キェルケゴール肖像(出典:Wikipedia)
セーレン・キェルケゴール(1813-1855)の名前を初めて知ったのはいつだったろうか。ぼくがハイティーンだった頃に流行ったアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の第拾六話のサブタイトル「死に至る病、そして」がきっかけだったのだと思う。TV版エヴァの後半は、登場する主要なキャラクターたちが、その実存に悩み苦しみ、徐々にストーリーが劇的に破綻していく展開で印象的だった。それはともかく、エヴァの劇場映画が公開された1997年ころぼくはこの作品にかなり熱中していたので、『死に至る病』というキェルケゴールの著作があることはすでに知っていたはずだ。しかし、手を伸ばして読もうとはしなかった。おそらく、その必要を感じなかったからだろう。
出典:pandora.tv
それから20年ほどが経過した今年(2018年)の3月末に、そんなキェルケゴールの『死に至る病』をふと手にとった。新訳が前年に講談社学術文庫から出ていたことは知っていたし、読みやすいのではないかと期待もしていた。2010年にハイデガーの『存在と時間』を再読しかけたことをきっかけにーただちに再読し終えるほどそれは平易ではなかったー実存主義の思想に関心を持ち続けているし、その起源としてキェルケゴールが挙げられることは承知していたからだ。鈴木祐丞(ゆうすけ)さんによる新しい訳は素晴らしく、とても興味深く読んだので、すぐに読書メーターに感想を投稿した。その内容は次のとおりだ。
セーレン・キェルケゴール/死に至る病(講談社学術文庫)
死に至る病=絶望=不信仰=罪。本書をひとくちで言えば、絶望変奏曲だ。神を信じられないことに悩み苦しみ七転八倒し続けるキェルケゴールこそ、真のキリスト者であるようにぼくには思えた。第2編が、実にプロテスタントの教えを原理的に突き詰めた感があって、面白かった。素晴らしく読みやすい訳文と丁寧な註の数々、そして解説も明晰で素晴らしく、キェルケゴール入門に最適では。絶対的な価値を信じられず、苦悩に生きる現代人にも読む価値があるのは、彼の絶望へのまなざしの確かさと深さに裏打ちされたことばが、つむがれているからである。
ぼくはこの本を読んで、キェルケゴールの人物とその思想に激しく惹かれた。同時期に冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』(岩波書店)も読んでいて、彼女との共通点に突き当たったこともある。キルケゴールもヴェイユもふたりとも異常に生真面目な人間で、じしんのキリスト教信仰をテコに、独自の思想的領域、いわば「ひとりキリスト教」とでもいうものに達している印象を受けた。彼らは言うまでもなく、現世ではとても生きにくい人間だった。ちなみにキェルケゴールは42歳で、ヴェイユは34歳で共に早逝している。それぞれが自らの極めてユニークな思想をその内面に発火させ、文字通り短い人生を燃やし尽くしたのだろう。
さて、というわけで、キルケゴールの入門書、研究論文集、研究書を順次図書館で探して読んでみたので、以下に紹介を試みる(元の投稿はすべて読書メーター)。
工藤綏夫/キルケゴール(Century Booksー人と思想、2014年新版)
大谷長監修/キェルケゴールと悪(東方出版、1982年)
ボイムラーとクローナーの論文が、ヘーゲルとキェルケゴールの関係を集中的に論じていてとても役立った。キェルケゴールがヘーゲルに多大な影響を受け、批判的にその思想を形成したことを知れた。『精神現象学』を読むと、キリスト教を誉めていたヘーゲルが突然最後の方で哲学最高と騒ぎ出すのだが、キェルケゴールにとっては反対で、全ての頂点にキリスト教(信仰)がある。ヘーゲルとは逆で、思惟よりも信仰なのだ。これはクローナーの指摘とも一致する。ボイムラーのキェルケゴールの「悔い」が非社会的との批判は全くその通り。
G・マランチュク/キェルケゴールの弁証法と実存(東方出版、1984年)
本書の要諦は前半部から中盤にかけてのキェルケゴールの質的弁証法の分析である。彼はヘーゲルを批判的に受容し独自の宗教思想を打ち立てたので、本書に触れることはキェルケゴールの分析を通じてヘーゲル弁証法の入門にも役立つ。後半では類稀なる単独者キェルケゴールの生涯にわたる全思想の変遷を、包括的かつ丁寧に見てゆく。浩瀚な研究書だが、大変勉強になり、楽しい読書だった。翻訳はデンマーク語翻訳の時代的制約もあるのだろうが、お世辞にも良いとは言えない硬〜い直訳調で、読み通すには文体に慣れる時間と多少の忍耐力が必要だろう。
読む順番はこのとおりで良いと思う。1冊目の入門書のキルケゴールの作品を、その宗教哲学のみに基づいて審美的作品、哲学的作品、宗教的作品と分類する捉え方に他の研究者から批判はあるが、初心者のキルケゴール理解にとっては有用だろう。2冊目の論文集は通読することで、キルケゴールが、19世紀当時ヘーゲル哲学の大きな影響下でその弁証法を批判的に受容し、彼自身の思想を打ち立てたことが分かるようになっている。3冊目の研究書では、そのキルケゴールの弁証法(質的弁証法)がヘーゲルのそれ(量的弁証法)とどう異なるのか、また彼の膨大な著作の変遷を概観することができる。
ここまで読んだ上で「弁証法って何?」と思った方には仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠』(ちくま新書)第2章での弁証法の解説がとても平易で役立つと思うので、ぜひ参照してほしい。既存の書籍ではこのあたりまで読めばそれなりに満足できるのではないかとも思うが、さらに有用な論文がいくつかあるため以下に紹介してゆこう。
田辺保/キェルケゴールとシモーヌ・ヴェイユ(『キェルケゴール研究』6・1969年所収)
「地上的なものの絶対視を避けることができるのは、真に永遠性との関連が見出されるところにおいてのみであり、そこからはじめて、匿名の愛、普遍への愛が生じるのである」とし、キェルケゴールとヴェイユのキリスト者としての特異な共通点を指摘する。ちなみにマリー・マグドレーヌ・ダヴィ『シモーヌ・ヴェイユ入門』(邦訳は田辺による・1968年)ではキェルケゴールとヴェイユについて論じられており、キェルケゴールとヴェイユについて論じているものが少ない中で貴重なものと思われる。
田辺によれば「ダヴィの精細な調査にもかかわらず、彼女の公刊された著書、ノートなどにはまったくその名を見出すことができず」「文献的実証の手続きをふんで、相互影響の痕跡を丹念に探索することもほとんど望み薄と考えられる」らしい。残念!!
林忠良/キルケゴールのルターへの言及(1)(関西学院大学編『キリスト教学研究』11号・1990年所収)
「カール・ホルのルターに関する有名な講演「ルターは宗教のもとで何を理解していたか」(1917年)におけるキルケゴールへの言及を契機」として、「「ルターとキルケゴール」という論題、ないし「ルターとキルケゴールの関係」という問題は」「真に問題として提出されるに至った」とし、「ルターとキルケゴールとの関係を考えるための基礎的作業として、キルケゴール自身によるルターへの言及を、公刊著作および日誌記述から取り出し、訳出を試みようとするもの」。合計45ページにわたる力作で、キルケゴールの中で大きく揺れるルターへの評価を適宜翻訳した上で論述しており、キルケゴールのルター観を日本語で知るには必読の資料と言えるだろう。論考最後の(未完)の二文字に涙。
鈴木祐丞/キェルケゴールの信仰と哲学(MINERVA人文・社会学叢書、2014年)
1848年にキェルケゴールが得た宗教的体験を軸に、彼のキリスト教信仰の変容を著作(主に『死にいたる病)と日誌journalを繊細かつ緻密に読み解くことで明らかにする労作。本書を読むことでキェルケゴールが42年の生涯をいかに燃やし尽くしたかということも、きわめて自然に伝わってくるようにまとめられている。彼特有の術語についても、詳細かつ丁寧な定義がなされており、著者の博士論文を改稿したものではあるが、専門外の読者でも意欲的であれば、興味深く読めるだろう。最後には、著者の訳書にも通じる、研究対象への篤実かつ誠実な、深度ある姿勢が浮かび上がってくる。なお、本書については『宗教研究』誌(89巻3輯・2015年)に中里巧による書評がある。
ここまで読んで、もしかするとルターについて関心を持った方がいるかもしれないので、蛇足かもしれないがルターの評伝について触れておくと、E.H.エリクソンによる『青年ルター』(全2巻・みすず書房)は読みやすくて勧められる。ただし、著者はフロイト主義に基づく精神分析の手法を用いて、ルターの心理を分析していくため、読者によって好き嫌いははっきりと分かれると思う。その点ご注意頂ければさいわいである。
(おわり・文中一部敬称略)
編/構:東間 嶺@Hainu_Vele