2018年1月21日(日)午後3時半過ぎ、飯田橋のトッパンホールへ。瀬川裕美子さんのピアノリサイタルに足を運ぶのは2度目です。前回は2016年6月11日(土)肥沃の国の境界にて〈線・ポリフォニー⇒…! ?〉でしたから、もう2年も前です。その感想は当時Facebookにも記しました。が、自分なりに上手くまとめきれなかったと無念が残ります。あれから2年。瀬川さんはどっしりとした大樹のような、大きな柄(がら)を持つご自分の音楽を打ち立てられたんだな、とぼくは確信しています。約80分間のステージに満ちる、彼女の圧倒的な音楽の力に釘付けになりました。
2年前よりずっと素晴らしいのは、もちろん彼女のピアノの技倆と表現力が絶え間ない精進の結果向上したことが最も大きいのでしょう。しかし、もしかすると聴き手のひとりであるぼくにも、彼女とは比べ物になりませんが、ささやかな進歩があったのかもしれません。それは具体的に言うと、音楽に対する耳のひらき方が変わったということです。それまでいわゆる現代音楽にほとんど触れていなかったのですが、瀬川さんとのご縁がもたらされた場(学芸大学に在ったBuncademyという音楽スクール)に4年間通うことで、いちリスナーとして、現代音楽の見習いの立場に達したのだと思います。そこに集う仲間たちから得たさまざまな知見と、わたしたちが敬愛する近藤譲先生から学んだ、深く、途切れない音楽へのたずさわり方をこれからも大切にしたいです。
さて、瀬川さんがバッハBWV1080 第1曲のあと、リサイタル前半で演奏されたブーレーズのソナタ第3番「トロープ」と「コンステラシオン」を聴いているうちに、自分の中で明確に見えてきたものがありました。それは彼女の鍵盤へのタッチに複数のレイヤー(層)が存在するということでした。そのタッチによってピアノ(スタインウェイD-274)本体の鳴動が大きくコントロールされているのが、聴覚から分かったのです。とても直感的な発見でした!タッチのバリエーション。音の強弱、音量、長さ。それらが、融合し、そこにひといきに貫かれた、聴く人の心を励ます音色が形成されるのです。そして、瀬川さんがペダルを踏み切るときの潔い、音との別離の感覚。その行為は、いわば音楽の生と死を司っています。ある程度の長さを持って減衰していく音が、勇気を持って断ち切られるその瞬間がリサイタルの中で幾度もあったのですが、そのたびに心を打たれました。瀬川裕美子というピアニストは、2年前より確実に、音楽に意志的に立ち向かっている…そう思わずにはいられなかったのです。
前半でぼくが一番心打たれたのは、メシアンの「火の鳥1・2」です。両腕で次々と絶え間なくトーンクラスターを繰り出す瀬川さんの姿がまるで勇ましい格闘家のように見えました。鍵盤を拳で殴っているのではないかと思わせるような音の塊がみっしりとぼくの脊髄に集まってきて、その熱は脊髄を上昇して脳に至り、そこに詰まっている(脳)みそをグツグツと陶酔させました。それは、ほとんど温泉のヴァイブレーションでした。名湯が持つ独創的なリズムがぼくの全身に響き渡り、深いリラックス感がもたらされました。瀬川さんはあんなに力強く巧みに鍵盤と向き合っている…そこから醸し出される、精神を鎮める振動。それを、まことに有り難く頂戴しました。ぼくは現代音楽はとても高度かつ難解に組織された秘境的な音楽で、聴き手の存在を根幹から揺さぶるような動的なリズムとは無縁なのではないかと勝手に思い込んでいたところがありました―おそらくそういった偏見をひとつづつ壊してゆくために音楽を聴いてゆくのだとも思いますが。その間違いがこの演奏で解かれました。音楽が円環を描いて無限に、そして絶え間なく回転しているような、底板のしっかりした力強さに満ちた演奏でした。それは瀬川さんが委嘱された鈴木治行さんの「Lap Behind」にも通じる、音の反復がもたらすイメージのひとつなのかもしれません。
2016年のプログラムでも感じたのですが、瀬川さんの選曲・構成の巧みさも指摘しなければなりません。現代曲といわゆるクラシック曲が混在された演目は、現代のDJ文化がもたらしたわたしたちのふだんの音楽リスニング方法に通じる点がありながら、同時に非常に深く時間と手間をかけて熟考され、強い意志としなやかな感覚を併せもって選び抜かれています。その情熱は、長大かつ繊細な視点のあふれるプログラムノートに詳しいのですが、そこには彼女の音楽に立ち向かう、より広く音楽を掴み取ろうとする気高さと、聴衆が彼女の音楽を少しでも深く理解することに、親身に助力しようとする姿勢が満ちています。ご参考までに、ここに少しだけ引用します。
『ドゥルカマラ島』(引用者註 パウル・クレーが発表した1938年の絵画作品)の中央の白い瀕死の顔は、ひっくり返すと"d"・・・。西洋音楽史の中で、長い間記譜されてきた、讃歌ともレクイエムともなってきたd(ニ調/短調)。本日のプログラムの道標となる"d"。(略)メシアンの"各種各様の重ね合せ"、ブーレーズの"管理された偶然性"、クセナキスの"音響の雲"、鈴木治行氏の"記憶の泡"と、複雑な様相を、別次元の"d"として浮かばせたい。すべてに必ずしもあるわけではないが、何か背後で不変に続くもの、意識の外側の領域でも鳴り続けているものとして・・・。
(瀬川裕美子 ピアノリサイタルvol.6 ドゥルカマラ島~時間の泡は如何に?d→d プログラムノート p.6より)
リサイタル後半のプログラムは順に、モーツァルトK.396、クセナキス「ヘルマ」、武満徹「雨の樹素描」、シューマン「暁の歌」op.133、武満徹「雨の樹素描2」でした。どうしても印象に残ったのはシューマンの曲です。全5楽章で構成される「暁の歌」を聴いている間に、「瀬川さんの音楽に、魂をチューニングされている...!!」という思いに至ったのです。この曲は第1楽章と終楽章でコラール的な旋律が奏でられるので、教会音楽のイメージから至った我ながら安易な心象だとも思います。ですが、この「暁の歌」という作品は人が生きていく上で味わう歓びと苦悶に満ちながら、同時に優れた音楽の根本に満ちる生の躍動を象徴していると言えるのではないでしょうか。ぼくはこの曲に、プログラム全体に通底する宇宙―生と死を経巡り(へめぐり)続ける世界―への眼差しを感じたのです。
多くの音楽愛好家が心の底で求める、全人的な質のある根源的な癒やしは、彼女が奏でたような意志的かつ高潔な音楽のもつ、緻密に編まれた生命からこそ導かれるものなのかもしれません。瀬川さんの次の演奏を聴ける機会を心から楽しみにしています。