吉川陽一郎《歩く人》+東間嶺《コウイとバショのキオク---吉川陽一郎》会場風景/撮影:東間嶺
告知:コウイとバショのキオク---吉川陽一郎
今から104年前、1913年(大正2年)の10月16日から22日まで、この『路地と人』のすぐ近く、東京神田三崎町2番地にある画廊『ヴィナス倶楽部』で『生活社主催第一回油絵展覧会』が開催されました。
出品作家は、岸田劉生(22歳)、高村光太郎(30歳)、木村荘八(20歳)、岡本帰一(30歳)の同人4人。
当時、多くの人は、画廊のなんたるかもよく知らず、芸術のなんたるかもよくわからず、きっと訪れる人も多くはなかったでしょう。高村光太郎はその3年まえの明治43年、日本で最初の画廊『琅玕堂 ろうかんどう』を、これも近くの神田淡路町1丁目1番地に作り、経営不振でたった1年でやめています。
百年後のそんな場所に、画廊でもなく、お店でもなく、何ものとも名づけらないようなスペース『路地と人』はあるのです。百年前の出来たての画廊と同じように、相変わらず多くの人は、その何たるかを知らず、訪れる人もちらほらです。
でも私は感じます。私の芸術はここにあると。
なぜならば、私のつくるものは、どこでもない場所にあるこそふさわしく、誰かが名づけなければ見えてこないようなものだから。そして、そこからきっと誰かが必要とするものが、生まれるにちがいないと確信しています。
■ 上のテキストは、公式ブログに掲載された吉川氏によるステイトメントの一部なのだが、かれが書くように、『路地と人』はコマーシャルなアート・ギャラリーではなく、さらには《ギャラリー》という枠に限定されるものでもない多様な側面をもち、ヒトとヒトの行き交う通りのような、内のような外のような、不思議なバショとして運営されてきた。
■ 吉川氏の《彫刻》と、わたしの撮った写真は、そうしたバショに置かれるべく作られ、組み合わせられた。それほど会期は長くないうえ、「もう始まってるじゃねえか!」というアレな状態ではあるのだけれど、ホワイトキューブ---商品化の形式とは異なった美術の有り様を感じ取って頂ければ幸いです。
追記:会期中イベント---【極私的表現史夜話】
会期中毎晩19時より、吉川陽一郎さんによる極私的表現史夜話が開催されます。
1850年より10年ごと、全14回。参加料無料です。
12/2 第1夜 1850-59「赤瀬川原平さんの言葉とクールベから時代は変わる」12/3 第2夜 1860-69「印象派の人々は貧困に苦しみ、日本は明治維新」12/4 第3夜 1870-79「画商デュラン・リュエルと印象派、日本には美術学校できて、なくなる」12/6 第4夜 1880-89「ゴッホが苦しみ、天心とフェノロサが日本美術を・・藝大できる」12/7 第5夜 1890-99「印象派と黒田清輝」12/8 第6夜 1900-09「アフリカ美術と水彩」12/9 第7夜 1910-19「ダダとアメリカの出現と自由民権」12/10 第8夜 1920-29「シュルレアリズムと社会主義と前衛」12/11 第9夜 1930-39「MoMAと軍国主義」12/13 第10夜 1940-49「戦争と芸術と」12/14 第11夜 1950-59「芸術の拡張か解体か 前衛の行方」12/15 第12夜 1960-69「芸術は誰のために」12/16 第13夜 1970-79「芸術の敗北」12/17 第14夜 2017- 「私の思う芸術」
参考---会場風景