どうも、管理人です。東間です。前年の師走、12月22日にフィルムアート社から発売された荒木優太の新刊『貧しい出版者 政治と文学と紙の屑』ですが、日経の書評などでも好意的に紹介されているのは既に皆さんご存知でしょうが、それ以外も著者本人へTwitterなどでさまざまな感想が寄せられています。

今回は、その中から蓮実さんという方のレビューをご紹介致します。蓮実さんは、『貧しい出版者』がとある条件を満たしていれば、昨年の文芸書界隈では売り上げ&話題度かなり上位の千葉雅也『勉強の哲学』を超えるベストセラーになったであろう、と仰っています。

さて、その条件とは?
以下、お読み下さい。


蓮実円『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』について


本書は、ツイッター(SNS)で他者と簡単につながれる時代に、いまだに紙の本を好んで読んでいる人たちの必読書といっても過言ではない。立ち読みの機会があったなら「新序文」「自費出版録」「あとがきふたたび」だけでも読まねばならない。

もし本好きを自認するのであれば、それは義務である。

特に「自費出版録」はこれから自費出版をしたいと考えている人だけでなく、「なぜ私たちは書くことを(読むことを)諦めてはならないのか」について大きな手がかりを与えてくれるだろう。そう、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』が私たちを鼓舞し励ましてくれたように。

そして「小林多喜二と埴谷雄高」が突出して凄いのは、左翼(政治組織)の内部構造が宗教組織のそれと酷似していることを、非常にわかりやすく描き出してみせたことにある。

本書を読んでいるときに、私は2,3の新興宗教を想起せずにはいられなかった。常々政治活動は宗教活動と似ていると思っていたのだが、その理由が簡潔に解明されてしまった。詳しくは読んで感じてみてほしい。

私は昔の日本の左翼について全く知識がないが、読み進むにつれておおまかな内部事情は理解することができた。というより、左翼か右翼かという比較は本書ではまったく意味をなさないし、知識のあるなしも本書の読解にはなんの支障もきたさないと言ったほうが正しいだろう。

本書では「プロレタリア文学はコミュニケーションと共にある文学でなければならない」問題について、多喜二と埴谷を対比させて論じている。

キーワードは「リーダビリティ」と「コミュニカティブ」だ。
  
私は小林多喜二についても『蟹工船』も読んだことがないくらい何も知らないに等しい。翻って、埴谷雄高に関しては『死霊』のほかにも主要な著作、エッセイを愛読しているため、おおまかな主張はわかっているつもりだった。

そんな私でも、本書を読んでいるうちに、次第に多喜二のほんとうの庶民に寄り添う小説家としての姿勢に惹かれ、初期作品から順に読んでみたくなったし、埴谷の「難解な漢字と冗長な文章によるノンリーダビリティ」な書物が、あらかじめ「読めない読者」を排除する構造になっていることに違和感を覚えるようになった。といっても埴谷の思想や『死霊』が好きなことに変わりはない。
  
また、テクストの流通と遺産としての価値を信じている埴谷と、テクスト流通の不可能性とテクストの傷つきやすさ(損なわれやすさ)を案じている多喜二の違いも面白い。
  
埴谷はその悲観的な身ぶりのわりに、書物の永遠性や未来の読者の存在については驚くほど楽観的なのだ。しかし、権力者の目を逃れるために読んだらすぐ破棄されるメモや、作者不詳のアジビラを書いてきた多喜二は、テクストが正しく配達されることを心から信じることができない。

これは重大な差異である。
真摯な書き手にとっては、他者に向かって書くことを続けるか止めるかの分岐点に立たされるくらいの差異である。

小林多喜二と埴谷雄高をめぐる本書の論考は、二人の在り方を問うだけでなく、書き手の在り方を問うてくる。
書き手とは作家だけを意味しない。Twitterで呟く、Facebookに書く、Instagramに投稿する、すべてが「書き手」によるものだ。たとえ「書き手」がそう思っていなくとも。

最後に本書の欠点をひとつ挙げておこう。

多喜二のように「アクセシビリティ(接近可能性)」を高めたはずのこの本も、実のところ「リーダビリティ(読みやすさ)」はそれほど高くない。

もしリーダビリティが高かったならば、『勉強の哲学』を超えたベストセラーとなったことだろう。



寄稿者:蓮実円

文学と哲学が好きなパートタイマー。ここ何年か本はすべて図書館で借りて読んでいるため、本を買う以外に応援したい著者へ貢献できる方法がないか模索中。


(編/構成:東間 嶺)