わたしの頭は批評とは何かという問いにこの5年くらいかかりきりになっていた。批評の原点を考えると、まず哲学ではcritiqueということばがあって、これは批判と訳されることが多い。この哲学を源へとたどると、神学にたどり着く。神学について学ぶには、マクグラスの『キリスト教神学入門』が適当だ。ユダヤ教の異端であったイエスの考えがどのように理論化されていったかということがこの一冊でかなりの部分まで分かる。残念ながら、翻訳はいかにも学術書における直訳文体であまりこなれていないので、英文が読解できるという方は、邦訳ではなく、原著にあたられることをお勧めする。

それはそうと、このマクグラスの大著が教えてくれるのはキリスト教神学というのは、あくまでも神が存在するということを前提とし、それを確からしくするための長大な試みの連続であるということだ。つまり、これをキリスト者でないものから見ると、神学というのはほとんどイエスのための屁理屈の体系である。これはたいていの宗教に当てはまることだろうが、このキリスト教に対する批判精神が結実し、哲学はうまれた。新しい哲学が常にその前の哲学を批判する、反哲学的な考えのバリエーション/営みであったことを考えると、これら形而上のさまざまなことがらは、無から有を生じせしめるロゴスの原理によって培われてきた無辺の言い草なのである。そう、それらはみな言い草の群れである。

この世界では、立派に太く長く育つ樹木が愛でられ尊ばれる。わが国では神木などと呼ばれてあがめられたりするほどだが、無辺のそこここに生える雑草は常に疎んじられ、引っこ抜かれてきた。哲学をする人間というのは実に野暮なのだ、という支配的な観念はいつの世も変わらない。しかし、そこに真実があると気づいてしまった、あるいは予感をするいくらかの人々はその小さな空き地にくりかえしくりかえしひきつけられ、テキストをクリティークせざるをえなくなる。小さな雑草が生えるたびにそれをよく観察し、引っこ抜き、標本にして、その解説を書き溜める。そんなテキストクリティークという行為の原点は、むろん、聖書註解に象徴される聖書文献学にあるのだ。批評を書きたいと思っている人にとって、この拙文がすこしでも役に立てばいいのだが。



☆邦訳 
キリスト教神学入門


☆原著 
Christian Theology: An Introduction