・所収)
著者はまずアウシュヴィッツの生き残りである、プリーモ・レーヴィの"抵抗"についての発言を引き、ヴェイユにおける"不幸"(奴隷状態)について考察してゆく。
「人が閾値を超えて不幸(奴隷状態)の中へ投げこまれるとき、その投げこみのメカニズムにおいて「その人が誰か」はまったくの埒外である。(略)不幸は人を選ばない。その人がどのような個性をもち、どのような努力をし、どのように生きて、どのような段階にあるかとはまったく無関係にランダムに誰かが選ばれる。そのような選び方をされた人にとって、もう「自分が誰であるか」などということは意味がない。これほど恐ろしいことがあるだろうか。私が何かをしたから、私個人の何かが原因で、私がある何者かだからーそのような理由でその人がとくに選ばれ、不幸に陥るわけではないのだ」(P.220)
とりわけ上記の記述が非常に印象的で、人が不幸におちいる際の偶然性の問題と、その当事者における不幸そのものの必然性への恐怖が、ヴェイユの"不幸"の考察を通して、著者じしんの言葉にきちんと置き直されている。こういう著者の実存が色濃く現れているところにぼくは論文の読みがいを感じるのだが。さて、もうすこし引用を続けよう。
「人間ならばみな自分が《自由》であることを逆手にとられ、ある地点で《自由》であることを利用されて打ち砕かれる可能性をもつ。《自由》であることを利用されて打ち砕かれる以上、その人は決して免罪されない。というよりも、免罪されずに罪と汚れの意識にまみれるということが《あらゆる》人に起こりうるのだ。しかし、人がこの盲目的メカニズムの仕組みに、すなわち《あらゆる》人につねにすでに起こり、自分自身にも起こっているその投げこみのメカニズムに実際に気づくのは、みずからが不幸に襲われた時でしかない」(P.221)
サルトルを思い起こさせるうえに、これはまさに道徳上の運の問題でもあり、ここから無際限に考え始めてしまいそうになった。本論文はその点でとりわけインスパイアリングな読み心地であった。
脇坂論考(CiNiiリンク)→ https://ci.nii.ac.jp/naid/40019737253
辻村暁子『シモーヌ・ヴェイユの思想における「人間の尊厳」の概念ーその形成における工場体験の役割ー』(『仏文研究』(33)、2002年・所収)
ヴェイユの『工場日記』のテクストを中心に考察し、ヴェイユの尊厳概念の扱い方の変化から、その後期〜晩年の思索的変遷を浮かび上がらせる刺激的な論考。一箇所だけ引く。
「「考察」の最初の二章で、彼女は現代社会における人間関係が欲望と恐怖の情念によって支配されていることを描き出し、人間にとってこうした情念は底なしであることを指摘した。「人間が他の人間たちから受ける満足と苦悩には限界がない」。「考察」の中のこの言葉には工場やスペイン市民戦争での経験の後にヴェイユの思想にあらわれる「力」の概念へ直結する視点が含まれている」(P.106)
この箇所は本論考の尊厳概念そのものについて述べたところではないが、ヴェイユにおけるニーチェの影響を考えさせる点で触発的だった。ヴェイユが"奴隷""力"という概念をめぐってことばを紡ぐ時、その背後にニーチェの思想がよかれあしかれどの程度関わっているのか、関心を抱かざるを得ない。ちなみに先の引用で「考察」と略されているのは「自由と社会的抑圧の原因についての考察」という1934年に書かれた論文である。ちなみにこの考察の中でのヴェイユの引用はすべて原語で表記されている。
川口好美『不幸と共存ーシモーヌ・ヴェイユ試論』(『群像』2016年12月号・所収)
なかなか歯ごたえのある論考。ことば遣いはとても分かりやすいのだが、その上でヴェイユの不幸概念にジリジリと迫ってゆくところが読ませる。しかも、後半ではアガンベンのアウシュヴィッツ論が引かれ、それがまた難解なのだが、きちんと丁寧に言分けしているところにも好感が持てる。権威づけにアガンベンを引いているのではなく、ヴェイユの不幸概念への考察にすっと結びつけているところも関心した。すこし引用しよう。
「とはいえ、ヴェイユの思想のわかりづらさが解消されたわけではない。(略)わかりづらさは、人間が「不幸」を見ることの困難さと、そして「不幸」を直視してなお「恥ずかしさ」のうちにとどまることの困難さと、密接につながっている。その困難が人間にとってあまりに過分だということを重々承知しながらそれでもその過分な困難を超えようとして奇蹟に賭ける、そういう荒唐無稽な意志がないならば、いくら「共存」や隣人愛や平和や反戦といった理想について語ってみても虚しいだけではないのか。ー戦時下、自身の死期を見定めながら、ヴェイユはそう問うていた」(P.85)
ヴェイユの言う不幸とは、世俗的な利益をすべて捨てて、ただひたすらに心から神の恩寵を待ち望んで生きることをいうのであって、一般的な不幸とは違う。その点はこの論文を理解する上でも注意が必要だ。
鈴木順子『シモーヌ・ヴェイユ「犠牲」の思想』(藤原書店)
著者は多面的存在として断片的に語られがちであったヴェイユの思想の根本に、犠牲という観念が通底することを見出した。常に現世の中間的集団から身を離し続け、ミクロとマクロの善なるものを根源的に考え続けたヴェイユ思想の巨人的なダイナミズムを、その膨大なテクスト分析から明らかにする一冊。東大大学院に提出された博士論文(第五回河上肇賞本賞受賞)を元に改稿された内容だが、驚異的な力作であり、緻密さと大胆さを兼ね備えたヴェイユ研究のわが国におけるメルクマールと言えるかもしれない。ヴェイユに惹かれる読者は必読。面白いから。ただ、門外漢が言わせてもらえば、"犠牲"がテーマなのに、ヴェイユの最期="自死"の問題に触れていない点は気になる。そこに触れると論文の収拾がつかなくなると危惧したのだろうが。
元になった投稿→ https://bookmeter.com/books/5482667
ヴェイユについての論文の中で別格に刺激的だったのは書籍として読んだ鈴木の博士論文だったが、管見の限りでは、ヴェイユの『工場日記』を引き、人間の尊厳と労働について論じている論文が多く目についた。とにもかくにも、無手勝流でいろいろ読んでみたので、それなりにヴェイユのテクストの雰囲気に触れた気分にようやくなれた。そして、ようやくヴェイユの著作(とかつて見なされていたもの)にたどり着いた。準備にかける時間が長すぎたかもしれない。しかし、それなりに準備しないと読めない本であることは分かっていたのだ。
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(冨原眞弓訳・岩波文庫)
ヴェイユの代表作と見なされてきた『重力と恩寵』は彼女の死後、遺稿(の一部)を託されたギュスタヴ・ティボン(1903-2001)が編集し、世に出したものである。訳者(のひとり)である冨原眞弓(1954-)も言うように、この本は【「シモーヌ・ヴェイユ(1909-43)の著作のなかでももっとも読まれているといってよい」】(P.429)。つまり、人口に膾炙したヴェイユ像にティボンの仕事は大きく影響を与えているわけだ。しかし、時代の趨勢からいって、今後、いやもうすでにかもしれないが、この『重力と恩寵』はヴェイユ研究の一次資料としては問題があり、あまり用いられなくなっていくだろう。
ただ、研究者の世界ではそうかもしれないが、現在ヴェイユ全集が刊行されているフランス本国も含め、多くの国々の一般読者は『重力と恩寵』を手始めに読んでみる傾向は続いていくのではないかと思う。その点でこの本を精読する意味はあった。結論としては、ヴェイユを精確に捉える場合『重力と恩寵』という書籍はとても魅力的ではあるが、不十分であるため、ヴェイユ像を歪めて伝えることになる、と言える。
魅力的というのは彼女独特の神観念が各項目にまとめられた断章からよく伝わってくるから。不十分というのは、この本はヴェイユのクリスチャンとしての部分に焦点を絞っているため、彼女の政治活動家・社会運動家としての側面について読者は一切触れられないからだ。冨原より前に本書を訳した―現在はちくま学芸文庫に入っている―田辺保(1930-2008)は、1974年にすでに次のように書いている。
ただ、研究者の世界ではそうかもしれないが、現在ヴェイユ全集が刊行されているフランス本国も含め、多くの国々の一般読者は『重力と恩寵』を手始めに読んでみる傾向は続いていくのではないかと思う。その点でこの本を精読する意味はあった。結論としては、ヴェイユを精確に捉える場合『重力と恩寵』という書籍はとても魅力的ではあるが、不十分であるため、ヴェイユ像を歪めて伝えることになる、と言える。
魅力的というのは彼女独特の神観念が各項目にまとめられた断章からよく伝わってくるから。不十分というのは、この本はヴェイユのクリスチャンとしての部分に焦点を絞っているため、彼女の政治活動家・社会運動家としての側面について読者は一切触れられないからだ。冨原より前に本書を訳した―現在はちくま学芸文庫に入っている―田辺保(1930-2008)は、1974年にすでに次のように書いている。
「シモーヌ・ヴェイユがもともと刊行の意志をもたずに、随時、自在に書きとめてきたノートの集積が、ティボンという編集者の判断によってどのような性格のものに要約されたかを、原稿の読み方、取捨、転写、各章の順序だて、小分の切断と配属の方法など細部にわたって、もとの『カイエ』原文に引きもどして比較検討してみる必要があるだろう。少なくとも、二、三の断章について今、別に刊行されている『カイエ』全三巻の各該当個所にあたって調べてみたかぎりでも、ティボンは長い原文を途中で区切ったり、意味の重複する語句文章を省略したり、また語句の内部でも瑣末事にわたる表現や、不明瞭な文言は削除しているのが確かめられた。正統的な信仰を固守するティボンが、カトリック教会の存立やキリスト教の中心的な教義に動揺をもたらすたぐいの批判的言辞は、とくに意図的でなくてもとり上げる必然性を感じるまでにいたらなかったであろうとは当然予測されることであり、さらにティボン固有の考え方と感じ方のカテゴリーからはみだした観念の表白に出あったならば、編者の関心の網の目からそれはもれ落ちて行ったにちがいないと推量できる。『重力と恩寵』は、ティボンという哲学者の知的関心の、偏見なく豊かではあるが、特有の性質をもった諸枠組の中ですくいとられたシモーヌ・ヴェイユに断想集であることは、やはりさいごまで納得しておかねばならぬことである」(『重力と恩寵』ちくま学芸文庫版、P.359-360)。
冨原訳を精読しているうちに、ぼくも具体的に気づいた点がひとつあった。
「ヤハウェ、中世の教会、ヒトラー、これらは地上的な神々である。彼らの行う浄化は想像上のものにすぎない。現代の誤謬は超自然的なものを欠くキリスト教に由来する。世俗主義がその原因であるが、まずは人文主義を嚆矢とする」(P.142)
ここに付されている、注209を見る。注209には訳者によってこう書かれている。
「カイエ(引用者注:ヴェイユが残した「雑記帳」のこと)が槍玉にあげたのは、モーセとヨシュアに降伏した敵の殲滅を命じるヤハウェ、異端審問制度を創設した中世のカトリック教会、および「人種問題の最終解決」をうたうヒトラー主義に体現される、きわめて不寛容で全体主義的な浄化である。ティボン版では「ヤハウェ、アッラー、ヒトラーとなり、「中世の教会」が「アッラー」に替わっている」。
おそらくティボンが、フランスのキリスト教会に配慮して「中世の教会」を「アッラー」に書き換えたのだ。これは現代の観点からは、一次資料の改竄と見なされるだろう。そういった問題点を---以前、田辺が指摘していた点も十分留意して---可能な限り解決し、冨原の訳業がなされている点はむろん特筆せねばならない。
彼女がこの本でなした様々なことは本書の訳者あとがきに詳しいが、ティボンの編集に対してのクリティカルな指摘のなかでもいちばん重要な箇所を引いておこう。この点を注意して、読むのに越したことはない。ただし、岩波文庫版では訳者が【「ティボンの編集上の操作(省略・加筆その他)によって、意味や抑揚にあきらかな変化が生じたと思われる箇所は、当該の「カイエ」に準じて復活・削除・差換え等の復元をおこな」
】(P.444)っているのでそのことには気づきにくいだろう。
「ティボンは主としてフランスの、それもカトリックの読者を念頭に、これら非西欧的な言及を大幅に圧縮した。編者の意図がどうであったにせよ、ティボン版『重力と恩寵』が、非西欧的・非キリスト教的な色調を相対的に強め、異教的・哲学的な言及を抑制して、正統的・宗教的な抑揚を相対的に高めた事実は否めない」(P.446)。
ここまで書いてきて、ぼくは本当は、前掲した諸論文が指し示すヴェイユの『工場日記』を読まなければならなかったと考えている。しかし、日頃からつねに賃労働について薄っすらとした嫌悪を感じているぼくとしては、彼女のような繊細な魂が、過酷な肉体労働によって深く傷つき損なわれていくのを見るのは、さしあたりあれらの引用箇所だけでじゅうぶんだと感じ、代表作『重力と恩寵』への精読に逃げたことは否めない。
『工場日記』もいずれ精読したいが、他日を期したい。だとしても、今回もそれなりに有用な読書案内が書けたのではないかと自負している。ヴェイユ初読者の方が、その著作に触れる上で何らかの参考にして頂ければ幸いである。
『工場日記』もいずれ精読したいが、他日を期したい。だとしても、今回もそれなりに有用な読書案内が書けたのではないかと自負している。ヴェイユ初読者の方が、その著作に触れる上で何らかの参考にして頂ければ幸いである。
(おわり・文中一部敬称略)
(編/構/校:東間 嶺@Hainu_Vele)