仏教の勉強を始めて日が浅い今の時点で、こういうものを書いて公開するのが妥当なのかどうか自信がなかった。でも、何年勉強しても完璧な自信がつくとは思えないし、それだったら今の時点で考えていることを書いておいてもいいかもしれない。また、米国に住んでいることもあり、英語で仏教の勉強をする機会に恵まれているが、(難しい漢字の言葉が出てこないのはありがたいけど、どういう意味なのか想像がつかないパーリ語やチベット語の言葉が出てくるという苦労がある)英語で勉強した仏教の話を、日本語で書いてみたいとも思った。私の心の中にある。仏教はこういうもの、という日本文化の枠内でのイメージは、今英語で学んでいる仏教のイメージと違う。そのギャップを、少しでも埋められるかもしれない。
最近転職し、通勤時間が長くなった。勤務時間も長くなり帰宅が遅いので、夜の瞑想はしていない。そのかわりに通勤の間、車を運転しながら仏教の講話を聴こうと思ったのだ。私は音楽が嫌いになったということはないのだけど、最近はほとんど聴かない。音楽は人間の注意をひきつけるために特別にデザインされた音で、音楽が聞こえるとそれを無視することができず、疲れてしまう。100%わからなくても講話の録音を聞いているほうが気が楽で、この2年くらい運転中はたいてい瞑想センターの講話の録音かパーリ語のお経を聴いている。ただ、もう何周も聴いてしまったこともあり、チベットセンターで聞いているようなチベット仏教の講話を聴いてみたいと思った。
インターネットには仏教の講話の動画がたくさんアップロードされている。でも動画は運転中の視聴には不向きだし、私は動画を車の中で再生するようなデバイスは持っていない。どんなフォーマットのコンテンツがいいか、いろいろ考えてたどり着いたのが、オーディオブックだった。これは書籍を朗読したCDで、自治体の図書館で借りることができる。『Buddhism』をキーワードにして図書館の蔵書目録を検索したら、思ったよりも蔵書があった。仏教の概説や瞑想法についてのオーディオブックもあったけど、仏教で扱うトピックについて説明している「講話」系のアイテムをいくつか借りた。そのうちのひとつが、ダライラマの、『Advice on Dying, And Living a Better Life』だった。
オーディオブックはCD5枚組で、収録時間は約5.5時間。ダライラマ14世の著作となっているけれど、実際に文章を作成したのはジェフリー・ホプキンズという人物だ。ホプキンズは米国人で「編集・翻訳者」としてクレジットされている。ちなみに、オーディオブックのナレーションもホプキンズだ。CDの最初のトラックは「まえがき」で、それによると、ホプキンズは米国でチベット仏教とチベット語の勉強を始め、その後、ダライラマの下でも長く学んだのだという。
チベット仏教の「講話」は、日常生活のヒントになるようなことをお坊さんが話すこともあるのだろうけど、私が通っているチベットセンターだと、過去の高僧が書いた「書物」について注釈の講義をする。現実離れしたことばかり書いてあるような文章でも、私たちの心に普通に起こっていることを表現しているのだと、お坊さんが教えてくれる。
そういう講話の題材になるような書物のひとつに、初代パンチェン・ラマが17世紀に記した17節の詩がある。臨終のプロセスと、その際に必要な行動について説明した文章だが、英語へは翻訳されていなかった。チベット語を読むことができるホプキンズはその文章に感銘を受け、ダライラマにその書物について解説するよう頼んだのだという。ホプキンズがダライラマのチベット語の話を録音し、文章に起こし、英語に翻訳して編集したものが原著だ。
図書館で借りてきたオーディオブックの外装に、翻訳・編集をした人物がナレーションもしていると書かれているのを見て、正直なところ不安になった。たとえ母語であっても、ナレーションは決して簡単ではない。仏教の講話の録音で、文章を読みあげるタイプのものは、ナレーションの質がいまひとつだと、理解も進まないしイメージもわかない。素人のナレーションで大丈夫なんだろうか?
CDを再生すると、ホプキンズの英語は私が苦手な米国東海岸のアクセントで、決して早口ではないが理解するのは大変だった。これを5時間半聴くのは苦労だなと思ったけれど、「まえがき」の部分がおわり、本文になると、ナレーションのスタイルが変わった。一語一語をしっかり区切るような、ゆっくりした話し方だ。多分、ダライラマが英語で話している時の音声をイメージしたのだろう。伝統的なお経のスタイルを意識しているのか、繰り返しも多い。ホプキンズがどんな人なのかわからないけれど、器用で才能のある人に違いない。
チベット仏教の普通の「勉強」は、書物を読むことはもちろん大切だが、「講話」を聴くことも奨励されている。そういう意味で、「話された」言葉をもとに書かれた『Advice on Dying』は、聴くのにふさわしい文章だ。
市立図書館に置いてあるくらいだから、この本は一般向けだ。誰でも必ず死ぬのだから、そのためのアドバイスというのは需要があるだろう。ただ多くの人にとって(私にとっても)、この本は「マニュアル」というより「参考書」だと思う。こうすればあなたも…という類の本ではない。もちろん、普通の人が実践できるようなアドバイスもたくさんある。でもそうではない部分について、ダライラマはいちいち「これができるのは、きちんと修行を積んだ人だけです」とクギをさしている。そうしたいと望むのなら、一刻も早く修行を始めなさいと言いたいのだ。だから、修行する気のない人にとっては、この本の半分は「絵に描いた餅」である。
それでは、残り半分、食べられる方の「餅」は、どんななのか。たとえば、ダライラマは「死」とか「老い」といった言葉や話題を避けないことを勧める。私たちの日常でそういう話題を避けるのはそれなりの配慮があってのことだが、たとえば終末期のがん患者がいる時に、あたかも病人が死なないかのように周囲の人たちがふるまうのはおかしいと、ダライラマは言う。
そこまで極端な状況でなくても、たとえば、私はもうすぐ56歳になるが、同年代か年上の人から「あなたはまだ若いから」と言われることがある。確かにその人よりは年下かもしれないが、この年で「若い」というのは何か変だ。これは私が女性であるということに配慮した結果で、私も「若い」と言われればうれしいけれど、いつもこんな話し方をしていると、自分はいつまでも若い、そして若いのはいいことだと思い込んでしまう。自分が年取っていつか死ぬということは明白なのに、それを便宜的に無視するのがだんだん上手になる。そんな状態で、本当に死ぬ時に素直に納得できるわけがない。
死に方も、ある程度までは自分でコントロールすることができる。事故死や殺害など、不慮の死の場合は致し方ないが、そうでない場合は本人が選択できる部分もある。修行者にとって、死は空の概念を理解し思惟を深める最大の機会であるので、それを十分に活用すべきなのだそうだ。そのためには死に際して意識を保つことが必要なので、ダライラマは大量の鎮痛剤の投与や、薬剤を使った安楽死は勧めない。ただ、身体的な苦痛が明晰な意識の維持を妨げる場合はその限りではないと付け加えているのが印象的だった。言葉で決めた「規則」には適用の限界があり、いつも例外がある。
また、瞑想している状態で臨終を迎えることを勧めている。取り立てて心配することのないいつもの生活でも、瞑想を忘れるなんてしょっちゅうなのに、もうすぐ死ぬという時に瞑想する心の余裕なんてあるわけないでしょう、と思う。だから臨終の人の耳の近くで、亡くなる人が信教上大切に思っている言葉を静かに語りかけて、そういう態度を忘れないようにしてあげなさいとダライラマは言っている。今この文章を読んでいる人は、自分が死ぬ時に耳元でどんな言葉を囁いてもらいたいか、考えてみたらどうだろう。言葉が決まったら、それを誰かに伝えておいて、本番の時に囁いてもらえばいい。
臨終を迎える人はそういう大切な時間を過ごしているので、お別れはその前にすませるよう勧めている。お別れのあと、死のプロセスが始まったら、死ぬ人の周りで大声で嘆き悲しんだり、体に触ったり、病室の中でテレビをつけたりするのはよくない。これはよくわかる。私だって、瞑想している時に近くで誰かがテレビを見ていたらイヤだ。