DSC02641
ロングビーチのチベットセンター


前編から続く)

死について


人間が生きているあいだ、意識と身体は分かちがたく結びついている。でもそれは別々のものなので、ある時点で分離することになるが、それが死だ。ダライラマは、その関係を馬と騎手に例えて説明する。意識は騎手で、身体は馬だ。乗馬するためには騎手は馬が必要だし、馬のほうも騎手がいなければ走れない。馬を下りた騎手は、また別の馬に乗って進んでいくが、それが転生だ。違う馬でも、乗っている騎手は同じだ。


意識と身体の離別はとても辛い。生まれた時から片時も離れたことがない自分の身体と自分の名前を手放すことになる。長い間共に過ごした家族や友人、大事な思い出、大切にしていた所持品ともお別れだ。でも自分が自分でいることを完全に止めることができるのは、死ぬ時くらいかもしれない。だからこそ思惟を深める機会にもなるのだろう。


わかりきったことだが、死ぬ時は一人だ。死ぬという大仕事を、一人でやり遂げないといけない。家族や友人に囲まれて死ぬ場合でも、手伝ってもらうことはできない。残される側も同じで、死んでいく人がどんなに愛しくても手伝うことはできない。死ぬのが二回目という人はいないはずで、誰でも初心者だ。ダライラマは「自信を持って死ね」と言う。自分がちゃんと死ねるという自信を持つために、生きている間に修行を積まないといけない。本番であわてないように、僧たちは自分の死をシミュレーションする。どうするのかというと、瞑想の時に自分が死ぬ時の状態をイメージするのだ。パンチェン・ラマの17節の詩も、死後のプロセスへの興味に応えるためではなく、そういうイメージトレーニングに使われるのだろう。


死んでいる時間


病院で医師の立会いの下で亡くなれば、診断書に「何日の何時何分に死亡」と書くだろうから、死というのは「生きている状態」と「死んでいる状態」の間の一瞬のことのように思える。でもダライラマが説く「死」は、それよりもずっと長い、何日もかかるプロセスだ。その描写は細かく、生きている人間からそんな話を聞くのは本当に不思議で作り話みたいだが、死はまず、身体の機能が少しずつシャットダウンするところから始まる。感覚も機能しなくなり、臨床医学的な死を迎える。そのあいだ意識は様々なプロセスを経て身体を離れ、場合によっては「夢の身体 dream body」を得てあちこちに出かけ、そのあと新たな身体を得て生まれてくる。人間として生まれ変わる場合は、母体の中で卵が受精した時に意識も宿るのだという。その時点で、「死」は終わる。



人間として生まれること


転生のサイクルから解放されない限り、意識はまた身体を得て生まれてくる。次に何に生まれてくるかは、死ぬ前の行いにもよるが、死の期間中の行状も大きく影響する。ダライラマは正しく死んでより良い転生を得ることを勧めている。一番おススメなのは、人間だ。人間の暮らしに嫌気がさしている人は、この次は鳥や植物に生まれ変わって気ままに生きたいと思う人もいるだろう。でもチベット仏教的には、人間に生まれたほうがいい。


人間に転生するのを望むのは、人間が高等な動物で快適な生活が送れるからではない。修行ができるのは、人間だけだからだ。動物や魚にも機会がないわけじゃないそうだけど、そういう生き物は瞑想したり人間の言葉で講話を聴いたりすることはできない。私は先日たまたま、カマキリについて調べたのだが、生きて動いているものしか食べないそうだ。カマキリを飼う場合、エサなりそうなものを置いておいても、動かないので食べない。カマキリ同士で共食いもするので、複数のカマキリを一緒に飼育するとお互い共食いしてしまう。私がもしカマキリに生まれ変わったら、仏教の修業をするなんて不可能だ。


智慧と動機


英語で仏教を学ぶ場合、日本語と同じようにキーワードがある。マインドフルネスという言葉は今は一般化したけれど、仏教のコンテクストの外ではあまり使わない言葉もある。Impermanence 無常、karma 業、equanimity 平静さ、compassion 慈悲などの言葉は、一般的な事柄を扱った文章ではあまり目にしない。私の個人的な印象だと、チベット仏教で強調されるのはwisdom 智慧とmotivation 動機だ。その一方でenlightenment 悟りやliberation 解脱はあまり強調されていないような気がする。


ちょっと古いけど、広辞苑第5版(2005年)では、仏教における智慧をこんなふうに説明している。

 


②〔仏〕(梵語
prajñā般若。普通「智慧」と書く)真理を明らかにし、悟りを開く働き。宗教的叡智。六波羅蜜の第6。また、「慈悲」と対にして用いる。

 

広辞苑の記事にある「悟りを開く」という表現は、ドアが開いてさっと光が射し込むような印象だけれど、チベット仏教では智慧は勉強と実践によって少しずつ育まれると教えている。英語でtry and errorという表現があるけれど、あれこれ試行錯誤しながら体得するイメージだ。智慧が重要なのは、それがないと物事の良い悪いを判断することができないからだ。世の中の事象には白黒つけられないものが多い。これはよくて、あれは悪いと、言葉ではっきり決められないことが多いのは、誰でも感じることじゃないだろうか。高齢者の運転免許や電車でのベビーカーの利用、保育園の騒音など、例を挙げればきりがない。死の期間を過ごす間、正しい道を歩んでいくためには智慧が必要なのだとダライラマは言う。これは生きているうちにたくさん失敗して本番に備えるしかなさそうだ。


そしてチベット仏教で智慧よりもさらに重要視されるのが修行の動機だ。書かれた文章でも講話でも、修行をするのは自分の利益のためではなく衆生を助けるのが目的なのだと、繰り返し強調する。善行を行う場合も、純粋に利他的であることが重要で、見栄や打算、売名など動機が不純だと、徳としてカウントされないそうだ。他者のために修行をするという宣言は偽善的だけれど、修行を正当化してくれる。自分の利益のために修行に打ち込むより、やりやすいと思う。でも私くらいのレベルだと「衆生を助ける」となると話が大きくなりすぎで、気軽に口にしたり書いたりできない。そして正直なところ、そういうふうにも感じていない。でもいつかそのうち、納得できる時が来るのかもしれない。


修行と転生---結びにかえて


ダライラマとチベット弾圧の顛末は知っていても、「チベット仏教」というとイメージのわかない人が多いのではないだろうか。また日常生活とは別の次元を探求するような宗教だと感じている人もいるかもしれない。自然の力が圧倒的で、それに従って生きていくしか選択肢がないような土地で発展したチベット仏教の教理には、現代の都会に住む私たちのマインドセットに合わない部分もある。それが私たちの目に「超自然」に見えるのは仕方ないけれど、チベット仏教は日常の生活に応用できそうなことも丁寧に教えてくれる。その一方、抽象的なトピックについて討論したり理論を追究したりするのは仏教を学ぶスキルを身につけるうえで大切なことなのに、それを英語で行うのはハードルが高くて、私はお手上げ状態だ。

修行が中途半端なので、今の時点で死んでしまうと、死んでいる間に迷子になってしまいそうだが、どんなに不出来な意識でも必ず「転生」する。だから次はカマキリかもしれないし、また人間かもしれないし、いずれにしてもまた苦労しながら生きていくのだろう。

 

DSC02680a




(2018年4月)