※注。新刊『仮説的偶然文学論』(月曜社)がとにかく売れてほしい。 そういうわけで、意気込みを示すために、ディズニー&ピクサー作『リメンバー・ミー』に関する評論を書き下ろした。あまり偶然と関係ないと思われるだろうが、「誤ること/謝ること」に関しては関係しなくもないだろうと思っている。読んで面白かったら新刊の方はこの3倍は面白いので是非買ってほしい。面白くなくても本は面白いので是非買ってほしい。是非買ってほしい。どうぞよろしく。荒木優太月曜社 2018-05-24
(前篇からつづく)
私を思い出すな!
数々の賞候補に名が挙がり、第三五回野間文芸新人賞を受賞した、いとうせいこう『想像ラジオ』(二〇一三年)もまた、多くの読者を巻きこんで文学的に死者問題を追求してみせたテクストだった。
杉の木の上にいるDJアークは、消えてしまった妻子を探すために、想像という電波を用いたラジオ放送を流している。が、途中から彼はどうやら津波で流されて死んだ死者であったことが明らかになる。未練があって「成仏」できないアークは、チューニングの掛詞で語られる「中有」(「ステイ・中有イング」)なる、生者と(真の)死の中間領域で、「心残り」を解消するために饒舌に語りつづける。
『リメンバー・ミー』と同じく、『想像ラジオ』でも「第二の死」が描かれていた。DJアークは、「僕は聴きたい声を聴きました。リスナー諸君が想像していた内容とはだいぶ違うけど、なんにせよ僕は愛されていると思いました」と、おそらくは現世の妻子がアークを想像(想起)しただろうことをきっかけに、「体の境界線がすべて空気に溶け去って、こうしてしゃべる言葉も風に吹かれて自分のものでなくなっていく気がします」という状態から始まる「成仏」へと向かう――ちなみに、やはり『リメンバー・ミー』と同じく、この作でも死者は自分の死にぎわの記憶を喪失しており、物語の途中で気づく格好になっている――。
『リメンバー・ミー』と同じく、『想像ラジオ』でも「第二の死」が描かれていた。DJアークは、「僕は聴きたい声を聴きました。リスナー諸君が想像していた内容とはだいぶ違うけど、なんにせよ僕は愛されていると思いました」と、おそらくは現世の妻子がアークを想像(想起)しただろうことをきっかけに、「体の境界線がすべて空気に溶け去って、こうしてしゃべる言葉も風に吹かれて自分のものでなくなっていく気がします」という状態から始まる「成仏」へと向かう――ちなみに、やはり『リメンバー・ミー』と同じく、この作でも死者は自分の死にぎわの記憶を喪失しており、物語の途中で気づく格好になっている――。
けれども、二つの死のなかの死は対照的に異なっている。『リメンバー・ミー』では、記憶の消去、即ち生者との不通によって完全なる虚無への強制退去が問答無用にも命じられる。生者が想起しないということは、死者を完全に殺すことだ。対して、『想像ラジオ』では、死者と生者とが通じ合うことで、これ以上の贅言は不要といわんばかりに「第二の死」が訪れる。『想像ラジオ』の世界では、死者を殺すためには生者が死者を想像する必要がある。死のなかの死に関して、この二作は正反対の思想に立脚している。
物の組織は『リメンバー・ミー』の「第二の死」に対して再来する復活の希望を与えていた。ならば、『想像ラジオ』の「成仏」に対しては、何度も再来する消滅の絶望を与えているといえる。やっと成仏できたのに何度も召喚されて、そのたびごとに殺される。生者の勝手な都合で、共有(ルビ:シェア)で、何度も何度も死ななければならない。死んでいるということは、生きてないために無限に殺されることもよしとせねばならない、無抵抗の状態に甘んずることである。無間地獄ならぬ無限地獄。
想起をランダムに触発させる物の組織は、死者たちを例外なしにこの地獄へと突き落とす。組織が未熟だったあいだは天国で安らかに眠っていた死者にさえ物の魔の手は容赦なく伸びて、彼らを捕獲し、記憶のネットワークに強制登録させる。小説家たちは『想像ラジオ』の姉妹篇として、こんな一篇を書いてみるのはいかがだろうか。死者たちは生者が彼らを思い出すたびに、拷問を受ける。現世での思慕が強ければ強いほど、殴打され、切り刻まれ、火で燃やされる。勿論、死んでいるから死ぬことすら許されない。終わらない極刑。生者が死者を想えば想うほどに死者は生者を憎み、全員皆殺しの目にあえばいいと願うほどに人類の生存を呪うようになる……。もう私を思い出さないでくれ!
「怨念ラジオ」という可能性
確認するまでもなく、このような霊界観は、なんの根拠にも基づかない恣意的な産物にすぎない。『リメンバー・ミー』や『想像ラジオ』と同じくらい勝手なものだ。
なぜこのような極端なことを考えるのか。たとえば、『群像』三月号の「創作合評」では野崎歓、町田康、片山杜秀がこの作を含んだ合評会を担当している。町田と片山は美点を十分認めつつも、いくつかの疑問を投げかけている。町田は、想像ラジオが話し手ではなく聴き手の想像に依存している点をもって、「聴いている人次第でどうにでもなるものが、どこまで開かれているのかわからない」とその恣意性を仄めかす。とはいえ、死者のパーソナリティが流す実際にある曲の引用によって「作者性の否定」が効き「逆に開かれた形」になっているとも述べている。これに比べれば片山の方が厳しい。DJアークのそばにいる鳥が、どうやらかつて死んだ不倫相手の女性である、という設定に、片山は「生者と死者の総翼賛体制作りをやろうというのが露骨すぎる感も、なきにしもあらずですね」と感想を漏らしている。そして、これは鋭い指摘のようにみえるが、死者の未練から成仏に至る過程を「予定調和的」とし、「念が残って死んでも死にきれない怨念ラジオだってありうるでしょうがそうしない」とコメントする。
霊界がどのようなルールで成り立っているのか――そもそもそんなものが存在するかどうかもふくめて――我々にとって未知である以上、蓮の花が咲き乱れる幸福な浄土も、血で赤く染まった夥しい数の拷問具が並ぶ無限地獄も、等しく正当化の根拠に欠ける生者の想像にすぎない。にも拘らず、その想像なるものがある偏った傾向を示すのならば、相対的に、死者は生者の傀儡となってその自由が踏みにじられている、と考えるべきなのかもしれない。
そう、『想像ラジオ』から「怨念ラジオ」を排除する、つまりは、生者による全力の献身も意地悪く無碍にして聴く耳もたずに世を呪いつづけるうらみつらみを端から除外するのならば、死者の語りの想像とは、御涙頂戴用に最適化されたマスターベーションでしかない。佐藤啓介は『死者と苦しみの宗教哲学』(二〇一七年)のなかで、公共化された記憶の場では、「死者の善化」が占領的に進む背面で、「浮かばれない死者」が排除されているのではないか、と指摘していた。全力をもって臨めば、それに優しく微笑んでくれ、そして「成仏」することが約束されている死者の像。物の組織はこれに対しても抵抗する。
ミスすることができる
とはいえ、テクストは、そうやすやすと尻尾を出すほど不用心ではない。死者の声を語る(騙る)恣意性に関する問題提起は、用意周到にも作中内部に組み込まれている。
第二章、どうやら作家で生業を立てているらしいSは、東北で起きた震災のボランティアに赴いたさい、死者が語るラジオ放送があるらしいという怪談話を仄聞し、熱心にそれを聴きたいと思うものの一向にかなわない。ボランティア活動を終えて東京に戻る車のなかで、死者の声の話題になるも、同乗している若い仲間から「遺体はしゃべりませんよ。そんなのは非科学的な感傷じゃないですか」、「亡くなった人のコトバが聴こえるかどうかなんて、俺からすれば甘すぎるし、死者を侮辱してる」と疑問の声が上がり、ちょっとした倫理論争の様相を呈する。ただし、彼の反論は別の仲間に再反論され、また、切ってあるカーラジオから曲と声が聴こえると運転手が主張することで章が閉じられることを考えれば、批判はいささかその鋭さを棄てるように仕向けられている印象も残る。
死者の声は(おそらくは生者の)想像力の産物である。このことは『想像ラジオ』に否定的な論者も承知の上だろう。が、それを経てなお違和感が生じるとしたら、そこで展開される想像がもし想像者の勝手気儘にコントロール可能なものならば、わざわざ死者を仲介する必要があるのか、という疑問に逢着することにある。
無論、勝手な想像だとしても、死者の声という体裁がときに救済を与える場面を思い描くことはできる。酒呑みの父親が体を患い、長い入院生活のすえ逝去、その無念を気がかりにしていた娘が、墓前に彼が大好きだった酒を供えた瞬間、ありがとう、という声をかすかに聴いた気がして、心のしこりがやっと消えていくように感じるとき。或いは、恋人を殺した罪で懲役二〇年の刑期を課せられ、長い時間をかけて後悔で身をよじりながら真の反省を学んだ男がやっと出所したその日に、もういいよ、と彼女の声が聴こえたとき。それが想像の幻聴だったとしても、死者の声の体裁をとることで、自分の行為が他者の念願にかなう仕方で報われたように感じることは(まことに勝手な話だとは思うものの)理解はできる。
では、歴史上実在しなかった完全に想像的な死者の語りの体裁を借りて言葉をつむぎ、そしてそれを読む者たちが救済を感じるようなフィクションにあっても事情は同じだろうか。否、違う。現実の死者の想像は、死者に関する具体的な取り扱いに明確なミスが生じうるという点に大きな特徴をもつ。娘は父が好んでいた酒の銘柄を間違えてはいけないし、違ったものを供えれば別の親族から訂正の指摘が入るだろう。殺人犯が、自分は勤めを果たしたのだから死んだ彼女も天国で納得してくれるはずだ、と公言したならば、彼女の遺族は死者の言葉を勝手に騙るなと反発する。彼らの現実の抗議の声はノイズとなって想像ラジオの傾聴を妨げるに違いない。
遺されたもの(遺言、遺物、遺族)がミスをはじく。そして遺されたものは、程度の差はあれ、物の組織のなかで、脈々と息づいている、或いは死にづいている。霊はいまだ怨霊のままかもしれないし、或いはもはやそうではないのかもしれない。その暫定的決定は物に基礎づけられた解釈によって、かなりの程度の水準まで高めることができる。大事なのは決定できるかどうかではなく、暫定をより盤石なもの(のようにみえるもの)にするための過程を歩むことができるということだ。非難された娘が病室に隠してあった新しい銘柄の酒の小瓶を発見したならば、彼女は親族たちに対して明確に反駁できる。彼らは誤りうることの可能性、誤謬可能性に留まっている。しかし、フィクションの死者はそうではない。想像は完璧に正しい。なぜなら、現実に準拠する必要のない正しさだけを創造しているのだから。フィクションとは、決して誤らないで死者を召喚する稀有な術である。
赦し、約束、そして謝ること
アレントは赦しの対となる人の力能として約束(promise)を挙げていた。活動とは不可逆性のなかで他者に働きかけることだった。赦しは過去の取返しのつかなさを免除してくれる。同様の救済は、時間のもう一つの方位、未来に関しても用意されている。他者との関係が築かれる活動の時間において、未来は予めの目的=終焉を設けることができず、どうなるか分からない、一種博打のような不安を抱えている。これを不可予言性という。これに対応して、約束は、不確定な未来を他者とも調和可能な一定のビジョンへと収束させる。「自分自身を約束で拘束することにより、不確実性の大海――未来は本性上そうである――の中に、安全な小島を打ち立てるのに役立つ。このような小島がなければ、人間関係において耐久性はもとより、連続性さえ不可能である」。
過去‐不可逆性‐赦し。未来‐不可予言性‐約束。これがアレントの時間内活動論の要諦である。ただし、死者の国に関する二つのテクストの批判的読解から明らかになったのは、過去に目を向けた活動に関して、解き放つ力、あったことを仮構的になかったことにする力の背面には、ある特有の過去をより真実な過去へと縛り直す力、固め直す力が張りついていて初めて、赦しは己の本分を全うする、ということだったのではないか。過去への活動力は二重に分身している。別の言い方をすれば、過去を未来での約束のごとくに再収束させる力能がなければならない。
物の組織に囲まれて、誤謬可能性に曝されつづけること、即ち、誤ること/謝ること、これである。赦しの影に潜む謝罪。生者が死者を取り扱う手つきを別の生者が訂正する(し得る)機会が、赦しの時間を支えている。勿論、「無条件的な赦し」でもってナチスの蛮行を赦せなかったジャンケレヴィッチを批判したデリダならば、そのような不純な附帯物など、交換条件次第で取引されるエコノミーの産物にすぎないと反論するだろう。が、赦し(pardon)という贈与(don)は、モースをわざわざ引かずとも、受け手が負い目を感じたならばその純粋性を途端に毀損させる脆いものだ。と同時に、逆からいえば日常行われるどのような交換も、一方的な贈与に終わる危機と裏腹で存立する。二つを切り離すべきではない。
死者を想像する。それが誤っていたことを残存する物の組織が教える。そして、想像の誤りを謝る。訂正する。地上に生還したミゲルは、ヘクターをいままさに忘れようとしている――しかし、野暮なことを書けば、そんな瞬間を同定することなど果たして可能なのだろうか?――彼の娘(つまりはミゲルの曾祖母)ママ・ココに彼を忘れないよう必死に語りかけるが、空しく終わる。祖母からその非礼を「謝りなさい you apologize」と言い渡されたミゲルは、ギターを手にし、思い出の一曲「リメンバー・ミー」を歌うことでやっと、ママ・ココのなかに眠っていた父親との記憶を引き出す。謝罪の主体が反転する。音楽を禁じることで先祖への誓いを頑なに守ってきたはずの家族は、死者の取り扱いに関して大きく誤っていたのかもしれない。遺されたリズムが、誤ること/謝ることを教える。そして、忘れてはならないことは、そのリズムは数々のメディアに刻まれて語り継がれてきたからこそ、ミゲルの演奏にまで伝承されたということだ。
決して間違うことのないフィクショナルな死者の言葉から、翻って見えてくるのは、誤ってしかも謝ることができるという時間的存在者の驚くべき倫理である。
無意志的忘却
いまいちど、記憶のイチ/ゼロ的把握に戻ろう。死のなかの死を決定的な仕方で構成していたこの捉え方において、記憶に対置されるのは忘却だった。しかし、物の組織は、忘却の海のなかから突如として記憶のネットワーク内に浮上する可能性を死者たちに与える。だとするのならば、忘却とは記憶の反対、反記憶などでは全くなく、たとえば憶えすぎて思い出せないような別の仕方での記憶のストックなのではないか。ふだん自転車に乗るとき、補助輪つきで父親とともに何度も転びながら訓練した、あの幼い日々のことなど我々はわざわざ思い出さない。にも拘らず、そこで得た何ものかを憶えていなければ確かに自転車には乗れないのだ。
一足飛びにこういってしまおう。想起や記憶が肝心なのではない。忘却にこそ死者問題の最大の賭け金がある。忘却をスイッチのオフ(ゼロ)状態のように表象し、記憶の風化の手前でもって、なんとか個々人の信心や努力によって記憶を逞しくする、暗記のように脳裡に刷り込ませておくという道筋を採る限り、きっと我々は誤るだろう。誤ることは必然だ。が、同じ誤りを繰り返すことを人は一般に成長がないという。
風化のなかでさえ風が吹いているのを感じることができる。有名すぎて引用するのも気が引ける、プルーストのマドレーヌが既に教えている。小説家を志している「私」は、紅茶につけた菓子を口にした瞬間に広がる風味から、一挙に、コンブレーで過ごした幼い頃の思い出に襲われる。そもそもなぜマドレーヌなのか。父親の故郷のコンブレーにいた叔母が、かつて日曜にくれた菓子がそれだった、というかなり小さなフックに引っかかったからだ。「過去は知性の領域外の、知性の手の届かないところで、たとえば予想もしなかった品物のなかに(この品物の与える感覚のなかに)潜んでいる。私たちが生きているうちにこの品物に出会うか出会わないか、それは偶然によるのである」(「スワン家の方へ」第一部、鈴木道彦訳)。
マドレーヌはかなり偶発的な記憶のトリガーである。ゲルマント邸の中庭の敷石も同様。想起の地雷である。本来はトリガーになりえぬほど小さなフックが確かに記憶を呼び起こすとき、この背後では因果律を超えた、スイッチ回路の組み換えと拡散が生じている。そしてこれは、あるトリガーとある記憶を一対一対応させようとする暗記的照合に逆らって意想外に結ばれる、無意志的忘却によって初めて結構する。無意志的記憶は無意志的忘却とともの読まれねばならない。忘却がなければ、記憶は一つの鍵と鍵穴しかもたない抽斗のなかに後生大事に仕舞われるようなものになるだろう。想起がもつ感動的な起伏がないのは勿論のこと、そもそも記憶とはそのようなものではない。どこかに仕舞えるようなものではない。おそらくは、何かの欠如態のように忘却を理解することすら怪しい。ランダムに発生する忘却のなかで同じくらいランダムな物の助けを借りながら記憶は自らを再記憶化している。
誤ること/謝ること
『失われた時を求めて』の「私」は病気がちなため、作中かなり多くのページで窓際のベッドで横たわっている。当然のことながら、風によってカーテンが何度も揺れる。カーテンを織りなす襞が窓から入ってくる風を飲みこむたびにその凹凸の組成を変えながら、見える表面が窪み、見えない暗部がせり上がってくる。これは記憶と忘却に関する卓抜したメタファーである。凸面も凹面も同じ一つの布。
忘れっぽさが原因で我々はよく誤ってしまう。だから記憶を強靭にしておけば、そのような誤りは未然に防げるだろうと高をくくりがちだ。けれども、仮に忘却を忘れた超記憶が実現したとして、同時に彼らは謝罪、ひいては赦しという倫理的可能性を、単なる行為者の怠惰に帰してしまう重大な過誤を犯すはずだ。人間の記憶が欠陥を抱えているということは、独りではなく多数性のもとで活動するという公的領域での人間の条件になかっている。
死者を人質に自分の主張を正当化しようと齷齪する試みが後を絶たない。靖国参拝に意欲を示しつづける政治家や右翼だけでなく、政権に批判的であるとされる反体制派も、死者を語ることにどうやらご執心のご様子。死者の声を想像するのは自由だ。が、忘却を一方的な敵役にして記憶を称揚する杜撰な現代社会批評には、もはや耳を傾けないことにしよう。忘却なき記憶がありえないように、記憶なき忘却もありえない。忘却もまた記憶の重要なメンバーである。そして誤ったら謝ればよい。先人が遺した、単純だがそのぶん至難といっても過言ではない聖なる教えだ。