※注。新刊『仮説的偶然文学論』(月曜社)がとにかく売れてほしい。 そういうわけで、意気込みを示すために、ディズニー&ピクサー作『リメンバー・ミー』に関する評論を書き下ろした。あまり偶然と関係ないと思われるだろうが、「誤ること/謝ること」に関しては関係しなくもないだろうと思っている。読んで面白かったら新刊の方はこの3倍は面白いので是非買ってほしい。面白くなくても本は面白いので是非買ってほしい。是非買ってほしい。どうぞよろしく。

仮説的偶然文学論 (哲学への扉)
荒木優太
月曜社 2018-05-24





  かつて、お笑いコンビ・爆笑問題の太田光は、「私のお墓の前で泣かないでください」という歌詞で有名な『千の風になって』(二〇〇八年)を、死者の声を捏造した嘘の表現である、という理由で批判していた。そんなことを思い出しながら『リメンバー・ミー』を鑑賞した。

 ディズニーとピクサーの共同制作の体制でつくられた長篇アニメーション映画『リメンバー・ミー』、原題Cocoは、メキシコを舞台にした霊界行奇譚である。音楽嫌いの一族のなかで育ちながら、その教えに反して音楽の魅力にとり憑かれた少年ミゲルは、死者が現世に戻ってくるという(日本でいうお彼岸を連想させる)「死者の日」に、伝説的ミュージシャン・デラクルスの霊廟のギターを盗もうとした罪によって「死者の国」に迷い込んでしまう。生者の世界に戻るには、その国にいる自分の先祖、即ち「家族」に「赦し」を得ることが必要だと教わったミゲルは、現世から連れてきた犬、その名もダンテ――地獄と煉獄の案内役をつとめたウェルギリウスではなく、案内されていたダンテ!――とともに、自分の音楽を認めてくれる親族の霊を探し求める冒険へと乗りだしていく。

 メキシコ移民の悪魔化でもって自国との分断を推し進めようとしていたトランプ大統領を、図らずも結果的に皮肉るような、他民族へのリスペクトに溢れたこの意欲作に、些細にもみえる違和感を投げかけることは、或いは野暮かもしれない。けれども、『リメンバー・ミー』の表現が少なくとも私にとって挑発的に響くのは、おそらく、ハンナ・アレント的な政治思想の骨組みを「死者の国」で実現させようとしているところにある。


アレントの赦し


 アレント哲学の基本的骨格をまとめておこう。アレントは、人間の人間たる所以を、寝食のようなただ生きるだけの必要性=必然性に逼迫された、いわば動物の世界とは異なる次元に求めた。即ち、複数の人々が自分の言論や行為でユニークネスを顕現させる公的領域での活動である。

 活動と書いた。これはactionの訳語であり、アレントのアクティヴィティ三分割論の一画をなす。アレントは、動物的な生、身体機能を維持するための働きかけを労働(labor)と呼んだ。日々の生活で消費されてしまう労働に対して、ある程度の耐久性をもったモノづくりによって或る目的を実現させるための手段となる、また、自分の死後にも何かを残そうとする働きかけを仕事・製作(work)と呼ぶ。工業品だけでなく芸術作品創作もworkに括られる。

 このように活動は、他の二者と違って、独りよがりに物事を進める独居の人間には許されない。言い換えれば、自分とは異なる他者と出会い、その関係がどう転んでいくか分からない、にも拘らず一度遂行したら最後その過去は決して取返しがつかない、不可逆性を抱えた関係を生きねばならない。活動に内在するこの不安を手当てするために持ち出されてくるのが、「赦しの能力」である。アレントは次のように書いている。


「自分の行った行為から生じる結果から解放され、赦されることがなければ、私たちの活動能力は、いわば、たった一つの行為に限定されるだろう。そして、私たちはそのたった一つの行為のために回復できなくなるだろう。つまり、私たちは永遠に、そのたった一つの行為の犠牲者となる」(『人間の条件』第五章、志水速雄訳)


 改めて確認するまでもなく赦しは他者から到来する。「だれも自分自身を赦すことはできない」からだ。これと対になって働くもう一つの力能があるのだが、不用意にタームを増やすことで理解の妨げにならないよう、後段に譲っておこう。当面の目当ては『リメンバー・ミー』がねじれたアレントで構築されているのではないか、ということにあった。


靴を履かない


 ミゲル一家が音楽を呪うのは、元はといえば、高祖父が偉大な音楽家を夢みて家を出て行ったその無責任に対する、高祖母の非難に起因している。妻子の食い扶持(labor)を無視して自分の作品(work)の完成に専心する放蕩主人を見限った彼女が新たに生計を求め、のちに一族の伝統ともなったのが、靴づくりの仕事。ミゲルもまた家族一同から立派な靴職人になる将来を嘱望される。製作者ではなく労働者になれ、と。

 そんな彼が彷徨った霊界の先で出会うのが、ヘクターである。彼は「死者の日」に現世に戻ろうとするも、現世において誰も写真を祭壇に飾っていないため叶わない。死者は生者の世界で完全に忘却されると「第二の死」が訪れてその国からも消滅する。ヘクターに残された時間は少ない。こうして、少年の親族探しを手伝う代わりに現世で自分の写真を飾る、という交換条件のもと、ヘクターはミゲルに死者のメイクをほどこして二人の冒険が始まる。死者を演じるミゲル。アレントのactionとは、古代ギリシャ・ローマに範をとって、活動であると同時に演技を意味する。演じるためのペルソナを被ることで、公的空間で複数の他者と出会う契機が開かれる。製作者と労働者のあいだで揺れる少年は、ひとまず役者になることで、かえがたい自分自身へと立ち返る。

 劇中、ヘクターは靴を履いていない。のちに発覚するように、彼が家族を捨てて音楽の道に進んだ当の高祖父であった事実を鑑みれば当然のことかもしれない。いうまでもなく、靴は地に足のついた足に履かせるものだ。いや、肢と表記すべきか。menberの原義は本体から突き出た分肢である。靴づくりは、かくして家族のmemberか否かをはかる重要な試金石となる。家族を捨てて足が宙に浮いた、浮足立った浮浪者=不労者に、地上に降り立つために必要な靴を履く資格はないのだ。

 こうして、「もう赦しは求めない」と、家族ではなく音楽を選んだデラクルスの人生とは対照的に、三重の赦しが到来する。第一はミゲルに。少年の情熱を知った祖先の霊は音楽をふくめた無条件の赦しでもって現世に還ることを許可する。第二はヘクターに。若き日の過ちを反省し謝罪を受け入れた祖先たちは改めて彼を家族として迎える。そして最後に再びミゲルに。帰還した少年は、ヘクターの娘である高齢の曾祖母に、かつてヘクターが彼女に遺した楽曲「リメンバー・ミー」を歌うことで、失われつつあった記憶を復活させる。ヘクターは「第二の死」を免れる。家族のremember(想起)が家族へのre-member(再成員)に結ばれる。現世でも音楽は赦された。活動力は赦しに変換されて過失に対する再起の力を養うのだ。


死のなかの死という繰り延べ


 けれども、ここで躊躇してしまうのは、『リメンバー・ミー』の赦しの連鎖が「死者の国」を確実に仲介していることにある。祭壇に家出した高祖父の写真を飾ること、つまり死者を赦すことは分かる。だが、死者に赦されるとは、果たしてどのようなことなのか。

 アレントにとって、赦し(forgiveness)とは、活動の不可逆性を仮構的に免除して、過去の軛から解き放ち、まるで何事もなかったかのごとく新たな行為に臨む許可を与える一契機だ。けれども、そのような赦しが可能になるのは、過去のある一点において罪を犯してその後を生き延びる主体、そして赦されたあとに新たに生き直すことができる主体、時間的存在者に限られている。なぜならば、赦しの基礎をなす不可逆性とは時間の特性そのものだからだ。

 もし可逆的な時間のなかで生きることができるのならば、我々は他者を赦したり、他者に赦しを求めたりするのではなく、その過失の撤回や抹消を願うだろう。赦しとはだから、あのとき確実に起こったことを、いまやもうどうしようもないけれど、それでもなお別様であったらよかったと思える、思ってしまう、時間のなかで生きる存在者にしか許されない賜りものなのだ。

 では、死者は時間的存在者なのだろうか。おそらくはそうではない。死者の時は止まっている。或いは、定義的に止まるということが死ぬということだ、と言い換えてもいい。死ぬことが悲劇的なのは、更新可能性に開かれていたものがもはや永遠に閉ざされてしまうからだ。もしも死者が変わっていくようにみえるのだとしたら、死者を想像する我々の方が変化しているからに過ぎない。死者とは想像力の関数だ。想像力は時間を殺す。歴史とは、時間の死体のことである。そして、時間のなかで生きないのならば、赦しによる本来目当てにしていた活動の再起(=再活動)の機会は無為に帰すだろう。

 故に、『リメンバー・ミー』の死者たちは、本当の意味で死んでいない。生者の想像力の戯れで、マリオネットのように踊らされているだけだ。それは劇中でもある意味明示されている。本当の死とは、誰からも忘れ去られる「第二の死」であるのだから。が、ならば、本当の死とはなんなのか。本当に死ぬ、などということが果たしてできるのだろうか。

 或いは、もっと別様に問うべきかもしれない。問題は、できるかできないかではなく、無であるはずの死のなかになぜ死の死などという分節が生まれてしまうのか、ということにある。勘所は、生者と死者の交通を許すファンタジックな霊界の設定によって繰り延べされる仕方で、その奥所で、新しく望見されてしまう、本当の死、究極の死、「第二」性が特有のアウラを帯びて生成してしまう、その秩序形成にある。この(憶えている)死はあの(憶えていない)死よりも生きている、あの(憶えていない)死はそんじょそこらの死とは比べものにならない、メンバー予備軍からすら除外されたリメンバー不可能態がある……。こういった判断を支える等級の秩序にこそ、文学が他者を弔いたいという感情を通じて政治と密接に結びつく急所がある。


記憶のゼロ度?


 「第二の死」が、いささか疑わしく感じられるのは、記憶から排除されたものは永遠に復活することはない、という前提を無批判に採用しているようにみえるからだ。

 たとえば、アレントは製作と活動を一方では対立的――一なるものと多なるもの、完成したものと未完なまま開かれたもの――に紹介しながらも、他方、労働がもっていたような、その場限り性、つまり時の風化の力に関して、製作的機能が活動の偉大な記憶の伝達を補助するという共立的な契機を忘れていなかった。

 そもそも、活動において他者への訴えかけで用いる常套手段の言語は、決して透明な媒体で用いられるわけではなかった。詩は不滅の詠唱を願う。が、そのためには不可避的に消滅可能性に曝される紙や石といった物質的なメディアに自身を託さねばならない。「記憶、すなわちミューズの神々の母であるムネーモシネーは、直接記録に変形される」。「詩は、詩人と詩人に耳をかたむける人びとの記憶の中に、生きて語られる言葉として長く存続してきた。しかし、その詩でさえ、結局は「作られる」であろう。つまり、詩は書かれ、なによりもまず触知できる物に変形されるであろう」。この「物」の次元、記憶ではなく記録の次元は、製作によって司られている。ベルナール・スティグレールならば、フッサールの第一次過去把持(知覚)と第二次過去把持(想起)から区別して、第三次過去把持(外在化した記憶)と呼ぶだろうものだ。

 アレントに従えば、活動は公的領域の他者に対して言葉を使うだけでなく、「製作が触知できる物を生産するのと同じくらい自然に」、物語をつくって後世に或る活動者のユニークな伝記を残すことができるという。文書や記念碑といった物化された(製作的)物語と活きたリアリティに満ちた(活動的)物語はアレントのなかで一応は峻別されている。たとえば、演劇の台本として読まれる物語は単なる筋立ての再現にすぎないが、それを役者が舞台で演じるときにおいて封じ込められたリアリティは再活性化される。

 ただし、他者との活動の予見不能な変転を物語化するためには、あらゆる台本に終わりがあるように、一応の目的=終焉(end)を設けなければならなず、その力能は極めて製作のそれに近くなる。物語の主人公(=活動の主役)を最後まで看取れるのは、活動に集中している当人ではなく、彼を俯瞰した視点から眺める物語作者であり、それは製作者の力を借りなければ成し遂げることのできない仕業である。

 さて、「第二の死」のアイディアは、生者の記憶の存在を、有るか無しか、イチ/ゼロの関係で捉えているようにみえる。記憶と完全なる忘却が対置されている。現世での記憶総計が無し(ゼロ)になれば、死者の国での生存は許可されず問答無用で消滅してしまう。死者の国とは、死の手前の死として、このゼロの想像力に分節されているといってもいい。

 しかし、繰り返すが、ゼロなど本当にありうるのだろうか。


物の組織


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(ジョン・ラセター+ リー・アンクリッチ+エイドリアン・モリーナ『ジ・アート・オブ・リメンバー・ミー』、富永晶子訳、学研プラス、2018、p.119から引用)

 アレント哲学では、「物」の次元に刻まれ蓄積された記憶/記録を、生きた読者が再活性化することを通じて、世代を超えた活動の分有や継承が可能になる。ならば、仮に全く記憶されない死者がいたとして、たとえば、『リメンバー・ミー』にはヘクターの歌に見送られながら砂のように消えて「第二の死」を迎えた身寄りのないチチャロンという死者がいるが、なぜ地上にある物の組織が何かのきっかけを経て彼を復活させることがありえないといえるのだろうか。

 ミゲルとヘクターはチチャロンからギターを貰い受ける、つまり生前彼もまた売れない音楽家だったように見受けられるが、遠くない未来、その曲が遡行的に発見されて、人々のあいだで記憶が甦り、彼を(死者の国で)生き返さないとなぜいえるのだろうか。或いは、もっと大胆に、彼が更新したFacebookのページや、ある日投稿したTwitterの一文が、なにかのトラブルで世界中に共有(ルビ:シェア)されるようなことはありえないのだろうか。

 今日のウェブ環境はときおり、とりわけて有名人というわけでもない、テレビに一瞬写ったような一般人(無名者)の活動を、正にユニークであるという点で捕獲(ルビ:キャプチャ)し、累乗的転送とパロディ的変形を繰り返す。ゲームが思うように進行しないことに激怒して絶叫とともにキーボードを叩き壊す「キーボードクラッシャー」の異名をもつ少年。大雪警報のなかで「恋人といる時の雪って特別な気分に浸れて僕は好きです」と応えるカップルの片割れ。年金の世代間格差に関して「自己防衛」「国なんかあてにしちゃだめ」とキメ顔で説く占い師(という属性が後に発覚した)。或いはまたユーチューバーたちやフラッシュモブのゲリラ的なカメラのアングル――これらの例がよく分からなければ手元にあるパソコンで検索してみることをお勧めする――。明らかに記憶/記録に残ろうと企図しなかったものたちが、幸か不幸か、世界中に拡散され、記憶のエントリーに強制的に参加してしまう。

 物の記録が残る限り、流行を凌いだとしても安心していられない。第二次、第三次の飛散(ルビ:バズ)が、いや、そもそも最初の発火さえも時間差を経てなお、いつ起こるのか、誰にも分からない。その包囲網からは死者さえも逃げられない。死者こそ、というべきか。二〇〇六年以降、インターネット上でのプライヴァシー侵害に関して「忘れられる権利」、情報消去権が提唱されてきたが、おそらく死者はその権利にあずかる主体性をもっていない。

 実際、かつてヘクターとともに音楽活動をしていたデラクルスの代表曲「リメンバー・ミー」は、元はヘクターが自分の娘に宛てて作曲したものであり、デラクルスは彼を殺して曲を盗み名声を手に入れたのだったが、その真実を知ったミゲルは地上に帰還したあとで高祖父の汚名をそそぎ、名誉を奪還することに成功する。わざわざ霊界に行かなくとも、技術の進歩によって、匠による名画と呼ばれていたものが実は別の作者の業であったことが翻って発覚する場面に我々はしばしば出くわす。

 アレントの活動論は、しばしば差別的だと評される。労働に縛りつけられたプロレタリアート、先天的な身体性によって上手く言葉を操れない障碍者、そして育児や家事に追われた女性、公的領域は彼らを排除しているのではないか。解釈の妥当性とは別に、仮にこれを受け入れたとしても、写真や動画などふくめて非言語的にも展開する今日の物の組織は、歴史の主人公たちの偉大な言論なしに後世の記憶に残り得る手段をバリエーション豊かに取り揃えている。記憶の選民主義から民主的革命へ、または記憶のポピュリズム。いずれにせよ、この世に残存した物の組織は、記憶をイチ/ゼロで捉えることで成り立つ「第二の死」の想像力に明確に抗っている。

(後篇へつづく)