『辰野登恵子アトリエ』三上豊編・著、桜井ただひさ撮影、せりか書房、2017年



アトリエ---「死者」の遺せしもの

2014年、画家・版画家の辰野登恵子が転移性肝癌のため64歳で逝去した。辰野は1980年代に抽象と具象のはざまにあるような油彩作品でスタイルを確立した画家だ。美術館での展示経験も多く、2003年からは多摩美術大学で教鞭を執り多くの後進を育てた。現代美術界ではその名を知らない人はほとんどいない巨匠のひとりである。
デビュー当時から高い評価を得て精力的な活動を展開してきた辰野だが、とくに大学勤めが始まってからは制作基盤の見直しを考え始めていたようだ。腰を据えて制作に臨める新しいアトリエを欲し、杉並・下井草の閑静な住宅街に念願となる半地下構造の住居兼アトリエを新築したのは、辰野が逝去する8年前、2006年のことだ。

約64平方メートル(20坪)の広さを誇る木造アトリエは、通常より厚みのある「ツーバイシックス(2×6工法)」という壁材で頑丈な構造となるよう建設された。室内に柱を立てず広々としたスペースを確保するための選択だったと思われる。天井も3.8メートルの高さがあり、自然光が十分に注ぐよう北向きの天窓が取り付けられた。大画面を手掛けることが多い辰野にとって理想的な制作環境であったに違いない。
実は、このアトリエは画家が逝去して2年が経った2017年秋の時点でも、遺族がライフラインを保ち維持管理にあたっている。未完成のキャンバス、画材一式、蔵書の類など、遺品のほとんども手つかずのまま遺されている。アトリエは画家がいつ帰還してもおかしくないと錯覚させるほどに日常の延長戦上にある。

制作の痕跡と生活の香りがいまだ生々しく残存した画家本人不在のアトリエ。この場に分け入った者は、この家の主がもはや「死者」である事実をにわかに受け入れがたく感じるだろう。死者の遺品整理の問題はいつだって遺された者たちの頭を悩ませる。辰野の場合、生活感がいまだ濃厚なままなのだから尚更だ。片付けてしまいたくない。あるいは、勝手に片付けられない。遺品の重みが生者を圧迫する。遺された者=「生者」は「死者」の遺した事物にどう向き合えばよいのだろうか。


「アトリエ・ドキュメント」---辰野登恵子

今から紹介する『辰野登恵子アトリエ』(せりか書房、2017年)は、この問題に「アトリエ・ドキュメント」という手法を通じてひとつの応答を示した書物である。制作にあたったのは美術関連の書籍や雑誌を手掛けてきた編集者の三上豊。辰野とは同世代であり、おそらくは同時代の美術界の空気も共有するところが多かったはずだ。
アトリエがまだ「生きている」あいだにできることは何なのか、遺品が整理されてしまわないうちにアトリエから何かを読み解くことはできないか。2017年、三上はカメラマンの桜井ただひさと共に辰野のアトリエを訪れ、室内風景や遺品を取材した。

「アトリエ・ドキュメント」とは何か。それは、ある美術家像を記録・検証するために、作品そのものではなく、その周縁にあるものを通じて読解の手がかりを提供するアート・ドキュメンテーションの一種である。通常のアート・ドキュメンテーションでは作家の年譜や参考文献、展覧会カタログといった資料類が主に参照されるのだが、三上の「アトリエ・ドキュメント」のユニークさは、紙資料の類でなくアトリエを作品の「周縁領域」と捉えたことにある。アトリエ内の事物もいわば作品を読み解くための「資料体」だ。つまり、「アトリエ・ドキュメント」とは、制作現場の時空間を一冊の書物に編み上げる試みなのである。

「記憶」から「記録」へ。アトリエの時空間に記録的表現を与えるにはどうすればよいか。「アトリエ・ドキュメント」はこうした問題意識のもとに始まっている。そこでいくつかの方針が定められた。まず、人物や作品そのものではなく、アトリエに遺された「事物」(具体的には、画材一式、作品など)に焦点を当てること。観察の視点をなるべく客観的にして解釈の余地を広く取っておくために、それらを「ヴィジュアル主体」で記録すること。同時に、観察者としての自分がいまそこにいることも「目線」としてきちんと示すこと。アトリエ風景、画材一式に加え、蔵書の類も「書棚に本がおさまったままの状態」で撮影し、「ヴィジュアル主体」で遺品やそれを取り巻く環境の表情を読者に伝える。視覚情報で後世に画家の面影を残す。テキストによる解説は最小限に留められている。
ヴィジュアル主体で構成される「アトリエ・ドキュメント」の試みは、以前から三上が私費を投じて行っていたことである。第1弾は、同じせりか書房から2016年に刊行された『麻生三郎アトリエ』。本来なら部外者は立ち入って見ることができない「制作まわりの細部」にも着目し、絵具がこびりついた床や壁、へこんだチューブ、使い古した絵筆やパレットなどを記録した本だ。写真はクローズアップが多い。文字情報では伝えきれない事物に宿る体温のようなものを記録する狙いがあるのかもしれない。あたかも遺跡の発掘を思わせるこの所為を、同書では「アトリエの考古学」と呼んでいる。


記憶と痕跡---モザイクのようなドキュメンテーション

「アトリエ・ドキュメント」の第2弾にあたる『辰野登恵子アトリエ』もまた、ヴィジュアル主体で見せる演出は同様である。本書は3章構成だ。まず、アトリエ風景や書棚のラインナップを写真で紹介する第1章。代表作の図版と画家のコメントをまとめた第2章。そして、画家の足跡とアトリエ建設までの経緯をまとめた編集者=三上のテキスト。アトリエ竣工直後のスナップ写真やアトリエ平面図を合間に挿入するなど、「周縁領域」としてのアトリエを多角的に捉えるポイントも随所に仕込んである。


「美術についての多くの本は、内容的には名作の解説や伝記が中心であり、専門的かつ大部なものが多い。また、形式的には作品図版からなる個人画集や美術全集、図録などが一般的である。そうした書物とは異なるフィールドを模索するなかで、同時代の美術のシーンを取り上げ、文献を狩猟し、アトリエの細部を注視し、浮かび上がってくることを編集し、記録する。そうしたモザイクのようなアート・ドキュメンテーションを試みてみた。」(「制作ノート・謝辞」より、111頁)。


「モザイクのようなアート・ドキュメンテーション」とは言い得て妙だ。ただアトリエの様子を写しただけの写真集とは異なり、本書は画家と作品の痕跡を章ごとに異なる表情で構成し、在りし日の作家と作品に思いを馳せさせる素材を提供しているのである。

麻生のアトリエが老朽化の進んだ建物であるのとは対照的に、辰野のアトリエは、住み手がもうこの空間にあらわれないという実感が抱きにくいまでに「新しさ」が際立っている。逝去の8年前に建設されたアトリエとは言っても、闘病で制作ができなかった時間が長かったため実質3年半ほどしか部屋は使用されていない。絵具が飛散した床は別として、壁も天井も白く冴えたまま。アトリエ内も綺麗に整理整頓されている。壁に立て掛けられた描き途中のキャンバス、イーゼル、大画面に挑むための脚立、画材を仕舞うキャビネット、小箱にきちんとおさめたオイルパステルやチョーク、使い込まれた筆や刷毛。すべてが絵を描く目的だけに奉仕するものだ。事務連絡用の付箋やエクセルの管理表などが夥しく貼られたデスク周りは事務的な印象さえ漂い、装飾的なインテリアの類といえば、洗面台にある丸鏡と照明しかない。制作に必要なもの以外、余計なものがほとんど置かれていない空間は、制作に実直に取り組む画家の「個性」をあらわしていると言えよう。

画家の「個性」は、彼女の「手」にもっとも近かった事物、すなわち画材にも伝染する。ドローイングを描くときに用いた色とりどりのオイルパステルやチョークは画家の画面を彩る鮮やかな色彩そのものだし、絵具が撒き散らされた床までもが絵の一部分で画面と連続しているかに見える。さらに、主体を失った作品の面影はアトリエの外にまで溶け出し拡がっていく。本書の始まりと終わりがアトリエの玄関前に植えられたミモザの木の写真で統一されているのは象徴的だ。始まりのページを飾るミモザの鮮やかな黄色い花には「辰野が好きだったボナールの絵を思い出させる」とキャプションが添えられている。青空をバックに鮮やかに映えるミモザの黄は、確かに20世紀フランスの画家ピエール・ボナールの絵画を彩る色彩にそっくりだ。他方で、最終ページのミモザの木は初夏に撮影されたものなのだが、玄関の門を覆うまでに生長したミモザの緑葉もまた、辰野の絵画にあらわれる伸びやかな形象の生き写しに見える。ミモザの木は画家の霊感の化身であったのだろうか。


「こぼれ落ちるものの発見」

アトリエとそれを取り巻く環境が、本人の作品やそれらが醸し出す「個性」と限りなく似てしまうということ。というよりも、「似ているように見えてしまう」ということ。おそらく画家が亡くなったという事実が、画家ないし作品の面影が周囲に転移したかに見えてしまう錯覚を余計に引き起こしているのだ。これは感傷なのか、それとも、作家・作品のイメージと同様、アトリエに遺されたもののイメージも壊さないように守り、圏域として維持しようとするひとつの「理解」のかたちなのか。
他方で、本書のユニークさは、「いかにも辰野登恵子らしいイメージ」からはみ出すものも拾い上げていることにある。たとえば、アトリエの片隅に何故か紛れてある汚れたテディベアの縫いぐるみ。スポーティーなデザインが目を引くナイキエアウーヴンのスニーカー。思い描いていた作家像からこぼれ落ちるものの発見にも「アトリエ・ドキュメント」の醍醐味はある。というのも、「予想外」の要素に出会うとき、作家・作品とそれを解釈する者の決して完全には重なり合わない関係性がはじめて意識されるからだ。


「誤解」そして、不可能性・限界性の副産物としての「色気」

デザインにも注目しておきたい。本書では章を区切る中扉にターコイズ・ブルー、マゼンタ、エメラルド・グリーンといった鮮やかな色彩がふんだんに使用されている。A4判のハンディ・サイズで手に取りやすく、全体的にポップなつくりだ。辰野のカラフルな絵画作品を意識してこのようなデザインが意図されたのだろうが、個人的にはこうしたポップな色彩の多用がやや浮き気味に感じられた。編集者=男性が辰野の「女性作家」としてのイメージに過剰に反応しているように思えるのだ。作家・作品を完全に理解しきる受け手がいないのと同様に、男性/女性という関係性も重なり合うことはない。「誤解」というものは無意識レベルでも必ず生じてしまうのである。

しかし、「誤解」はむしろ、解釈の多義性を別の場所に開くための必要悪と言えよう。両者の関係性は、そもそも完全に重なり合うことなどない。「生者」と「死者」、「男性」と「女性」、そして作品とそれを受け取る者。完全に重なり合わず誤解が生じるからこそ、そこには「色気」が生じる。解釈の不可能性・限界性の副産物として「色気」がある。言い換えれば、「色気」とは誰かに向かおうとする欲望の微かな漏出のことである。だから、本書のやや浮ついたポップさも、「理解」だけでは生まれなかったであろう魅力のひとつとして受け取ることができるのではないか。

ある作家の生と作品を後世に伝える「アトリエ・ドキュメント」の試みには多くの道筋がある。『辰野登恵子アトリエ』は、その道筋が必ずしも生真面目な「理解」だけではないことを教えてくれる、明るく柔らかい光が行き渡った一冊である。


(編/構成:東間 嶺 @Hainu_Vele)