※注意。本稿は某ウェブ媒体の依頼に応えて執筆した今年(2017年)を総括するブックレビューであるが、公開の直前に、本を褒めていないため、という理由で、掲載不可の憂き目にあってしまった。リライトをするという選択肢もあったが、時間的逼迫と「書評は褒めるだけのものであるべきではない」という筆者の個人的信条から原稿を引き下げた。依然として依頼主に特に恨みをもっているわけではないが、せっかく書いたのだから多くの人に読んでもらいたく、ここに転載する。



 悪いことは悪いことだ。たとえ、それを取り除くのが極めて困難で不可能にみえたとしても。

 田上孝一『環境と動物の倫理』(本の泉社)はピーター・シンガーが開拓した動物倫理学、そこから分枝した環境倫理学をコンパクトにまとめたリーダブルな入門書として大いに学んだ。ビギナー向けにして高い完成度も兼ね備えた伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』(名古屋大学出版会、2008)が既にあるものの、その分厚さといささかの値の張りようから一般読者からは意外と嫌厭されがちかもしれない。本書は150頁・1200円という手頃なサイズで凝縮されたその本質に触れることができる。

 動物倫理学は、大きくいってシンガー流の功利主義的な動物解放論とレーガン流の義務論的な動物権利論という二つのアプローチによって成り立っている。

 快楽(プラス)・苦痛(マイナス)の総量を計算して最も苦痛が少ない帰結を最善のものとする功利主義は、ラディカルに推し進めていけば、その勘定の範囲をヒトという種に限定させずに動物一般にまで拡張するように命じる。もし、言語が扱える、だとか、理性がある、といった特徴で人間だけを特別視しようとするならば、赤ん坊や障碍者を殺してもよいことになってしまう。たとえば化粧品のための動物実験は、(人間の快に対して動物の苦痛が余りに大きすぎるという)バランスを欠いたものであるため禁じられる。

 人格の尊厳だけでは人間の内在的価値を守れないと考える義務論者はより徹底している。植物状態になった病者は思考能力や所謂コミュニケーションの力をもたないが、彼に対して道徳的配慮が不必要だとは思えない。なぜなら彼は生きているからだ。こうして、人格以上に基底的な生命の尊厳を至上価値とする義務論者は――人生の様々な時期に現れる様々な状態に対応するためにも――、動物園や競馬といった動物に対する不当な取り扱いに異議申し立てをせねばならない。

 動物倫理を無視できない厄介なポイントは、これら道徳律は動物愛護精神で駆動しているのではなく、人間のなかの――事故による欠損、病気、老化、等々によって――ときおり全面化するゾーエー=生命維持的な活動を道徳的に引き受けようとすると、必然、特別な理由がない限りそれは他の動物にも適用されねばならない、という論理的一貫性によって要請される、ということだ。もし動物倫理など欺瞞であるとつっぱねていいのならば、欠損者や病者といったノーマルな人間像から乖離した存在者を倫理の範囲から除外してもいいことになる。或いは、ヒトだけは丁重に扱い、そうではない小動物ならば虐待も問題ナシとする種差別主義に居直るか。現在の我々の道徳感覚はこれを許さないだろう。

 おそらく多くの人々にとって最も挑発的に響くのは肉食禁止の提言だ。なぜ痛みを感じる生きた動物を殺して食べてもよいのか。別のものを食べても我々は生きていけるというのに。田上は、スローフード運動やビーガニズムと区別された、倫理としてのベジタリアニズム(できるだけ肉食を抑制する主義)を動物倫理の身近な実践例として提唱する。喫緊の課題は、肉食そのものというより、大量消費社会に順応した畜産システムにある。仮に牛肉をどうしても食わねばならないとして、その事実は毎日欠かさず大量の牛を屠殺せねばならない現代社会を正当化させるだろうか。肉中心のライフスタイルを見直すことで屠殺量を少しずつ減らしていくという目標には十分な実現可能性がある。

 田上自身、肉断ち生活を始めて久しいという。その背景にはマルクス哲学・社会主義を研究してきた著者の来歴がある。実はこの個人史と倫理的実践の繋ぎ目にこそ類書にはみられない本書のもっともスリリングな読みどころがある。資本主義による環境破壊は、持続可能性のための社会革命を求めるが、それが倫理である限り理論の精緻化だけでなく具体的な実践にも結ばれなければならない。主張に同意するかは別としても、この貫徹への迫力には心を揺さぶるものがある。

 日常の何気ない小さな消費行動を少し変えるだけで、我々の社会は少しだけ変わっていけるのかもしれない。肉食の問題だけではない。出版も同様だ。そこで、内田樹の新刊『街場の天皇論』(東洋経済新報社)である。

 断っておくが、私はこの本をまったくオススメしない。内田の著作がある時期から同一内容の粗製乱造を繰り返していることは既に多くの読書人に知れていることだが、それを鑑みたとしても、従来通りブログ「内田樹の研究室」で発表した文章を基調に構成された本書は、その主張の是非以前に、一冊の本としてのクオリティが著しく低い。「短期間に同一の主題で受けたインタビューや寄稿ですから、これらが「同工異曲」というよりほとんど「同工同曲」であることをあらかじめお詫びしておきます」(pp.4-5)というエクスキューズを斟酌したとしても、なぜこんなものが、というウラミはどうしても残る。

 さらに断っておけば、私は天皇制は廃止するべきだと思う。天皇制下では、ある具体的な個人に、生殖、つまり子供をつくることを強制させる権力を許容せねばならない。しかし、これは不当である。子供を産み、育てたいと思う感情が人間にとって自然であるように(そして権利として認められているように)、セックスをしたくない、産みたくないという願いもまた尊重されるべき真っ当な人間的感情である。血統で存続する天皇制ではこの感情にかなりの制限を加えなければならない。セクシャルハラスメントが制度的に組み込まれてしまっている。本書で天皇制を容認する旨を論じた内田とは私は大きく立場が異なる。
 
 しかし、以上のこと、即ち粗製乱造と政治的見解の相違を無視したとしても、我慢できない案件がある。

 内田は本書のなかで、安倍晋三首相と現在の天皇(明仁)を対比した上で、後者に或る優位を読んでいる。即ち、天皇は「霊的エネルギー」なるものにおいて安倍をしのいでいる、なぜそういえるかといえば、安倍は「自分の血縁者だけを選択的に死者として背負う」という「ネポティスト(身内重用主義者)」であるのに対して、天皇は「「すべての死者を背負う」という霊的スタンスを取っている」からだ(p.63)。

 思い出してみれば、内田倫理学は常に死者の問題を脇に据えていた。デビュー作『ためらいの倫理学』では、「英霊」ではなく「名前という汚れ」をもつ兵士を描いた大岡昇平『レイテ戦記』への高い評価とともに、戦没した兵士と対面して日本人自身による哀悼を完了させなければアジアへの謝罪は果たされないと説いた加藤典洋に(その論敵だった高橋哲哉にはない)倫理的可能性を認めた。或いは、『他者と死者』。レヴィナスとラカンが用いる「他者」の語で念頭におかれているのは実はアウシュビッツで死んだ「死者」なのではないか……では、なぜ彼らはストレートに「死者」の話をしないのか? それは生者による死者の「使役」、「死者」をダシにつかった自己正当化を恐れていたからだ。そんな「存在論の語法」が批判された。

 ところで、誰も死者の話などしていないのに、ある主体を勝手に死者の請負人として解釈し、あまつさえ別の主体をその彼をしのぐ弔い人として対置させたうえで「霊的バトル」(p.64)なるものを読んで順位を判定する評論家は、どれくらいあさましく「ためらい」のない「存在論の語法」をもてあそんでいるのだろうか。このようなあさましさにこそ、大岡昇平やカミュやラカンやレヴィナスは抗ってきたのではないか。

 加藤と高橋の歴史主体論争を念頭にしていただろう、小泉義之の言葉に素直に従うべきだ。「とにかく、死者の名前を思い起こさせないような論争は、およそ無意味な無駄話にしか見えない」(「死者によってのみ、悲惨な生でさえも生者の幸福だと教えられる」、『文藝』、1997・2)――ちなみに、小泉は『他者と死者』に対して既に「師匠としての他者」と「死者としての他者」とを短絡させる手続きに疑問を呈していた、書評「他者=死者か?」、『文学界』(2005・3)――。

 或いは、かつて対談で発言された内田自身の言葉を引いてもいい。「死者に向き合う仕方は本来オリジナルなものを手作りするしかない。〔中略〕どの形式が一般的に正しく、どれが誤っているというようなことを言う権利は誰にもない」(釈徹宗との共著『現代霊性論』、2010、p.187)。

 終戦記念日は当然一日中パチンコに費やして、大当たりで忙しかったから親の葬式にも出なかった人でなしが、飼っていた犬を亡くして、悲しくって悲しくって、弔ったあともやりきれなくって、ふとした瞬間、無意味だと知りつつも、ああ生き返ってくれればいいのに、と、こんこんと祈ってしまう。不思議なことではない。ありふれている。よいことでもなく、悪いことでもなく、単にそういうことがあるというだけのことだ。他人にとってはどうでもいいが、当人にとってはとても大切で真摯な時間が意図したわけでもないのに生まれてしまった、または生まれなかった、というだけのことだ。

 人間、祈るときは祈るし祈らないときは祈らない。

 だからこそ、その祈りを「霊的エネルギー」なる勝手な尺度で他人より高い低い(強い弱い)と測定して悦に入る無作法に明け渡してはならないし、己の属す陣営を有利にみせるために他人の祈りを奪取せんとする言葉の政治家を我々は見過ごすべきではない。

 安倍晋三を批判するなといっているのではない(いうまでもなく安倍政権は悪いに決まっている)。天皇だから慮れといっているのではない(いうまでもなく天皇制は悪いに決まっている)。人の真摯な想いを切り取って、政敵を倒すための刺客として他人が勝手に仕立て上げる非礼は、あさましいことだと申し上げているのである。

 勿論、このように批判したからといって内田は通例のように無視に徹するだろうし、それで構わない。批判に応えない自由が誰にでもある。私が訴えたいのは、読者に対して。下らない本を買わないことで著者にもっとマトモな仕事をさせてあげて欲しい。売れなくなれば編集者は依頼を控え、依頼が殺到しなければ一冊一冊にもっと手間ひまがかけられる。本はインスタント(瞬間)で出来上がる商品ではない。肉食の場合と同様に、小さな消費行動の一つひとつが、実はこの世の運命を左右する実践的な活動に通じている。

 世界に決められるんじゃない、テメーが世界を決めるんだぜ?

 人間でないから配慮されてこなかった存在者の一方で、人間なのに配慮されてこなかった存在者がいる。彼らの待遇改善が簡単にできるとは思わない。けれども、人間的知性の最大の特徴は、人間の世界を超えていける点にある。日本を超えて、現代を超えて、この私を超えて、遠くまで旅することができる。遠くにあるものが正しいといっているのではない。遠くまで行かないと見えてこないものがあるといいたいのだ。そして、正しさを決めるのはその旅から帰ってきてからでも遅くないはずだ。