(前編から続く)
今の会社に入社して最初の一週間は研修だった。会社のことだけじゃなく、ティフアナでの運転や電話のこともいろいろ教えてもらわないといけなかったので、マンツーマンでトレーナーがついてくれたのはありがたかった。
私が使っているアメリカの携帯電話は、国境を越えたメキシコでは電波を受信しない。なので、携帯電話ショップに連れて行ってもらって、メキシコの安価な携帯電話を購入した。その帰り、コンビニに寄ってコーヒーを買ったのだが、私の財布には大きな金額の紙幣しかなく、コーヒー代を払う小銭がなかった。
ここでトレーナーにコーヒー代を払ってもらうのに言い訳をする必要はなかったのかもしれないけど、当たり前みたいな顔をするのも嫌だったので、彼に「国境の人たちにあげちゃったんで、小銭がない」と言った。
「あんな奴らに金をやっているのか?」
彼は呆れたように言った。
「国境の車の周りで歩いている人たちにお金をやる必要はないよ。白い服を着てる人たちにも、やる必要はないんだよ」
救世軍の募金なのだと思うが、国境で入国審査を待つ車の列のあいだを、白い服を着た若い男性が何人も歩いている。何年も前、そういう男女をロサンゼルス空港の出発ロビーでよく見かけたが、いつの頃からかいなくなった。彼らが旅客に寄付を募るあいだ、空港の館内放送がいろいろな国の言葉で繰り返し説明していた。
「空港内で寄付を募っている人たちは、空港とは何の関係もありません」
あれは一体何なのか、不思議に思ったものだった。もしかして、救世軍のニセモノなのだろうか?救世軍はともかく、国境の物乞いにお金をやらなくていいというのは、どうしてなんだろう?
別の日、メキシコ人の友人と話した時に、国境の物乞いや物売りについて聞いてみた。彼の話によると、国境地帯にたくさんある輸出用の製品を作る工場は、もし求職者がやってきたら健常者・身障者にかかわらず雇わなければならないのだそうだ。だから、仕事がなくて物乞いするなんてあり得ないという。ああいうところで物を売ったりしている人たちは、毎朝決まった時間に起きて働きに行く生活ができないだらしのない人たちで、子供たちもあんなところで小遣いを稼ぐのではなく、お金はもらえなくても学校に行って、将来はきちんとした仕事に就くべきだと力説した。
この友人は私を上回るカタブツだ。米国人がああいうメキシコ人を気の毒に思ってお金をやったり物を買ったりするから、彼らはいつまでたっても自立できないのだと、半ば憤慨しながら彼は言った。この人は温厚な人物で、何かに対してここまで不寛容な態度を示すのを初めて見た。自国の至らない点を外国人の私に指摘されるのは、彼にとっては地雷だったのだろうか?
ああいう人たちが国境地帯の工場で働いた場合、いくらくらいお給料がもらえるのだろう?
ネットでメキシコの最低賃金を調べた。日給88.36ペソだ。メキシコの標準労働時間は一日8時間で、これには食事のための休憩時間が含まれている。つまり、休憩している時間も「労働時間」としてカウントしてもらえる。一週間の労働時間は48時間で、基本的に週6日勤務だ。ひと月の所得はどれくらいになるだろう。稼働26日として、日給88.36ペソ×26日=約2,300ペソになる。ここから税金や社会保障費を差し引いて、手取りがどれくらいになるのかわからないけど、90%もらえるとして、2,300ペソ×90%=2,070ペソが毎月の手取りになる。現時点の為替レートで、11,500円くらいだ。メキシコは家賃や食費は米国と比べれば安く、米国と違って公的な医療保険もある。それでも、この給料で十分ということはないような気がする。
私の勤め先の社員食堂の掃除をしている女性は、日給120ペソだそうだ。最低賃金よりは高いけれど、特別な技能や経験が要求されない仕事のお給料はこんなものなのだろう。
私が物乞いにお金を渡すとき、5ペソの硬貨があればそれを渡す。なければ2ペソの硬貨や1ペソの硬貨を渡すことになるけれど、「相場」はこんなものじゃないかと思う。ということは、もし施しの金額がいつも5ペソなら、1日18人から施しを受ければ、最低賃金で働いている人と同じお金を手にすることができるのだ。税金も社会保障費も払わないから、最低賃金で働くより割がいいかもしれない。
2カ月間彼らの様子を見ながらの通勤して、彼らを見ることに慣れてしまい、何も感じなくなったということはない。でもあの人たちのことを何となく納得できるようになってきた。彼らと会話する機会はほとんどない。それでも時たまお金を渡したり、列を作って並んでいるその先にある入国審査ブースが開いているのかどうか教えてもらったり、そういう時の短いやり取りから、彼らも私と同じように毎日の生活の心配や苦労があるのだと思えるようになってきた。拒絶するのではなく、かといって片っ端から施しをするのでもなく、自分がそうしたいと思った時に小銭やお菓子を渡せるようになってきた。
あるとき、2列に並んでいた車が合流しなければいけないことがあった。左側のブースが開いていると思って直進した車が、そのブースが開いていないので、右列に割り込みし始めた。後続車があるので、バックして右列に並びなおすことができないだ。真面目に並んでいた右列のドライバーは当然、面白くない。左列の車が割り込みしようとするたびに、クラクションの音がうるさく響き渡る。
でもこういう時はしょうがない。私は右列に並んでいて、左隣の車を一台、自分の前に入れようと思った。でもその車はいつまでたっても右列に合流してこなかった。なので、私の前に3メートルくらいの隙間ができた。左の車が合流してくる可能性があるので、私はその隙間をそのままにしておいた。
私の後ろは男性が運転するピックアップトラックだったのだが、私が隙間を詰めないのが面白くないらしく、私の車のすぐ後ろまで接近してクラクションを鳴らし続ける。隙間を詰めたって3メートルしか進まないのに、どうしてそんなことをするのかと思う。車間距離がほとんどない状態で威嚇的にクラクションを鳴らされるので、正直言って恐ろしかった。
ちょうどその時、私の車のすぐ横を、救世軍風の白い服を着た男性が募金箱を持って通りかかった。後続車への恐怖もあって、何かせずにいられなくて、私はその男性の募金箱に小銭を入れた。白い服の男性は私に礼を言って、私の後ろの車へ向かっていった。ドアミラーで後ろを見ていたら、意外なことに、ピックアップの男性も募金していた。そしてそれからは、車間距離は開けてくれなかったものの、クラクションは鳴らさなくなった。
私が募金するのを見て、自分もかっこいいところを見せなきゃ、と思ったのだろうか?そして、募金したら、募金するような心の優しい自分が、クラクションを鳴らし続けるような乱暴なことをするのはおかしいかも?と思ったのだろうか。
私は白服の男性に助けられたのかもしれない。
私の友人が主張するように、もし国境の車のドライバーたちが物売りから物を買ったり、物乞いにお金を渡すのをやめたら、彼らは仕方なく働くようになり、もらったお給料で暮らすようになるのだろうか?
私はそうは思わない。
彼らにしてみれば、それができるんだったら苦労はいらないよ、ということなんじゃないかと思う。国境で物を売ったり物乞いできなくなったら、多分どこか別のところで、同じようなことをしながら暮らしていくんじゃないだろうか。
ずっと前に読んだマネジメント関係の記事で、興味深いものがあった。どの集団にも必ず一定数の「使い物にならない人」というのがいて、そういう人たちを解雇しても、それまで使えていた別の人たちが、新しい「使い物にならない人」になってしまうのだという。
自然の摂理というのはそういうものなのかもしれない。自然な状態でリンゴの木を育てたとして、花が咲いて実がなって、秋になり、虫がつかなくて大きさもまあまあで、何とか食べられそうというリンゴは全体の何割くらいなんだろう。残りのリンゴは、「使い物にならない」。
そういう「役立たず」にも何らかの役割があるに違いない、と考える人もいる。人類学や社会学が「役立たず」に意味を与えるために、いろいろな研究をしている。それは有意義なことだと思う。一見無駄に見えるものにも、何らかの存在理由があると考える姿勢は、健康な社会には欠かせない。
でも私は、どうして私たちはすべてのものに意味を与え、理解したいと願うのか、不思議に思うようになってきた。
国境の人たちを対象に人類学や社会学や心理学の調査研究をしたとして、その結果をもとに、私たちは何をすべきなのだろう。まんがいち有意な調査結果が得られなかったら、どうすればいいのだろう。
科学的な態度は、あらゆるものに説明を求める。理解できないものを放っておけないのは、人間の習性かもしれない。国境の人たちについて心地の悪さを感じるのは、彼らを理解できないからだ。
理解できないものをそのまま受け入れるのもひとつの方法だと、みんなが思うようになったら、世の中もずいぶん変わると思う。私たちは、そういうことができるはずだ。何かが好き、あるいは嫌いという時に、理由なんかどうでもいいというのは、当たり前のことなのだから。
(編/構成/写真補正:東間 嶺 @Hainu_Vele)